[HOME]

Academic Suicide
--大学院生の華麗な生活 (02.7.3)--

You're too young to lose it.
But You're too old to choose it.
And the clock waits so patiently
On your song.
- David Bowie "ROCK'N'ROLL SUICIDE"

 大学院生というのは世間から見ると不思議な存在であるらしく、どういうふうに生活しているのかと聞かれることが多い。そこで一ヶ月の生活(主に経済面)について、しばらく前に書いてみたものが以下の文章である。親がかり、社会人、苦学生など、いろいろな大学院生の生活があるので、一般論は難しいが、一つのサンプルになる…であろうか? 書いては見たものの、ちょっと公開するのをためらっていたところもあるのだが、最近研究問題メーリングリスト「NPO法人化プロジェクト」などで、院生の生活に関する部分が議論になることが多かったので、たたき台にすることを念頭に、一般的な情報を付加して公開してみる。大学関係者以外でも、こういった情報から大学の存在の(社会から見た)コスト&ベネフィットについて考えていただければ幸いである。(02.6.30)


1.生活(?)
 
 私は、今更ながらであるが、京都大学の博士課程に在籍している人文・社会系の大学院生である(2002年現在ね)。人文系だと他にほとんど選択肢がないので、日本育英会の奨学金をもらっている。育英会の奨学金には無利子の第一種と利子がつく第二種(きぼう21プラン)がある。利子が付くのは奨学金ではなく、教育ローンじゃないかという声もあるが、まぁ、国民生活金融公庫の教育ローンよりは(在学中は利子が付かないなど)ちょっとだけ条件がいい。で、昔は博士課程のほとんどみんな第一種が貰えていたらしいが、最近は徐々に枠が減らされて(一方で大学院生はバカバカ増えて)必ず貰えるとも限らない。しかも、大学毎の枠を決める怪しげな計算式は一応公開されているが、それが実体として申請者の何割ぐらい採用されているのか、さっぱり判らないところも問題である。さて、私もじつはギリギリだったらしいのだが、一種奨学金を貰えることになった。
 問題なのは、貰えるか貰えないか、進学した年の夏まで判らないと言うことである。育英会をあてにして人生設計をしていて、貰えないことが発覚するとちょっと困ったことになる。この点では、後に説明する学術振興会特別研究員のほうが、前年中に結果が分かるぶん情けがあると言えよう。
 ともあれ、第一種をもらうと、年度によって少しづつ上がっていくが、博士課程の三年間の間、毎月基本的には11万円〜12万円(借り始める年度による)借りることが出来る。これが学部だと5万円ほど、修士課程二年間は7万円ほどである。なんのかんの、学生の間借り続けると博士課程を修了するまでの間には800万を超える借金を背負うことになる。
 この800万の借金であるが、うまいところ5年以内に国公立の研究機関に(研究職として)就職するとチャラになる、という制度がある(実際の規定はもうちょっと複雑であるが)。こういった美味しい職は「免除職」と呼ばれている。ところが、最近は非常勤とかパートタイム研究員とかが増えて、どれが就職かよくわからなくなっている。で、免除職かどうかは育英会に問い合わせるまでよく判らないシステムになっている。だいたいの予想はつくわけだが、予想が(悪い方に)はずれていた場合、育英会とケンカになったりする。大学の専任になってしまうとおおむね問題ないわけだが、京滋地区私立大学非常勤講師組合のデータによると、博士課程修了後の人々が専任につくまでの期間(の平均)は、最近では10年にもおよぶらしい(これは分野にもよるし、測り方にもよるだろう)。学問の制度上、実力があっても似たような専門の先輩がポストをすでに占有してしまっていると就職先はみつからないので、首尾良く就職先を見つけるには実力だけではなく運も相当重要である(逆に分野の流行にのって、ある分野の若手がぞろぞろと就職を決めていく年もある)。
