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原理主義と科学主義のあいだ:展望なき未来の生きかた




97年のSTSNJ夏の学校で発表した(そしてとてつもなく評判の悪かった)原稿を掲載。口頭発表の原稿なので引用とかが明記されていませんが、近いうちにちゃんとしたものに改稿すると言うことで、とりあえずご勘弁を・・・。


 誰もが公共の問題を理解し、公平に発言権を持つというカント的な理想が崩れさったのがいつのことかは判らない。しかし、60年代の末に活躍した人類学者や歴史家達はすでに、人格は存在せず「あなたが誰かであることを要求するのも社会で」あり、人間という概念が「最近の発明であり、おそらく終わりに近づきつつある」ということを明言していた。こういった思想は世界中の知識人たちに論争を巻き起こしたが、それですぐに人々の生活が変わったというわけではなかった。しかしながら、近年の多くの社会問題、国際問題は、人間の終焉がごく普通の人々にも現実感をもって見え始めたというところによるものが大きい。どうも、だれもが「公共の問題を理解し」「公平に発言権を持つ」というわけにはいかないのである。
 この問題は「民主主義」を維持することの不可能性としてたち現れる。啓蒙主義的理念によれば国家とは理想的な社会の建設という共通の理念を抱く個人の共同体であるが、現実的には国民たる資格は血縁や財力によって判断されざるを得ない。しかも、「国民」の枠を無条件に前提出来るのは、そこにかつて絶対主義的で非民主的な政体を持つ領土国家が存在したからである。国家の枠組みは民主的には決定できない。もし、ある地域が「ある国家への帰属」を投票で決めるとしたら、まずその「地域」がどの範囲を示すのかを投票で決めなければならなくなる。これは奇妙な無限連鎖をよび、最終的には個人が自分の帰属国家を決めることになる。これでは国家は成立が不可能である。こうしたことは旧ユーゴスラビアやルワンダで現れたことである。
 この時、我々は世界システムを実感せざるを得ない。「民主主義」や個人、人権は先進国のためにデザインされたものであり、簡単にはその他の世界にあてはめることが出来ない。にもかかわらず、アメリカやIMFは援助を与えるさい、その地域が国家としての体裁を整えており、民主的であることを要求する。第三世界の国々は人権や民主主義の概念をなんとかして取り込み、体裁を整えるしかない。この過程で自立的なシステムは破壊され、消滅していく。結果、先進国との癒着で政権を維持する汚職国家か、先進国の圧力をはねのけられる軍事独裁ばかりが増えていくことになる。しかも、先進国はこうした無理矢理の民主主義国家をいつでも「非民主的だ」として非難することが出来る。逆に、第三世界が先進国の行為を非民主的だと非難する権利は存在しない。先進国とは、政治的、経済的正当性を独占している国々のことである。
 メキシコのチアパス地方の先住民蜂起の折り、政府との調停に当たったミゲル・アルバレス・ガンダラは次のように述べている。
 「(貧困、アイディンティティーの抑圧に加え)いま現在、政治的、社会的、経済的な側面を見たときに、一つとして私たちが信頼を置けるような選択肢が残されていないという問題があります。その点を考えないと、なぜ軍事的にあのような反乱が吹き出したのかを理解することは出来ません」
 このことは、浅田と柄谷がかつて「展望がないから原理主義に過激化するんで、したがって原理主義に展望はない」(浅田)「ところが、絶対に展望がないと言う現実を見ないで、人は原理主義を啓蒙主義的に解消できると思っている」(柄谷)とのべたことに対応している(ただし、実際はこのチアパス・サパティスタの事例は南米ではセンデロ・ルミノソなどが抱えている原理主義的限界を超えようという試みとして評価されるべきである)。
 また、アルジェリア、スーダン等、原理主義が台頭する国はいわゆるアラブ社会主義がかつて存在した国であることを考えれば、
 「(スーダンにおける)現政権の『イスラーム的ポーズ』は、
 (1)基本的には資本主義的な政策を正当化し、これらの政策が生み出す社会矛盾に抗議する労働者、農民、勤労市民の抵抗運動を『共産主義=無神論』として弾圧するためのイデオロギー装置であると同時に(中略)
 (2)これらの政策の本質を『人民的』『大衆的』なプロパガンダで隠蔽し、党派主義や腐敗を攻撃することで旧資本家層の復活を牽制し、『イスラーム運動』の担い手を自称する人々自らが資本主義再建過程の主導権を握る(栗田禎子「イスラームと民主主義」)」ためであり、これが復古、反動などではないことは明白であろう。
