July 2008アーカイブ

 この1年ぐらい、Amazon.co.jpで洋書を頼んだときに、「在庫が見つかりませんでした」と帰ってくる率が高まったような気がする。
 外国の本屋で見つけて、「重いからアマゾンで買おう」と思って見送ったことを後悔することも屡々…。

 それと、随分と長いこと『孤独なボウリング』が注文できなくなっている。
 版元に在庫がないということなのだが、結構注目されている著作だし、残念だと思っていたら、町の本屋(高田馬場の芳林堂 )で見つけて購入。
 あと、やはり手に入らなくなっていたラマチャンドランの本はブックオフにて発見。

 ついでに、最近必要になったのだが、やはりアマゾンから手に入らなくなっていた『新・国会事典』も発見して購入。
 悦に入っていたら、第二版が発売されているのを発見。
 うーん、微妙だ。


ロバート・D. パットナム
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V.S. ラマチャンドラン,サンドラ ブレイクスリー
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浅野 一郎,河野 久
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 くだんのデモで逮捕された人々も釈放されたと報告があり、8月2日には「G8サミットを問う連絡会北海道行動報告集会」(@文京区民センター)も開催されると言うことで、一応G8騒ぎも収束の方向といっていいと思う。
 G8に対する対抗アクションを評価する際、もちろん意思表明は重要なのだが、それ以上にサミットやWTO閣僚級会議などにかこつけて、世界の各地から問題を抱えている人々(やそのエージェントとしての社会運動体)が集まってきて、情報交換や意見交換が行われることも重要なのだと考えたい。
 ちなみに、最近はそういうイベントを「オルタナティヴ・フォーラム」とか「オルタナティヴ・サミット」などと呼ぶ。もちろん「サミット(頂上)」ではなくむしろ平原であるべきなので、私は前者の呼び方のほうが好きである。
 そういうなかで今回もいくつか、私にとって大変参考になる、貴重な出会いがあったと思っている。

 中でも興味深かったのは、ATTACフランスからやってきたのは初老の男女二人(たぶんカップル??)である。彼らは、背広の人間が夜の10時にオフィスビルからはき出されるのに驚き、ちょっと怒っていた。
 曰く、「人間にとって自由がなにより大事だ。しかし、知識の伴わない自由は奴隷状態となんら変わりない。だから人間は週35時間以上働いてはいけない。例えば私はすでに退職しているが、彼女は今、公的な職業教育機関で働いている。もし彼女が残業に次ぐ残業で疲れてしまっていたら、仕事が終わった後に世界情勢についての本を読んだり、休暇を取ってこうやって他の国の人々と議論したりする余裕はなくなるだろう」

 一応あとで、「でも、アメリカや日本の偉い人たちは、もし労働者を35時間しか働かせなかったら、残りの時間を無駄な遊びに使うだけだろうと思っているし、たぶんフランスでもサルコジやその支持者がそう思い始めているんじゃないですか?」と聞いてみたところ、ある漁業組合での取り組みの事例を教えてくれそうだったのだが、諸般の事情でタイムアウト。また今度聞いてみたい。

 また、社会運動についても次のように論じていた。
「本当は一番だいじな社会運動は、5〜6人のサークルを作って、毎週社会的な問題について勉強会を開くことだ。そうして、その成果をあつめてパンフレットのようなものを作って配る。今はインターネットもあるし、そういったことは私の若い頃よりも簡単にできるようになった。そういったパンフレットを読んだ友人たちも、また5〜6人のサークルを作り始めるだろう。そうやって普通の人々の知識が向上し、それが選挙に反映されることが大事なのだ。トップダウンで市民を動員したり、政治家に直接影響を働かせようとするのは、純正な市民運動ではない。」

 ちなみに、彼らは今回我々が準備していた声明文にも批判的で、口々に「こういった政治イベントはライムライトのようなもので、そこに注目することでかえって真の問題を隠してしまう」「グラムシが解明したヘゲモニー構造に、社会運動体がいまだにまんまとのってしまうのは嘆かわしいことだ」「我々はもっと、未来に目を向けて生産的な提案に努めるべきだ」と主張していた。