 ともあれ、多くの大学院生はこの11万円と、バイトや仕送りなどで暮らしているわけである。もう30にも足がとどこうという時代に親の仕送りもないものだが、院生がバイトをすることを嫌う教授もいるし、バイトに明け暮れて業績を上げないとドンドン就職も遠のくのでしかたがない。ちなみに業績を上げないと就職は(昨今は絶対と言っていいほど)ないが、あげたからと言ってあるとも限らないと言うのが試案のしどころである。確実な統計はないが、最近の博士課程を修了した院生で就職できるのは15パーセント前後じゃないかっていう話がある。
 幸いにして春日の場合は、二部屋で6万ちょっとで風呂トイレ付きのアパートを借りることに成功した。これを同居人と二で割って、一人3万円である。これはかなりお値打ちである。これに光熱費を加えるとほぼ5万円になる。京都の場合、これで風呂無しにすればまた1万円下がったりするのだが、こんどは銭湯代がかかる。また、台所共同にするとさらに1万円安くなったりするが、この1万円はすぐに外食代で逆転されてしまうだろう。なにしろ(どういうわけか)最近は食費は1万円ですんでいる(ふたりで二万円ってことね)。というわけで、生活はほぼ6万円である。これは自宅外としてはかなり安上がりな生活であるような気がする。
 残りはおおむね本代になる。関連分野の新刊と、発表などの準備の本(で図書館にないもの)をある程度買って、ついでに二〜三ヶ月に一度Amazon.comでごそっと洋書を買い込むと、おおむね一月5万円弱ということになる。このあたりの実体は、「つんどCarrel本たち」ページでリポートしているので、ご参照いただきたい(この購入ペースは、多い方であろうけど、人文・社会系の院生として特別多いわけでもないと思う)。学部時代は親がかりの生活がゆるされたので、なにも考えずバイト代のほとんどを本につぎ込んでいたので、おそらく8万円かそこらは本を買っていたと思われる。考えてみれば、だいぶ減っているわけであるが…別に学部時代より勉強していないわけではなく、情報摂取の効率が少し良くなったのだと思っていただきたい。
 で、すこし余った分は飲み代(月二〜三回程度)や東京への帰還費用となる。ただし、帰京費用は、祖母がちょこっと握らせてくれたりするので、深夜バスなどを使えば収支トントンだったりする。この歳になって「おばあちゃんから小遣い」でもないものだが、背に腹は代えられない。
 こんなわけで、とりあえずの生活を考えると育英会の奨学金はトントンである。しかしながら、これはかなり生活費を倹約した院生の姿であることはお断りしておこう。むろん、本代を倹約して生活費を膨らませるという手もあるにはある。しかしながら、分野にもよるが、3万円を割り込むと事実上自分の専門にかなりフォーカスせざるを得ず、それ以外の本を購入することは不可能になるような気がする。したがって、専門バカをつくらないためにも、本代には余裕が欲しい。本来であれば、美術館や博物館に行ったり、CDを買ったりする「教養」関連費用も欲しいところだが、なかなかそういうものに回す予算はつくれない。クラッシック音楽の蘊蓄をかたむけ、シェークスピアを引用するのが正しい大学人の姿だ、という時代でもないのでかまわないとも言えるが、日本の美術品などについてヨーロッパ人の先生のほうが詳しかったりすると、ちょっと恥ずかしい思いをしないわけではない。最近はインターネットでだいぶ情報がとれるので、そういったところで小ネタを仕入れておくのが、基礎教養という部分での正しい倹約法(つまり、ごまかし方)であろう。


2.研究(?)

