94年の夏に高見島で行った調査実習は私にとって最初のフィールドワークでした。
 おこがましくも書誌データを提供すると以下のようになります。
 引用したい方はご利用下さい(居ないって?)。
 大森元吉・八木橋伸浩編 1995
 『文化人類学調査実習報告書 第十巻 瀬戸内・高見島の生活誌』
 国際基督教大学教養学部社会科学科 人類学研究室刊



村の政治、その生成


 氈@村の政治とアイディンティティ
  みなされる権力
 。 構造変容の契機
 「 威信の経済学
 」 微視的権力の分析のために


 氈@村の政治とアイディンティティ


 我々はヴァナキュラーな諸制度である道具や言葉や政治を産み出す根源として、ある種の「個人」を暗黙の内に規定する。フーコーが明らかにしたような個人をして自らを一つの主体として統括するような意志の存在を前提しているのである。そのためには、言説分析といった手法が重要になる。これがフーコーがハイデッカーの理論を受けて行った研究の基本原理である。
 人間を他の存在一般から区別するのは、我々が自分自身の存在を認識しているという事実である。しかし、現存在と歴史性には強い関係性は認められないと言わざるを得ない。と言うのも、われわれは本調査を通して、強い未来思考を読み取ることは決してできなかったのである。つまり高見において時間軸に対する明快な思考、つまり、将来や過去を一貫した計画性の下に捉え、自己をその計画の下に修正していく、という近代的自我が観察できるわけではなかったのだ。
 解釈学の系列に属する哲学者達と我々の観察との乖離の原因は後に述べる。ここではとりあえず、将来の展望などと言うのは実際近代の価値観が作り出した幻想だったのである、と考えよう。人々は決して自己を未来にわたってどう作り上げていくか考えていない。いま、与えられた状況の中でどう行動するか、という展望を持つにすぎないのだ。
 ただし、注意しておかければならないのは個人とか自我が観察されないというわけではないという点である。人間は一般的に、常によりシンプルな世界理解の様式を作り出そうとしている。我々の経験する世界とは、決して一般的な法則を建てられない、いわば分裂症的であることを強いる世界であり続ける。これに対して便宜的にせよある程度行動の指針になる認知機構を作り出す必要性がある。こうした認知機構としての自我は、必ずしも近代のものではない。  たとえば彼らは自分の漁の腕、船や井戸、そしてなにより高見の海で鍛えられてきたことに誇りを持っている。一方で学歴主義といった標準的な価値観(少なくとも彼らがそう理解している限りの)に自らを照らしてコンプレックスを持たないわけではない。これを一つの人格に統一する作業の見事な例として、次のせりふがあげられよう。つまり「わしらも東大をでとる。はぶしの灯台だ」(川村報告参照)。このとき、彼らは常に業績がほかとの関係の中に序列化される都会のサラリーマンや大学生よりも強固なアイディンティティ(ハイデッカー流に言えば存在への見越し)を持っているかも知れない。
 そうではなく、ここで注目したいのは、彼らの政治的社会的無関心である。たとえば彼らは島にどのように水が供給されているのか、ほとんど把握していない。ほとんど水のわかないこの島において、海水淡水化プラントがあり、砂防ダムを代替させた貯水ダムが有るのだが、そうしたものに関しては存在を認識していると言える程度である。県レベルの行政の基準では川のない高見島に貯水を目的としたダムを造る予算はおろせない。ゆえにこのダムは砂防ダムとして建設され、多度津町が借り受けて底にゴムのコーティングをして「多目的ダム1)」として使用されていた。しかしこのこの使用法はほとんど島民に認識されていない。2)
 結論として、現在は過去から未来への連続の中間点なのではなく、プロセスとしての「未・未来」である。実存は本質としてこの「未・未来」にかかわっており、それはゲルマン的現存在の歴史性とは関連を持たないというべきであろう。そのため、この場合歴史的な内省はモダニズムゆえの行為と考えられるべきであろう。
 この報告では、村落という比較的限定された共同体のなかで、どのような権力形態がどのようなプロセスをへて形成、解体されるか、あるいは保存されるか、といったことを扱う。そして上記の理由で、ここでは時間軸に即した主体に基づく研究手法をとらない。より端的に言えば、文化人類学の研究において近代的自我を前提することは間違いであると考える。微視的な次元での権力のせめぎ合いとしての「関係性」のなかに現れてくる行動や欲求のベクトルを読み取ることが、村落社会の政治状況を有機的に浮かび上がらせるだろう。