 故ピエール・ブルデューが『市場独裁主義批判』という本の中で「国家の右手と左手」という概念を提示してたことがある。
 右手というのは政治家や高級官僚のこと(そして彼らの中枢はエナルクと呼ばれるENA/国立行政学院の修了者で占められている)で、彼らが自分たちのサークルの利益のために規制緩和などの政策を推し進める一方、医療、福祉、初等中等教育に携わる地方の下層公務員たちが疲弊していく、というギャップを表現した概念である。
 そういう意味では、今回 ATTACフランスから参加してくれた二人は、まさにブルデューのいう「左手」なのであろう。
 正直な話、(上から下まで、公務員スキャンダルが続く)日本の状況では「右手」と「左手」の区別は相対的なものでしかないという印象しか受けないが、フランスではまさにこういった人々が「共和国」の誇りと底力みたいなものを守っているのかもしれない。

 もちろん、例えばムンバイやナイロビのスラムを見てしまえば、「知識の伴わない自由は奴隷状態となんら変わりない」という彼らの素朴なユマニスム信仰を鼻持ちならないヨーロッパ中心主義と退けたくなる気分になるのも事実ではある。
 例えば、日本のそれなりにカネも知識もあるサラリーマンが「奴隷の状態に甘んじている」ということに関しては、彼らにも批判されるべき点がないわけではないかもしれない。
 しかし、世界各地のスラムには、その日ぐらしの労働者や物乞いがあふれているのであり、彼らが恐怖や無力感から逃れるために、その日の多くのない稼ぎの大半を酒に費やしてしまったとして、それが非難できることであろうか?
 また、そういった人々にとってタバコは重要なコミュニケーションの手段(タバコの貸し借りによって一種のコミュニティができあがったりする)であることは想像に難くないが、彼らの収入からすれば極めて高価であるにも関わらず、ほとんど交換以外の価値がない(おそらく有害ですらある)ものに資金を投資することを責められるだろうか?
  では、同様に先進国の金持ちたちが同様の目的のためにダイヤモンドやワインにお金をつぎ込むのは正しいことだろうか?
 また、それらは北米インディアンのポトラッチ(Wikipediaにリンクしようと思ったら項目がない!!)とどのように違うのだろうか?
 こう考えると、経済とは確かに啓蒙主義だけで割り切れるものではないのではないか、という気がするわけである(もちろん、新古典派的合理性ではなお割り切れない、というところはこのフランス人たちに異論はないわけであるが…)。 

 ちなみにATTAC北海道の若い女性が「フランスの公務員ってすごいですね。日本の福祉関係者なんかも、がんばっているのはわかるんですけど、根本的な問題には目を向けないという感じがして、そこがちょっと残念なんですよね」と主張していた。
 まぁ、まさにフランス人の主張するとおり、「週 80時間働かされたら勉強する暇なんかない」ということなんでしょうけどね…。

 
市場独裁主義批判 (シリーズ社会批判)
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 先日の「企業による学生の青田買いが起こるのは誰の責任か?」というエントリーは(若干の改変ののち)NPO法人サイエンス・コミュニケーションのメルマガに掲載されました(まぐまぐ版メルマ版)。
 その結果、首都大学東京のK先生から以下のメールをいただきました。

>首都大学東京では、AO入試の拡大版とも言える、「ゼミナール入試」というの を数年前から試みています。
>http://www.tmu.ac.jp/entrance/outline_fac/tayou.html#zemina-ru
>

 すでに知識が古くなっているかなぁ、という気もしていたのですが、やっぱりそういう側面は否定できないみたいです。
 記事の中にも書いたことですが、そうであるとすれば次にそういった活動の効果とコストに関する調査が必要になるかと思います。
 本当は学術会議がやってくれるのが一番良いのですが、サイコムを使って、そのあたり(手法、成果、コストや問題点など)の調査をしてみるのも一つの手かもしれません。

 ということで、こういった事例や、それについての情報(成果やコスト)をお持ちの方は春日までご連絡いただければ、ある程度集まった段階で、少なくとも前回の記事のフォローアップ記事はサイコムジャパンのメルマガに掲載できるかと思いますし、その発展系も考えられるかもしれません。
 ご協力いただければ幸いです。