 次に問題となるのは授業料である。実に幸いなことに、私は実家が貧乏なので、国立大学では授業料免除というものが受けられる。これがないと年間50万円ちかくを取られることになる。実感として、一番大学院進学が楽なのは「親が理解のある金持ち」か「親が飢え死にしない程度に、かつ授業料免除が受けられる程度に貧乏な」家の子どもである。マイホームのローンで苦しい中産階級なんて家の子どもは、かなり辛いことになりそうである。ただし、この授業料免除は、1998年の時点で(学部と大学院を合わせて)8.5%程度だったが、2001年には6.4%、2002年度には5.4%と、どんどん削減されている。これから進学する人は、あまり授業料免除には期待しない方がいいだろう(米100俵とかいっておいて、このありさまである)。
 さて、これら諸々の問題をクリアしても、文化人類学をやっている以上家で本を読んでいるだけでは研究にならないという問題がある。フィールドワークに出かけなければいけないのである。これまでで判るとおり、フィールドワークのお金まで育英会の奨学金でまかなうのはちょっと辛そうである。従って、どこかからお金を得なければいけない。正攻法はアルバイト、親、師匠の研究費にたかる、などである。ただし、一般に教授が確保している研究費は使途に制限があるので、院生がそんなに自由になるというものでもないケースが多いので、あまりアテにはできない。
 次に、各種財団が院生用の研究助成金を出すことがある。お年のかたに聞けば、これで論文を書いたという方が圧倒的に多い。しかしながら、これも院生の増加と、折からの低金利(財団というのは金利で運営されるので、低金利であれば当然助成額は減る)によって、大変困難になる。特に、人類学や地域研究の場合、その時代毎の流行り廃りがあり、はやりの分野や地域を見つける能力が必要になってくる(ようである)。…と、偉そうに語っているが、要するに私はそれらの助成金を獲得できたためしがない(博士課程に入ってからでも、目下おおよそ10連敗である。正直申請書書きには飽き飽きである)。小笠原諸島という中途半端なフィールドのせいもあるようだが、基本的には自分の研究を魅力的に見せる才覚がないというのもある。最近、方針を転換して、これまで幾度かご報告させていただいているインドをテーマに、いくつか申請書を出してみた。これがどうなるかはまだ結果が出ていない。乞うご期待、である。
 ちなみにこの申請書、日本の場合、あらかじめ応募フォームが決まっていることが多い(諸外国の場合フォームは指定されないことが多いようである)。たしかに文字数は少なくてすむのだが、毎回毎回フォームに合わせて書き直さなければいけないので非常にしんどい(学者の文章というのは文字数がすくなければ早くかけるというものでもないのである)。
 そして、なにより福音なのが日本学術振興会特別研究員である。これは、博士課程で20万円を超える月給が貰える上に、年額100万円ていどの研究費も支給されるという、なかなかに美味しい制度である。諸外国の院生にこの制度のことを話すと涎をたらしてうらやましがるという代物である。しかし、うまくいかないもので、これは相対評価なのである。つまり、分野ごとに提出された申請書からその年の予算に合わせて上位から同じパーセンテージで取っていくわけである。比率は年々減っているが、2002年現在11パーセントぐらいである。つまり、申請者が多ければその分だけその分野は栄えるわけで、自分が取れる見込みもないのに教授に尻を叩かれて申請書だけは仕上げるざるをえない、という事態も日本の各所で生じるわけである。
 個人的には、フィールドワークのように、自前の研究費を用意せざるをえない分野は、博士課程の院生総数が、
 (博士号を取る気の無いモラトリアム人間+親がかりで潤沢に研究できる人+教授のプロジェクトで研究する人+学振特別研究員定員+財団助成の定員)X1.2〜1.4