 表象権という言葉は、第一に世界システムの中であるグループが産出するディスコースにどの程度の顧慮が与えられるかの度合いを示すという外向きの権力であると同時に、第二にある集団を「有機的な共同体(もちろんそれはアンダーソンのいう『想像の共同体』であるが)」としてまとめ上げ、ある一連のディスコースをフーコーのいう「真理の語り」として共同体内部に流通させるよう権威付けを行うといううち向きの権力関係でもある(後者の意味では、むしろ代表権という訳語がしっくりくるかもしれない)。
 そして、先進国の持つ政治的、経済的、科学的正当性に抗するために唯一、第三世界に認められた表象権は、文化的な正当性である。
 これがすべての問題の根源なのである。これはたとえば観光というシステムにのせて先進国に主張される機会を持つ、ただ一つの正当性であった。しかし、ホブズボウムからアンダーソンに至る社会科学の言説はこうした文化すらもが先進国のつごうによって決定されているまやかしの正当性だということを暴きたてた。このことが皮肉にも原理主義をより過激に走らせている。ハワイのナショナリスト、 トラスクは人類学者のキージングがハワイの伝統に無知であるにもかかわらず、白人による「アカデミックな」情報にのみ依拠してハワイの伝統をおとしめていると非難した。トラスクによれば、「ハワイ人にとって、一般に人類学者(例えばキージング)は植民者軍団の一部である。なぜなら彼らは、我々から、我々が誰でそして何であるかを定義する力、我々が政治的文化的にどのように振る舞うかを決める力を奪い去ろうと努めているからだ。この盗賊行為は植民地主義のくびき(の存在)を証明し、なぜネイティヴのセルフ・アイディンティティーが支配的な文化の構成者によるかくも熱心で時には悪意ある否定を引き出すかを説明する(Trask p162)。」のである。彼女の言葉を借りれば、これはそれまでの手法があまりにも野蛮であることに気がついた白人の、より巧妙な人種差別の手法なのだ。
 こうした現象を見れば、もはや大状況を説明しつくす理論を我々が望み得ないということは明らかである。我々が抱える閉塞感はしばしば近年の相対主義、社会構成主義の発達に帰せされるが、相対主義、社会構成主義の発達はむしろこの対話を不可能にする閉塞感の打開を目指したものであり、原理主義的な対話の不可能性が、閉塞感の正体である。またこの閉塞感と、知的正当性の無化の露骨な影響を受けているのは従来の科学である。
 昨年、サイエンス・ウォーズと呼ばれる一連の事件がアメリカの大学を揺るがした。これは旧来の左派科学者が近年のポストモダン、あるいは相対主義的な科学社会学の隆盛に危機感を持ち、フラーを初めとする科学社会学者を非難する著作や声明を発表したものである。特にアラン・ソーカルという物理学者が科学社会学系の雑誌Social Text誌にポストモダニズムに関する論文を投稿し、後にそれがパロディであることを暴露した事件は、ネイチャー、ニューヨークタイムズ、ニューズウィーク等でも取り上げられることとなった。こうしたポストモダニズム攻撃に加わっている科学者の多くは物理学者か数学者で、左翼的なバックグラウンドをもつところに特徴がある。ネイチャー誌の分析によれば、背景には近年の物理学コミュニティーの影響力の低下、研究費の頭打ち、あるいは切り下げによって、焦燥感が高まっていることがある。一種、科学者の原理主義とでも呼べる現象が生じているのだ。
 先にも述べたとおり、表象権の欠如が原理主義的現象を引き起こす。この構図は、世界システムの中での表象権獲得をねらう第三世界の諸国においても、社会への影響力を維持しようとする科学者コミュニティーにおいても、共通してみられると言えよう。
 ちなみに、多くの科学者たちは科学の知的価値はその社会的存在に先行するのであり、これが他の原理主義運動と科学者の運動を分けると主張するであろう。もし科学が価値自由である、あるいは科学がどこかの本に書かれた静的な法則や定理としてのみ意味があるというなら、これは受け入れられる主張である。しかし、そうだとすればソーカルらがムキになることはない。アメリカの高校生たちがいかにバカであろうが、マルクスが失墜しようが、知識は普遍で不変なのだから・・・。
 現実には科学とは人間によって認識され、表象され、ときには応用されることによって意味を持つ動的なものである。この意味での科学は単なる社会構成体であり、宗教や民間伝承と区別することはできない。そしてそれらは政治的である。それを知っているからこそグロスやレヴィットも躍起になるのではないか?