Communication Design
 大阪大学CSCDの紀要、『Communication-Design』 [1] 異なる分野・文化・フィールド - 人と人のつながりをデザインする大阪大学出版会から発売されました。
 私に関係したものとしては「科学技術コミュニケーション演習プログラムの開発 CSCD方式の提案」(八木絵香さん小林傳司さんとの共著)と「サイエンスショップにできること 多元化する社会で大学に求められているもの」(単著)の二報が掲載されています。
 また、中川智絵さんらの「サイエンスショップ猪名川・藻川プロジェクト中間報告」は上記サイエンスショップ論文と関係が深いので、併せてお読みくだされば幸いです。


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 前の記事でも触れたスーザン・ジョージの講演をYouTubeにアップしておきました。同時通訳付きで約30分(ファイルは4分割)。
 (しかし、YouTubeへのアップロードを初めてちゃんとやりましたが、意外と面倒ですな…)


 「札幌デモ(チャレンジ・ザG8 市民ピースウォーク7.5)で逮捕者…について」がやや言葉足らずだったとおもうので、少し補足します。

"Challenge the G8 Peace Walk"

1)何故、逮捕者が出たのか?

 今のところ、逮捕はあらかじめ予定されていたものである可能性が高いと思っています。
 もちろん、私自身が一般市民より多くの情報を持っているというわけではない(まぁ、多少はマシかな、ぐらいな)ので、確かなことは言えません。
 ただ、DJの逮捕に関して、デモ申請の時はDJ一人としていたのに、交代のためにもう一人が荷台に乗り込んだ瞬間に「二人乗った」ということで逮捕されたと言うことのようですから、まぁ、狙っていたと考えるのが妥当でしょう。
 また、先のエントリーで示したように逮捕者を出すとしたらサウンドデモ・エリアだ、という配置に最初からなっていたのは明らかなように思われます。


No G8 Action Network Opening Ceremony of the International People's Solidarity Days
 では、何故逮捕者を出したいのか、ということです。
 それは第一に、逮捕というスペクタクルによって、それ以外の抗議活動を隠蔽するため、ということがあるでしょう。
 前日の講演で「債務ブーメラン」などの概念を提唱したことで有名なスーザン・ジョージが強調していたのは「デモは逮捕されないようにやらなければならない」ということです。
 彼女の主張では、デモで逮捕者が出てしまうと、メディアはその瞬間ばかりを放映します。
 G8やWTOの会議のさいは、市民運動側も「オルタナティヴ・フォーラム」と呼ばれる集会を開き、活動報告や政策提言を展開するのが慣例になってきています。
 また、デモでもそういった主張のプラカードが掲げられるので、デモのシーンが一渡り撮影されれば、視聴者はそれを見ることもできます。
 しかし、そういったことはメディアではほとんど報じられません。
 もちろん、これをメディアの責任とすることは簡単ですが、社会運動側の工夫不足もあるでしょうし、なにより「それを報じても視聴率や売り上げは上がらない」という状況があります(こういう言い方が適切かどうかは議論のあるところですが、「視聴者側のメディア・リテラシー」という問題は避けて通れないかと思います)。
 ブロゴスフィアやJanJanのようなネットメディアは多少マシな状態にはありますが、それでも十分な情報が流通しているとは言い難いでしょう。

International People's Solidarity Day

 Mixi日記なんかでデモの報道の感想をつらつらと読んでいたのですが、「デモなんかより公民館なんかを使って議論する時間を作ればいいのに」という提案がいくつか見られました。
 まったく大賛成ですが、実はそれらはすでに行われているのです。
 スーザン・ジョージ、インドでナルマダ・ダム群建設の反対運動の指導者として有名なメーダ・パトカル、第三世界のスポークスパーソンとも言われるウォールデン・ベローなど、国際的に有名な学者や活動家の発言ですら、日本ではほとんど報じられません。
 また、各国の労組、ATTAC、オックスファム、グリーンピース、CADTM、ジュビリーサウスといった団体が代表(その多くは若者であり、またデモにも参加していました)を送り込んできています。
 しかし、それらが報道されることはほとんど無く、逮捕の瞬間にばかり注目が言ってしまうと言うことです。

"Public Meeting against G8 Summit"