 ぐらいになると(ほどほどに競争も働いて)いいのではないかと思うのだが、不幸なことに日本ではそれを調整する機関がない。アメリカなんかだとアカデミーの仕事なんじゃないかと思うのだが、日本の対応物は老人会にすぎないのだ。しかも、学振特別研究員定員という変数は、総数が減ると自動的に減っていく仕組みになっているので、院生を減らすと言う調整が大学を主体にしてマジメに行われたとしても、上記の状態は達成できないことになっている(院生数を適正化しようとする努力は、相対的に特別研究員の枠が少なくなるという不利益で報われる。従って、どの分野も需要と供給のバランスを度外視して、法学がn人取るなら経済学としてはn+α人取るぞ、という間抜けなチキン・レースが展開されるわけである。通常のチキン・レースと違って、水に落ちるのはドライバーではなくその弟子達であるが…)。
 実験系の人は研究設備を一式、国の金でそろえられて、フィールド系の学問だと自腹を切らざるをえないというのは、博士号という「資格」の認定に当たって不平等があるんじゃないかという気がするが…。なによりしんどいのは、修士論文ができあがった後、フィールド先などで報告を兼ねて発表し、修論のコピーを配りまくったときであった。もちろん往復の旅費まで自前になるわけだが、現地の人は国からお金が出ていると思っていたりする(まぁ、たしかに好きでやっていると言っても信じてくれないのも当然なぐらい酔狂なことではあるのかもしれない)。
 さて、学術振興会特別研究員になったとして、いいことばかりでもない。月額20万ちょっと貰えるので、年間にすると250万ということになる。こういう収入があると、これは親から独立して税金や保険料を払わなければいけない。また、これまでは学振程度の収入だと国立大学は授業料免除になることが多かったのだが、先に述べた事情で最近はこれもアテにできないようだ。また、学振から払われるお金は「研究奨励金」と呼ばれ、給与ではないらしい。従って、雇用保険にも入れないし、三年に及ぶ関係が続いても雇用義務も生じない、と説明されている。にもかかわらず、職務専念義務は発生するため、育英会の奨学生と違ってアルバイトは原則禁止されている(T.A.やR.A.と呼ばれる大学の研究や教育補助、および四年制大学での非常勤講師は許可されることもあるらしいと聞く)。
 これらは税金からの支出であることを考えれば、一見もっともなことだが、法的に正当なことなのかは、ちょっと怪しい気もする。例えば、自動車工場で作業員に給与ではなく「技術取得奨励金」を払うことにしたら雇用義務や雇用保険の加入義務は消滅するのだろうか? 誰か勇気ある(?)大学院生が学振終了後に失業保険給付を求める裁判でもおこしてくれると面白いことになるのだが…。まぁ、貰えてない私がいうことでもないかも知れない。しかし、学振を貰っていて、博士号取得までこぎ着けたところで、仕事があるわけでもないのが現状である。一般に、税金などは前年度の収入を基準に計算されるわけで、失業者もそのぶんは失業保険から払わなければならない。だからこその失業保険なわけだが、ご説明したとおり、特別研究員に失業保険はない。20万円は、これまで説明した院生の生活をご想像いただければ、少ない額ではないが決して多すぎる額というわけでもない。特別研究員の任期が終了した後、諸子がどのように税金や保険料をまかなっているのか、ちょっと不思議である。この点、育英会の奨学金は「借金」であるので気が楽である。ようするに公式には無収入なわけだから、税金などはかかってこない。
 ところが、先に述べた授業料免除の判定のさい、大学によっては育英会を収入にカウントするところもあるらしい(しないところもあるようである。文科省の公式見解がどちらなのかは不明である)。こうなると、借金しながら、借金したがゆえに授業料をよけいに取られるという、笑えない事態が発生する。日本の大学機構が、長年の歴史的経緯もあるのだろうが、いささかいびつな形になっていることがご理解いただけるだろう。ちなみに、そういった大学で教育ローンや学資保険の解約金などが「収入」として扱われるかは不明である(笑)。育英会だけ特別扱いされているのかもしれないが、情報をお持ちの方はお寄せいただきたい。


