[HOME]


【書評】『サイバネティクス学者たち :アメリカ戦後科学の出発』 [購入]
   スティーヴ・J・ハイムズ著 忠平美幸訳発行年月:2001.01 出版:朝日新聞社 ISBN:4-02-257565-4 価格: 3200円+税
   ※STS Network Japan News Letter Vol.11 No.4(通巻No.41) 2001.3. 9p.-10p. [LINK]


 戦後アメリカで行われたメイシー会議(通称サイバネティクス会議)については、多くの論者がその重要性を指摘するところであるが、体系的な研究はあまり多くない。これは、ひとつには文理を横断した分野にわたる多くの参加者の来歴、思想や知識を理解し、記述していくことの困難さに由来するだろう。しかし、文末に掲げられたメイシー会議参加者のリストを見ればすぐに理解できるように、サイバネティクス会議の参加者は、ゲストまで含めると、まさに戦後アメリカの科学をつくったといえる人々の集合であり、この会議の持つ理論的、政治的影響力は計り知れない。
 例を挙げればサイバネティクスの開祖として知られるノーバート・ウィナー以外にも、フォン・ノイマン(数学)、クロード・シャノン(情報理論)、レナード・サヴェッジ(統計学)、マックス・デルブリュック(物理学、分子生物学)、マーガレット・ミード(文化人類学)、エリク・エリクソン(心理学)、ローマン・ヤコブソン(言語学)などがいた。
 本書はさまざまな分野にまたがったメイシー会議参加者たちが、どのような議論を展開したか、またそれが参加者それぞれの分野にどのような影響をもたらしたかを論じた本である。そのさい著者は、サイバネティクスそれ自体のもつコノテーションはもちろん、各分野における議論の歴史的経緯まで押さえた記述を達成している。本書は、資料的価値はむろんのこと、議論の水準も極めて高いものであると言えよう。
 同じ著者の『フォン・ノイマンとウィーナー---二人の天才の生涯』(工学社 1985)がタイトル通り、サイバネティクス・グループのなかでもフォン・ノイマンとウィナーを扱っていたいのに対して、本書はもう二人の主要メンバー、グレゴリー・ベイトソンとウォーレン・マカロックに大きなページを割いている。ノイマンとウィナーのふたりは、ノイマンが右派、ウィナーが左派という違いこそあれ、知識と権力について極めて強い信頼と執着を持っていた。
 対照的に、ベイトソンとマカロックは、科学的知識が社会を改革できるという主張に懐疑的であった。この懐疑は、マルクス主義的な唯物論のみならず、資本主義的な改良主義にも等しく向けられていた。このためもあって、両者は戦後のアメリカ社会科学の潮流を準備したにもかかわらず、けっしてアメリカ社会科学の本流になることはなかったし、後年の社会工学的な社会科学には批判的な態度をとり続けた。
 これは、ベイトソンが遺伝学の始祖として知られる英国の生物学者ウィリアム・ベイトソンの子として、極めて衒学的で抑制された教養主義的な教育を受けていること。また敬虔なクェーカーの家に生まれたマカロックも、大学までは牧師になるための厳格な神学教育を受けていたことが背景にあるのだろう。両者とも、自分の主張の論拠を、文理を問わず最先端の知識に求めるよりは、スコラ哲学や古典的な文学に求めることを好んだ。
 この古典教養に関する深い知識と、最先端の領域に対する学際的な関心によって、ふたりは適格に「今なにが問題になっているか」の地図を描くことが出来たし、その空白地帯に踏み出すような視点を提供できた。例えば、ふたりとも厳格な自然主義者で、精密な分類学的思考を好んだが、そのことと唯名論的な議論や、カント的な先験性の概念との齟齬を知悉していたし、その問題に沿うように研究プログラムをたてることができた。サイバネティクス会議における文理の交流は、基本的には文系の学問の自然科学化という様相が強いが、単純にそれだけでは終わっていないのは、この両者の功績に負うところが大きい。