 じゃあ、デモなんかやらなければいいじゃないか、という議論もあるかと思うのですが、やはり「人数が集まった」という実績がないと報道もされません。
 また、会議室で理路整然と議論を展開できる人しか社会問題についてクレームをつけたら行けないのか、という問題もあります。
 そういう意味で、デモは「誰でもとりあえず参加でき、不満の意志を示すことができる」という点において非常に有用なデモクラシーのツールであるということはできると思います。

 もう一つには、やはり日本において逮捕されることのコストは極めて高いと言うことでしょう(補足: コストが高いので、逮捕によって一般の人のデモ参加をけん制する効果がある、ということ)。
 通常、先進国において被疑者が理由もなく長期拘留されることはほとんどありませんが、日本では三週間程度拘留されることが一般的になっています。
 これは、例えば三週間職場を休むということを意味するわけで、日本の職場環境を考えれば、多くの場合失職に追い込まれる、かなり高いリスクを甘受しなければ行けないと言うことでしょう。
 また、逮捕即犯罪者、とみる人が大手メディアも含めて少なくなく、それだけでスティグマを背負わされるという事情もあるでしょう。
 鳩山邦夫法務大臣が志布志事件について、「冤罪と呼ぶべきではないと思う」と述べたことが社会問題になったことがあります。
 もちろん、志布志事件に関しては無罪判決が出ており、判決まで罪は確定しないという原則に従えばこれは鳩山氏の言うとおり厳密な意味での「冤罪」ではない点には同意できるでしょう。
 しかし、そうだとすれば国や法務大臣という職にある鳩山氏には、「逮捕や起訴だけでは犯罪者として扱ってはならない」という一般原則をもっと啓蒙する必要があるのではないでしょうか?
 国(や大手メディア)がそういう努力を十分に払っているとは、とうてい思えないところです。
 例えば、デモのときに逮捕されたロイターの記者はすでに釈放し、起訴されないとのことですが、現行犯逮捕であるにもかかわらず起訴されないと言うことは、現場においてなんらかの事実誤認があったということでしょう。
 その点について、警察が釈明も謝罪もせず、またメディアの報道もほぼないというのは、奇妙な状況といわざるを得ません。


2)何故、サウンドデモが狙われるのか?

 やはり「影響力」を重視しているのかという気はしています。
 今回も、踊っているデモ隊が沿道に向かって「いっしょにやろうよ」と声をかけていて、声をかけられた女性二人(たぶん大学生)がちょっと悩んだすえにデモ隊に紛れ込んだというシーンを目撃したので、まぁ、そういうのを嫌っているのかなという気はします。
 今回はそれでも歩道側の警備は比較的甘かったのですが、渋谷なんかでやると、歩道側をきっちり埋めて、むしろ観客が紛れられないように警備をするというケースも見られます(チラシを渡すのも妨害されたりするわけです。しかしそういう過剰警備には「税金の無駄遣い」という批判がほとんど起こらないのは困ったことです)。
 もちろん、一般的な労働組合型の「デモ」で大学生が飛び入り参加なんてことは普通ありませんから、そのへんの「一般市民への訴求力」が公安のサウンドデモへの過剰反応の理由なのかなという気がしています。
 もしそうだとすれば、公安も意外と勉強しているなぁ、という感じがするわけです。
 買いかぶりかもしれませんが…他にこの状況の理由は考えられないよね?

 ついでにいうと、

"Challenge the G8 Peace Walk"

 を見ていただくと、今回逮捕されたのが日本人だけなのが奇妙な感じです(千歳空港の入管で韓国人が一人逮捕されていますが)。
 屋根に飛び乗ってる白人のにいちゃんを公務執行妨害でひっぱってもおかしくない感じがするじゃないですか(そんな理由で引っ張れないだろ、というのであればDJ交代で道交法違反も十分おかしいでしょう)。
 たぶん、今回は「日本人(っぽいやつ)だけ限定的に逮捕」という指令が出てたんじゃないかと思います。
 先に述べた日本の「三週間以上拘束」システムはヨーロッパ諸国からは人権侵害に見えますし、もし外国人を逮捕してそういうことになったら、その国の政府は抗議声明を出さざるをえないということになります。
 それがG8のメンバー国(や、インド、中国、ブラジル、南アなどの准メンバー国)だったりしたら、かなりややこしいことになりかねません。