間奏: 育英会の現状についての批判

 学部生への経済的サポートも十分なものではなく、現行の貸与分に加えて、(少なくとも国公立の)学費ぶんの給付奨学金ないしは教育ヴァウチャーの導入が必要なように思われる。もちろん、特に優秀な人材については、その上でアルバイトもせず、家庭からの援助もあてにしないですむだけの給付が国や企業、その他の団体からあることは望ましい。以下、その点について二点理由を挙げて述べる。
 第一にかつて、育英会がローンで問題がないと見なされていた背景には、コンスタントなインフレが続き、中産階級の所得は増加こそすれ、減りはしないと思われていたということがあるのではないかと推察される。しかし、現状では2002年の100万円の価値が、例えば10年後の2012年に2/3なり半分なりになっているということは望めない、と多くの人が感じているだろう。また、同じ大卒でも今後職種や能力によって、かつてに比べて収入に大きな差が出ることが(実際にそうなるかはまた別として)予測されている。これらの状況を鑑みれば<貸与>つまり借金というリスクを負う形での大学院進学を余儀なくされることは、低所得層の大学進学へのモチベーションを低下させる。環境が悪化している中で同じ制度を維持することは、現実社会においては退歩でしかないのである。
 確かに、欧米型に習って、キャリア・パスを多角化すれば、働いてお金を貯めてから(あるいは所得が上がる分野を見極めてから)大学進学という選択も可能になり、この問題は多少は緩和されるかも知れない。しかしながら、実際見過ごされがちですが、欧米でも厳しく選抜されたコアなエリート層は従来通りブランクなく進学する事が普通である。無論、欧米ではこういった層には経済的にも手厚いサポートが約束されている。しかし、平準化を好む我が国の風土で、コア・エリート層だけに特権的に高額の奨学金を約束することが可能であるか、疑わしい。しかし、そうでなければ二世化が促進され、見てくれの平等を維持することでますますコア・エリート層の特権を強化してしまうことになる。また、こういった特権化が国民の理解を得られるとしても、大学や行政のサイドに、こうした職責に堪えられるだけの人材を選抜、育成する能力があるかどうかも、また極めて疑わしい。少なくとも、奨学金の削減あるいは集中的な投下が認められるには、日本版ENA(仏国立行政学院 国家エリートの大半を排出)のような組織を作る能力が現在の行政と大学にあることを証明してからの話であるべきである。それまでは、短期的な目標として、万人が躊躇なく進学を選べるような平等型援助を強化していき、大学進学モチベーションの低下に対処することを指向するのが現実的であろう。
 第二に、何の公的補填もなしでは日本の大学が財政的に魅力がなく、じつはこの魅力のなさは年々(受益者負担という言葉を利用して)深刻になってきているということが上げられよう。例えばアイヴィー・リーグの予算を見てみると、授業料は収入の30パーセントであり、残りは基金運用益、寄付や研究費が占めていることが判る。特に、基金の規模は特筆すべきで、概算すれば1人の学生あたり1億円ぐらいの基金を有していることになるのではないか。また、この授業料に対しても別途奨学金などが連邦や財団などから提供される。確かにアイヴィーの授業料は高額ですが、学生はその高額の授業料のさらに3〜4倍の価値のある環境を手に入れられる。この価値には、充実した図書館環境、寮や生活インフラについてであるのは勿論、一線級の研究ができる大学院生にT.A.として指導を仰げること、なども含まれる。こうした経済的バックボーンは、日本の大学には望むべくもないことであって、その意味で、少なくとも現状では日本の大学はあまり「お買い得ではない」。結局の所、日本の高等教育セクターは言語という非関税障壁によってもっとも手厚く保護されている産業であると判断できる。経済の悪化による危機感は、能力ある日本人にこういった障壁を超えさせる可能性は高い。対処法としては、最低限授業料として投下した金額と同程度の支出が(国からか財団や企業からの寄付か、あるいは基金からの支出といった形で)確保されるような制度を考えるしかない。結局の所、民営化しようがなんだろうが、独立採算などあり得ないのである。
 これにからむのだが、現在の中途半端な国立授業料は疑問点が大きい。これは、ヨーロッパのように原則国家負担にするか、あるいはかかる経費(から寄付などを除いた分)は全額授業料として計算し、そのうえで教育ヴァウチャーのような形で国の負担分を明示すべきであろう。現状では、大学生、大学院生が(エリートとしての)社会的責任を感じるには国家支出は少なすぎるが、といって大学に行ったことの社会的見返りはあくまで個人に帰属するものだ、というには国家から支出されすぎている。しかも、そのあたりの「案配(日本的なタームですが)」が学生自身を含む国民全般に対して隠されているために、大学生自身が自分自身のポジションを測り難いという問題がある。旧帝大と地方国立の予算配分を考えれば、学生間の社会的責務は異なってしかるべきだが、それがどの程度のものなのか、考えられる資料は殆ど提供されていない。長期的には、例えば、フランスのような国であれば、超エリート層は高等教育機関への在学中から給与が支払われる代わりに卒業後の社会への貢献が自明視され、逆にそこまでではない人は普通の大学へ行くというようなシステムになっているが、そういった「機能分化」も検討されていい。


3.フィールド(?)、に続く(かも知れない)













[HOME] [Column & Review] [BYE!]