July 2012アーカイブ

Twitter 用に書き始めたけど、やたらと長くなったので、とりあえずこちらに。

1,
 デモ問題が盛んに議論されているが、たぶんこういうふうに問題が紛糾する原因の一つは、デモの機能とメタ機能が食い違っていると言うことがあるのかもしれない。

 デモの機能は第一には「民意」の顕在化である。通常、人々の政治的意見は二つの極端な意見の間のどこかにプロットできる(ものとする)。

 この場合は「原発は何が何でも全て再開・増設」対「全ての原発を即時廃炉」というものであり、その間に条件付き再開から条件付き廃炉まで色々な意見が分布しているわけである。

 で、おそらく人々の意見は二つの極に張り付いて対立するのではなく、その中間に分布しており、大きく見ればその分布には二つの山(どちらかといえば再開派とどちらかといえば停止派)があることになるだろう。

 また、政府の方針も、この二つの極の間のどこか、一般的には「二つの中間派」の頂点のどちらか、あるいはその間に存在していると想像ができる。

 さて、極端な極から最初の多数派がいる点、二番目の多数派がいる点、そしてもう一つの極と連なる直線のそれぞれのポイントをそれぞれ A B C D とする。政府の立場はPとする。

 例えば、現在PはCと概ね同じ位置にあるとする。この場合、CからA側の意見を持つすべての「市民」はデモに参加する動機を大なれ小なれ持っていることになる。

 実際は、政府の立場が流動することによって一気にBに近づく可能性を考慮すれば、BとCの中間点よりBよりの立場の市民がデモに参加するであろう。

 また、自分の政治的意見を達成しようという情熱(ここでは便宜的にいずれの政策が達成されたとしても私益はいっさい絡まないものとする)の大小によっても、デモに参加するかどうかは左右される。

 従って、デモの参加者数は概ね A から P までに属する「市民」の総数とその問題にかける人々の熱意の関数ということになる(一般的には A に近いほど熱意はあがり、P に近づくほど下がることが予想されるだろう)。

 さて、政府はデモに脅威(主として「次の選挙」に関する脅威)を感じたとすれば、政府は P をだんだんと B にむけてスライドさせていくことが予想され(スライドさせた先をP2とする)、また B にむけて方針を転換するほど、 P2 より D よりの意見をもつ市民はデモ参加の意欲を減退させるだろう。

 結果として、政府の意見が十分に B に近寄ったところで A よりのデモは集束するはずである(ただし、C に近い意見をもつ人々がデモを起こすかもしれない)。

 さて、デモの「機能」をこうしたものと考えれば、デモに「対案がない」という意見は的外れであろう。政策提言はデモに先行して行われ「市民」は立場を決めなければ行けないのであり、またここで決められた意見と政府の政策との相対的な位置がどうであるか以外はデモという空間においてはあまり意味がない(ここを問い始めるとデモという手段は成立しない)。

 この観点では、デモの機能というのは政府が十分に民意を知ろうとしないときに民衆の側から強制的におこす輿論調査のようなものである。

 いずれにしても、デモへの参加はデモの主張と、政府の政策と、自分の意見の三つの点の相対的な位置関係で決まり、それ以外はあまり関係がない、というのが健全な理解である。

 そこで一点重要なのはデモへの参加者はデモの主催者と必ずしも政治的意見を同じくすると言うことではなく「相対的に見て現状の政策よりマシだ」という理解を持っていると言うことである。従って、もちろんデモの主催者がデモの参加者の政治的意見を変更できるわけでも代弁できるわけでもない。

2.
 ところが、こうした「デモ」にはメタ機能があり、デモの頻度でその社会の民主制の成熟度が測れるとすればこのメタ機能のゆえである。

 元来、デモでなにかが決まると言うことは、通常、政治を変えうる通常の手段は「市民」の代表たる議員を決める投票だけであり、間接民主制国家では規定されていない。

 では、このデモとはいったいなんなのだろうか? それは元来、アノニマスな「多数」によって担われる運動である(V for Vendetta のラストシーンがこの事実を極めて衝撃的に可視化しており、ハッカー集団としての「アノニマス」が V for Vendetta のガイ・フォークス面をシンボルに選択したゆえんである)。

 ここで重要なのはデモが通常の手段を麻痺させる、ということである。これは、国家の法遂行行為(あるいは神話的暴力)に対する意義申し立てとしての「神的暴力」である。あるいは、ネグリのいう「構成的権力」の発露であるというのが最も適切な説明であろう。

 我々の民主制は「フランス大革命」に起源を持つ(と言うこと自体実は法維持的な「神話」に他ならないのであるが、であればこそ)のであれば、我々は特権化された構成的権力としてのデモを否定できない。

 ゆえにこそデモは非暴力直接行動として「民主的な自由」の根源の一つを形成するのであり、神話的暴力としての「警官の列」と神的暴力としてのデモ隊という構図は、国家権力が民主的であるために確認されなければいけない西洋民主制のイコンである。

 さて、この意味で「デモは人権によって保障され、また人権(の担保たる憲法を、憲法に先行して)を保障する権力の一部である」という両義性を持つことになる。

 さて、こうしたメタ機能においては、我々はデモを一時的な要求(原発反対、消費税反対、米軍基地反対…)のためだけではなく、民主制をささえる哲学のための闘いの武器とすることになる。

 (a)言論空間として、他者の人権を抑圧する団体がそこに入ってくると言うのは矛盾である(不寛容が自分たちに対する特権的な寛容を求めることを構成的権力が認めることはありえないのである)

 (b)一時的な要求のためであればデモは国家権力と過度に対立する必要は無いが、デモが「民主制を支えるための手続き」であるためには国家権力が、デモが革命(神的暴力)に突如として変貌するかもしれない、という緊張感を感じなければならない。

 この「メタ機能」を考えに入れるか「個別の要求に集中させろ」と思うかが、最近の議論のひとつの争点であるように思う。

 ただし、前者はデモの主催者によって遵守される必要がある(この意味では(a)はまだ機能の階梯に属するのである)のに対して、(b)は主催者の意図に関わるものではない(っていうか、たぶん構成的権力の発動というのは、ある団体や個人の意図を超えることで発生するものであろう)。

 なので、(a)に関しては主催者に求めていくことは大変重要だけど、(b)に関しては、主催者がどういう立場にたつかというのは、ある意味関係ない(そもそも主催者がどうこう言う権利を持つものでもない)、ということが言えるんじゃないだろうか、と思う次第。

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