 なので、少なくとも今回のデモについて言えば(逮捕理由が妥当だったかどうかは別にして)最初からかなり戦略的に練った上で決行された逮捕だったのではないか、と思っています。
 

 ちょっと社会運動づいたので話題転換を…

 毎日新聞に「採用活動:青田買い『学びを奪う』 企業に是正求め、国大協など要請」という記事が出ていた。
 同記事によれば、

 企業の採用選考活動の早期化が大学・大学院の教育に悪影響を及ぼしているとして、社団法人国立大学協会と公立大学協会、日本私立大学団体連合会は9日、日本経済団体連合会など全国140の業界団体や企業に是正を求める要請書を出した。国公私立の大学組織が連名でこうした要請活動をするのは初めて。  要請書は「採用活動の早期化は国際的に見ても異常な状況。貴重な学びの時間を奪っている」と指摘。▽卒業年の当初やそれ以前の採用活動を厳に慎む▽可能な限り休日などに(活動を)実施し、大学の教育を尊重するーーことなどを求めた。

 ちなみに国大協のプレスリリースも出ている(意外と偉い。そういうことはさぼりがちな組織かと思っていたので見直しました)。

 ちなみに毎日新聞の記事では


 国立大学協会は「優秀な学生を取り込もうとする競争が激化している。通年で採用活動することが多い外資系企業にあおられている面もある」としている。

 と述べているが、JCASTの「就職後3年で3割離職 大学生「青田買い」のせいなのか」という記事はでは、

 98年には当時の日経連が「新規学卒者の採用選考に関する企業の倫理憲章」を公表し、「青田買い」を抑制しようしたが、団体に属さない外資系企業などが就活時期を早めた結果、現在のような状況になってしまったようだ

 と延べ、微妙に「外資の役割」の位置づけが微妙に変わっている。
 これはおそらく、毎日の言い方のほうが実情に近くて、別に外資は日本企業に先んじて就活時期を設定しているのではなく、新卒にこだわらない(既卒で半年ふらふらしている人も現在別の企業で就業している人も対象にしているだろうし、場合によっては卒業すら要求されない)ということであろう。
 結局、日本企業は「新卒主義」という自ら決めたルールが足かせになっているにもかかわらず、そのことを無視してもがいた結果、現場の学生が犠牲になっているということではないのか?

 とはいえ、この問題に関して最も罪が大きいのはもちろん、大学である。
 国大協はJ-CASTニュースに次のように答えたらしい(まぁ、信憑性の薄いメディアではあると思いますが、まさかこんなところで嘘はつかないだろうと仮定して…)。

 国立大学協会はJ-CASTニュースに対し、就活が早まった結果起こったことをこう指摘する。早めに内定をもらった学生は安心して講義に出なくなる。内定がもらえない学生に至っては、3年から卒業まで長期の就活をしなければならない。つまり、学業に相当の支障が出てしまっている、というのだ。それ以上に問題視しているのが就職のミスマッチ。

「専門の学業を学び始めた3年の途中で就活が始まり内定が出たりします。企業は『優秀な学生が欲しい』といいますが、何が優秀なのかまだわからない時期。そのためミスマッチが起き、離職率が高まる原因にもなっているんです」

 基本的には同感なんだが、「何が優秀なのかまだわからない時期」であるはずなのに企業側がもう学生の優秀さを判別できると思ってしまっていることが最大の問題だと思われる。
 その理由は? もちろん画一化された入試体系と、その後の大学での課程教育が貧弱なことにあるだろう。
 極端な話、入試体系の信用性を落として、一方で大学の教育能力を向上させれば、「東大に入った」「早稲田慶応に入った」というだけで人材としての質を確定できなくなるので、就職活動を卒業まで待つしか無くなるのが合理的判断というものだろう。
 したがって、大学にとっての教育能力を高めたければ、入試のハードルを下げて(あるいはアメリカの大学のように「のびしろはありそうだがリスクの高い」学生をたくさん取って)、そのかわり卒業を難しくすることで「XX大学卒業」のステータスの価値を上げることだと思う。