 つまり、私が言いたいのは換言すれば次のようなことである。一つの方程式、たとえばF=maが真理であるか社会構成体であるかはペダンティックな哲学的議論としては面白いが、社会的な意味はあまりない。これに対して、ある人物がF=maを表象として想起する様式は確実に社会構成体である。また、それが「すべての人間はF=maをある様式で想起すべきである」という命題として社会に流通するとき、それらは政治的問題を引き起こすのに十分な与件を備えている、ということである。
 F=maは、それによってあまり不利益を被る人間がいなし、反駁にエネルギーを要求されることもあって、あまり論争のテーマになることはないが、進化論において、上記の状況は実際におこっている。このとき、見落とされがちなのは、問題になっているのが実際に種は変化するかという普通の生活者にとっては「雑学」に属する知識の問題ではなく、倫理道徳に関して、だれの言説(進歩的な科学者や左翼かもしれない教師の言説か、あるいは牧師や家長たる男性の言説か)が優勢なものとして「真理のかたり」の地位を得るか、なのである。バイブルベルトの牧師たちは教師たちが進化論を説くことが煙たいのではなく、それによってそれ以外の聖書的道徳基盤も切り崩されることが煙たいのである。
 こうした原理主義のすべて、あるいは特定のどれかに特権的に表象権を与えられない理由、つまり科学の価値自由を認められない理由、イスラム原理主義に信教の自由を認められない理由、第三世界のナショナリズムを認められない理由は、それぞれが複雑に絡み合い、相互に関係しているからである。これを端的に表した事件がFGM論争であった。FGMとは女子割礼、あるいは女性器切除のことである。アリス・ウォーカーら先進国の進歩派黒人女性が、アフリカの女性器切除をうけた女性を「男性支配に従順で無気力な女性」として描いたことに、ほかならぬイスラム・アフリカ圏のフェミニズム運動家たちが激高したのである。アフリカ圏のフェミニズム運動家たちは、男性支配に対する戦いとともに、先進国の杓子定規な押しつけ人権主義とも戦わざるを得ないという歴史が、アリス・ウォーカーらには理解できていなかったのである。その結果、アメリカをモデルにした理想化された政治参加(アンガージュ)の形式を第三世界に押しつけることとなり(第三世界の遅れたフェミニストたちはアメリカの進んだフェミニズムを学ぶべきだ、というわけだ)、アフリカ人フェミニストの怒りを買ったのである。
 科学的研究がこうした政治参加、社会参加の形式を規定する例も存在する。たとえば、リチャード・ドーキンスの強力な論証によれば、人間は自分の遺伝子を残すための存在である。このイデオローグが人々を支配したとき、それまで必ずしも子孫を残すためにデザインされていなかった文化や個人のライフスタイルは劣ったもの、間違ったものとして否定される。例えば、キリスト教圏では子どものいない夫婦や聖職者が養子をとることは一般的であった。あるいは、南太平洋では子どもが誰の子であろうが「養父」は大して気にせず妻の子どもをかわいがる。こうしたことは壊れた本能、あるいは心理学的錯誤を意味するのだろうか?。生殖技術の革新は、養子という習慣を過去のものにし、遺伝子診断の発達は生物学的両親を確定したいという欲望を生む。このことが社会に与えているインパクトは極めて重大である。技術がある選択を可能にすることは、別の側面からいえば決断を強いることであったり、別の可能性を不可能にすることであるのだ。
 通例、人類学は「親族関係(家族、と言い換えてもよい)」を相続を規定する社会習慣と考える。この意味でそれらは社会構成体である。そして、それらは環境的な要因によって、生物学的な血縁体系と重なることが多い(かさなっていたほうが何かと面倒がすくない)。しかし、近代の科学的知はこの主客を逆転させる。親族体系は生物学的に基礎づけられるのであり、「正しい親族関係」かどうかはDNA判定で判定可能であると、なる。これは「家族」や「血縁」という概念が社会構成的に変化した事例であり、科学がそれに関わっている。また、「家族」という分類(クラシフィケーション)を、伝統的なクラシフィケーションとは別の意味で構成し直しているという意味でも、「科学概念が社会構成的である」事例である。当然、回答が社会構成であるのに前提が社会構成的でないと言うことはあり得ない。DNA判定を実施した科学者のDNA概念は、このとき社会構成的であったのだ(でなければトートロジーが壊れていると言うことであり、この科学者は十分科学的でなかったのだ)。もちろん、このことは「すべての状況に置いて、常に」DNAが社会構成体であると言うことを論証するものではない。しかし、不幸なことに現代の世界情勢を支配する原理主義的対立のなかで、ある時それが社会構成的であることは表象闘争の海に飲みこまれざるを得ない、十分な条件なのである。
 だからこそフラーはソーカルと論争したカンサス大のシンポジウムにおいて「科学の世俗化」を求めるのである。ただし最後に個人的見解を述べれば、世俗化したあとの大きな物語が可能だとするフラーの見解には、それがどういうものか説明されていない以上はっきりしたことは言えないが、おそらく(フラーが認めている「ほとんどのポストモダニスト」と同様)同意できない。我々はそれ以外の回答を用意できるとも思うのであるが、それについてはまたの機会に譲りたい。





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