 『サイバネティクス学者たち』の原題が"Constructing a Social Science for Postwar America" であるとおり、サイバネティクス会議の影響力が戦後アメリカの社会科学をどう形成したかに一つの焦点がある。この過程を理解することは、現在の形での文理の分化、対立がおこる以前の状況をよく理解させてくれるという点で、きわめて重要なものである。戦中、国家動員的な「科学」の立ち上げにより、自然科学は金持ちの道楽、ないし一生貧乏生活を覚悟したものの仕事ではなく、恵まれているとまでは言えないものの、一旗揚げる可能性をはらんだキャリア・パスとして認識されるようになった。加えて戦後、ハーヴァードの社会学を中心として、文系すらも理学的な体制をとることによって、同じような形での資金や人材の動員が可能になった。単純に言えば、文系の諸学問は理系の模倣を行うようになったわけである。これは社会に対するサイバネティクス的な視点が初めて可能にしたものでもある。この経緯は近年研究が始まったばかりであるが、本書はその端緒をなしていると同時に、現在に至るまで文理を問わずもっとも包括的に資料を検討した研究であるといえよう。
 重要なのは、社会科学の政治的側面について、慎重に、かつ十分な目配りが効いているという点である。戦後アメリカを特徴づける大社会学者の一人にラザースフェルドがいる。彼はウィーンのマルクス主義的なユダヤ知識人というバックグラウンドを持ち、ウィーン学団の総帥として有名だったシュリックの暗殺事件に象徴される反ユダヤ的、反マルクス的なファシズムの隆盛によりアメリカへの亡命を余儀なくされた。アメリカに渡った後のラザースフェルドは、一転して右派の社会学者として振る舞い、第三世界の赤化を防ぐためのメディア研究、といった手段でアメリカ政府への忠誠を示した。ハイムズは、社会学の「数理科学化」がこういった国家戦略に沿ったかたちで進められたことを見逃してはいない。社会科学を政策的な関心に沿うように再編成することよりも、社会批判や国家権力批判の能力をとぎすまそうとしたミルズやデュボイスのような社会学者たちが、サイバネティクス的関心からも距離を保った社会科学者であったのは興味深い。しかし、ラザースフェルドにとってはアメリカはファシズムからの最後の防壁であったのに対し、自らも黒人として強い差別を受けてきたデュボイスにとって、同じアメリカが不平等と抑圧の象徴であった。この「アメリカ合衆国」自体のもつ二重性にも注意が払われている点で、本書のバランス感覚は特筆すべきものであると言えよう。
 しかしながら、筆者の論調は極めて禁欲的である。それゆえにこそ、今後この領域はより深い研究が切に望まれる。例を挙げればまず、筆者がさらりと触れているに留まっている直接に理論的な影響を受けた領域の歴史は注目に値する。そうした領域には、ゲーム理論、オートポイエーシス、精神療法などがあるだろう。また、当時のアメリカ社会学の総帥パーソンズが対ソ戦略研究の過程で、旧ナチス戦犯を利用して失敗したエピソードが触れられているが、こういったスキャンダルも実は大きな問題である可能性もある。近年、ナチス情報部の人間をアメリカ政府が事実上免罪し、対ソ諜報戦に利用していたという事実が公式に明らかになったが、このことにパーソンズらはどう関わっていたのだろうか。国家戦略に深く関わっていたのか、世間の目をそらす単なる道化としてあつかわれていたのか。戦後の社会科学史はまだまだ奥が深いのである。なんにせよ、社会学、人類学、精神分析、哲学、情報科学、生物学、経済学、等々の分野の歴史になにがしかの関心がある人ならば、本書から必ずや興味深いトピックを探し出すことができるだろう。





[HOME] [BYE!]
KASUGA,Sho
For More Information Contact skasuga@mars.dti.ne.jp