 じゃ、何故そうしないかというと、おそらく教育でがんばるのが単純に「めんどくさい」からである。
 基本的に、日本の大学教員というのは研究がしたくてその職を目指した人々であり、雇用のさいの資格も研究能力が厳しく問われる一方、(少なくとも「一流校」といわれる大学のほとんどでは)教育能力はほとんど問われない(うちの大学でも最近あわててファカルティ・ディヴェロップメントみたいなことは始めているが…)。
 だから、元々教育に対しする意識も低いし、往々にして教育能力も高くはない(高い場合ももちろんあるが、そこにスクリーニングをかけていないのだから、高い人ばかりというわけにはいかない)。
 アメリカの大学の人事に関する記事などを読むと、「研究・教育・社会貢献」をバランスよくチェックし、三分野において最低基準を定める足きり的なことは行うにしても、「合計点の高い人」を取るのではなくて、学内での役割分担に配慮して取るように求めていることが多いように思う。
 それに比べると、研究能力、それも「自分で研究を進められる能力」だけを評価する日本の大学の人事基準は、極めて危険である(教授は研究し、学生はその背中を見て育つ、というフンボルト的な大学であればそれでもいいのだが、現代のマス化した大学にそれを求めるのは無理があるし、第一そういう自主性のある学生を取りたいのであればセンター試験方式は適さない)。

 だいたい、大学教員は日本の大学行政や一般市民の理解に文句をいうことが多いが、その一方で、本来自分たちがどれほどの権力を持っているか自覚していないように思う。
 これは、審議会にでるとかそういう話ではなく、「将来ほぼ確実に日本の政治経済の中枢を占めるであろう人材」が極めて無垢な状態のまま丸ごと教育対象にできる、ということを言っているのである。
 わりとすれた学生の多い京都大学ですら、私の知る限り大学一年生のマジョリティは自分がこれからできることに純粋に心躍らせているし、そのなかには当然勉強も含まれている(「研究」でなかったりするところが不満と言えば不満だが…)。
 ところが、一般教養や初級の授業のために大学が用意する部屋は、学生がだんだん減っていくことを想定したものでしかなかったりする。
 例えば、100人登録しているのにどうみても70人ぐらいしか入らない部屋であったりするのである。
 初めのうちは立ち見で我慢していた学生たちも、だんだんとサボる方法を模索し始める。当然だと思う。
 (だいたい、大人数授業など、本来大学にあってはならないのである。そんなものを90分我慢して聞くより新書本を一冊読んだ方がよほど効率がよい。まして今はMITやハーバードが世界のビッグネームの授業を惜しげもなくPodCast配信している時代である)。
 もし、彼らに対するきちんとした教育を行い、学問の魅力と必要性をきちんと教えることができれば(そしてそういう学生たちが社会で活躍するようになれば)、大学の権威が疎んじられることもなくなるだろう。
 ところが、実際は多くの教授たちは教育にほとんど関心がないし、そのわずかな関心も自分のクローンとしての「研究者」を育てるということに集中してしまっている。
 これでは大学に未来がないのも当然だと思う。

 当面の改革案としては、各大学でセンター試験のウェートを下げることや(一芸入試ではない)ちゃんとしたAO入試を行うことである。
 ちゃんとしたAO入試というのは、その人がそれまで獲得した人生経験(ここまでは一芸でもかまわない。アメリカでは「ドラッグから立ち直った」ということさえ「経験」とみなされる)を生かして、どんな研究をしたいかを大学側と一緒に策定すし、その計画自体を評価することである(この意味で、AO入試はロングスパンのサイエンスショップやサービス・ラーニングと見なすこともできる)。

 今のところ、そういうことをきちんとやっていたのは慶応SFC(湘南藤沢キャンパス)だけである。
 ところが、SFCはこの入試業務が教員の負担になってしまうために、教員側の不満が強い。
 アメリカではこの入試はそのための職員が行うことが多い(統計データを調べたわけではないが、彼ら自身も学位を取得していることが多いように思う)。
 つまるところ、教育をきちんとやるにはお金がかかるのである。
 アメリカだって、「私学」ではあるが、学生の授業料収入は(日本の授業料の2〜5倍は取るにも関わらず)全体の総経費の2割前後を支えるに過ぎない(他の主要な資金源は寄付や委託研究、基金運営収益、連邦や自治体からの助成金などである)。
 だから、次に(おそらく国大協などが中心となって)やるべきことは、成功した教育の事例を紹介して、「教育はこうやるとうまくいくが、そのためにはお金がこれくらいかかる」ということを示すことであろう。
 そういった基礎的なデータを示さないで、文句ばかり言っても世間は聞く耳を持つまい。
 また、資金の増加分は(少なくとも部分的には)国費に依存せざるを得ないだろうから、教育能力の向上は国民全体(大学という理念を考慮すれば本来は世界全体)に資するものでなくてはならない。

 私のつとめている阪大は旧帝国大学のひとつであるので、一応(東大・京大ほどではないにせよ)学生たちはエリート候補生ということになるだろうし、確かに(少なくともミッションを明確に提示してあげさえすれば)問題解決能力は極めて高い。
 おそらく、社会は彼らをそれなりの待遇で遇するべきだろうし、教員サイドの責務としては、その潜在力を引き出してやるように努力することであろう。
 ただ、学生たちと話をしていて違和感を持つのは、「これまでがんばったから、それなりに良いところに就職できるだろう」というようなディスコースを、少なくない学生が展開することである。
 もちろん、そういう言い方も間違いではないのだが、厳密には大学が彼らの入学を許可し、学習の支援を与えているのは「がんばったから」ではなく、「今後社会にとって有益な活動を行える潜在能力を認めている」からであり、学生たちは(どんな方法でかはそれぞれの思想や能力によるであろうが)将来の社会貢献という責務を負っているのである。
 今のところ、そういう説明をきちんとすれば、一応(少なくとも理屈の上では)多くの学生は納得してくれているように思う。
 逆に言えば、いままでそういう説明に、彼らが出会うチャンスがほとんど無かったということでもあろう。
 
 ということで、もし大学の社会的影響力を上げたければ、大学は社会貢献を委託されているのであり(かつ、それは開かれたものでなければならない)、また大学を出た学生たちの能力それ事態が一種の社会貢献であるということを、社会にきちんと訴えなければ行けない。
 また、そういった「能力」というのは決してタダではなく、大学の維持費という形で直接に支出する(雑ぱくに言うとヨーロッパ型)か、奨学金という形で個人に支出するか(雑ぱくに言うとアメリカ型)の違いはあるにせよ、どこかで経済的な帳尻を合わせないと行けないということも言わなければ行けない。
 これまでの歴史的経緯から、日本の大学人に関して言えば、右派は前者(「社会」について語ること)が嫌いで、左派は後者(「経済」について語ること)が嫌いである。
 この分断をきちんと修復し、政治的立場によらずして合意できる大学像を提示し(もちろん、合意できないものまで無理に合意する必要はない。そこは多様性という問題である)、それを実現するには社会からどういう支援が必要か、訴えていく態度がないのが、日本の大学の最大の問題であり、これに比べれば「学力低下」なんてのは二次的な問題に過ぎないだろうと思っている。

※実は、今回の洞爺湖サミットの抗議活動に来ていた海外からの参加者と話していていて、こういった見解は強化されたんですが、その話はまた次の記事で…



 北海道洞爺湖サミットに反対する国内外の非政府組織(NGO)を中心としたデモ行進「チャレンジ・ザ・G8サミット 1万人のピースウオーク」が5日、札幌市中心部であり、北海道警はデモに絡み、ロイター・ジャパンのカメラマンら男2人を公務執行妨害容疑で、別の男2人を同市公安条例違反容疑で、それぞれ現行犯逮捕した。

 調べでは、カメラマンは5日午後4時ごろ、デモの取材中、警備中の警察官の腰をけった疑い。ほかの3人は、車を警察官に接触させたり、道公安委員会の許可したデモの条件に違反して隊列を広げようと扇動したりした疑い。
(中略)

 主催団体のメンバー越田清和さんは「ほとんどの参加者が平和的に自分たちの主義主張を発信できたのは良かった。逮捕者が出たのは残念だが、物を壊すなどの事態はなかった。これだけ警察ががっちり囲むというのは、過剰警備だ」と話した。


  (「反サミットデモに3000人 警備陣大動員、逮捕者4人 」(asahi.com)


"Challenge the G8 Peace Walk" "Challenge the G8 Peace Walk"


 最初の写真がいわゆるNGOエリア(デモ隊第一グループ)の最後尾(写っているのは不当な債務の帳消しを求めるジュビリーサウスのみなさん)で、次のが今回逮捕者を出したサウンドデモ・エリア(第二グループ)の先頭部分です。
 もう、NGOエリアは完全に警察もノーマークで、隊列を崩そうが逆行しようが、誰もなにもいわないという、日本のデモとしては珍しいぐらいにゆるゆるの警備状態でした。
 それに対して、サウンドデモ・エリアは明らかに警官の動員数が違います。
 まぁ、どちらが最初に挑発したのか、というのは逮捕の瞬間を見ていないので、ここでは論じませんが、どちらにしてもある程度は「シナリオどおり」なのかな、という気もするわけですね。

 …サウンドデモって、そんなに脅威かなぁ??
 まぁ、そこに脅威を見て取っているとするならば、警察もそれなりにセンスがあると評価すべきなのかもしれませんが…。


Originally uploaded by skasuga.
 洞爺湖G8への抗議活動のために札幌へやって参りました。

 初日(7月4日)はAttac Japanも賛同する「G8を問う連絡会」の「国際民衆連帯DAYS」オープニング・セレモニーから。野外の札幌大通公園8丁目で企画されていたので、雨が降ったら場所を変えなければ行けないところであったが、一応なんとか開催にこぎ着ける。
 到着は4時ぎりぎりであったが、まだ参加者もまばらで、聴衆より公安のほうが多いんじゃないかという状況でどうなることかと思ったが、韓国の人々が入管でトラブった問題などで開始がずれ込んだおかげで、結果的にはそれなりに盛況に見えないこともない人数が集まってから開始。
 メインスピーカーは『債務ブーメラン: 第三世界債務は地球を脅かす』『<徹底討論>グローバリゼーション賛成/反対』など、多くの著作が訳されているスーザン・ジョージ。G8の問題点や、非暴力による運動の重要性などを語った。
 他にも、ヴィア・カンペシーナ(世界最大の小農グループ。食料主権という概念を提唱し、生産者が主体となった持続的な農業のために活動している)やNo Vox(フランスを中心とした「声なき声運動」。ホームレスなどの「社会的排除」の問題に関する活動を行っている)などのスピーチがあった。

 一方で、韓国の活動家(主として民主労総などのメンバー)がねらい打ちされて20人から30人が千歳、成田などで入国できないという状況もある。
 うち一人は千歳で逮捕され、同行の四人が入国を拒否された模様。

 その後、大通公園をデモ。活動家逮捕の問題もあって、一部には一触即発という局面も見られたが、全体的に見ればとりあえずデモは無事終了(札幌は全国自治体の中で比較的左派が強いこともあってか、通常はもっと平穏なデモらしいく、住人の一部はデモ隊と警官の間の険悪な雰囲気にショックを受けていたようであるが、関西圏の住人としてはあんなもんではないかと…)。

 欧米に比べれば乏しい資金と人材でなんとか「社会運動」の体裁をとれるぐらいにこぎ着けたというところであるので、とりあえず大過なく初日が終わって(潜在的な「大過」の因子はいくつかある気もするが)、よかったというべき…かな??

 科学技術社会論学会 (Japanese Society for Science and Technology Studies) のジャーナル『科学技術社会論研究』の第五号が発行されました。
 特集が「サイエンス・コミュニケーション」ということで、NPO法人サイエンス・コミュニケーションの代表理事である榎木英介氏との連名で「科学技術政策とNPO: 政策提言型科学技術NPOの現状と課題」が載っています。
 執筆したのが2006年の秋頃なので、「現状と課題」なのかやや疑問無しとはしませんが、「現状」はともかくとして「課題」は何一つ解決されていないのは確かだと思われます(笑。

科学技術社会論研究 5 (5)
4472183056
科学技術社会論学会編集委員会


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※バックナンバーは玉川大学出版部のサイトで確認できます。

最近(半年弱ぐらいの間に)いただいたものです。
 みなさま、ありがとうございます。
 本当はちゃんと感想を書かせていただこうと思っていたのですが、どんどん時間がたってしまうので、とりあえず謝意のみの表明とさせていただきます(いつかちゃんと書こう、と思いつつ…)。

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