  みなされる権力


 ここではまず、高見に存在している政治権力のいくつかの形態のうち、認識されることによって生ずる、いわば言説的な権力を取り上げよう。というのも、この権力が最も古く、歴史的に更新されていく性質を持つものだからであり、以下に続くことになる諸権力はこの権力の存在を前提しているとも言えるからである。ただし、歴史的とはいえそれは一般的な意味での「歴史的」ではない。
 まず、高見島の歴史的状況を概説する必要があろう[谷沢 1987]。この島の歴史を特徴付けているのは人名制という特異な制度であった。優秀な水軍を擁した塩飽諸島は徳川幕府成立時において徳川方に味方し、その見返りとして慶長5年、ある御朱印状が下された。この朱印状は今も本島の勤番所跡で見ることができる。それは、塩飽船方650人に1,250石の領地を与えるという内容であった。この御朱印状によって、塩飽の船方たちはいずれの藩にも属さず、また天領でもなく、一定の自治を手にいれたのである。この、極めて特殊な自治権を持った人々を人名と呼ぶ。このことが塩飽に与えた影響は当然のことながらきわめて大きい。
 むろんこの御朱印状は過去においてのみでなく、将来においても塩飽の水軍が幕府に重要な貢献をすることを期待して出されたものである。それはたとえば朝鮮使節や岡山以西の大名の参勤交代時の安全保障であったりした。しかし、太平の世にこうした役割の重要さは忘れ去られ、幕末までにはただ制度が残るのみとなった。戊辰戦争時には幕府に水軍の出動を命じられるがすでに船を所有しなくなって久しい人名たちは困り果てた末に漁船を数だけ仕立ててごまかしたという話も伝わっている。
 人名たちの生業は江戸時代のあいだどのように変質したのだろうか。かれらは漁をしなかったし、畑を耕さなかった。塩飽の名の通り良質の塩がとれたのだが、こうした作業にも人名たちは直接には参加せず、海や山の権利を人に賃貸することにより暮らしをたてていた。そうした彼らが従事したのが廻船業であると伝えられる。のちには船大工等の仕事で島をでるものも現れたが、人名が塩飽の海で漁をすることは全くなかった。
 さて、こうした歴史は塩飽の人々にどの程度認識されているのだろうか。実は当初調査者にも人名制に対する意識が薄かったため、厳密なことを述べることはできない。しかし、現在の高見の人々はおおむね自分の家が人名だったという知識はあっても、ではそれが何なのかということになると、とたんに曖昧になってしまう程度の認識でしかない。
 70年代に高見を調査した立命館大の関佳己は、先に挙げた歴史を高見の構造の形成要因としているが、[関 n.d. 58-62]これはにわかには承伏しがたい。高見には現在3つの商店があり、いずれも高見で多数派をしめる姓の家によって経営されている。しかし、このことをもって簡単にそれらを支配的「商人資本」と断定してしまうのは早計である。また、歴史的過程がほとんど認識されていない現状で、どの程度歴史が拘束力を持つのかは、いささか怪しい。本島のように人名制の制度的な名残であるワケヤマのようなものが観察できない以上、その影響は確認できない。関のように、歴史的に形成された上部構造や階級の存在を前提した分析は危険であろう。
 従って一見高見ではフーコー的な言説的権力とは無縁であるかに思える。なぜならフーコーはそうした時間軸に一貫性を持った主体が、彼の考古学の対象になる言説的権力の運び手だと主張しているからだ。
 しかし、歴史的に継続する権力の存在を否定できるわけではない。その一つにたとえば家の格、といったものがある。同じ瀬戸内海の島に育った宮本常一は子どもの頃、親に村の各家の格についてはしつこく教えられたと述べている[宮本 1976:70-71]。このことからも家の格という概念はーーせいぜい明治以降である可能性は残るもののーー比較的古い概念であることは推察される。さて、家の格はどうやって決定されるのだろうか。高見で語られている見解はまず、α姓とβ姓は格が高いというものである。
 高見で権力を持っていると考えられているのはα家、β家であり、これにγ家が続くとされる。このことは明確な成文法にこそなりえないものの、きわめて一般的な認識として、高見中に広がっているように思われる。こうした言説は実際村の中枢にいる人からも、周縁にいる人からも聞くことができる。たとえば、後に詳しく検討するなかに現われる「淡路出身者は瀬戸内海で格が高い」というような一部の人しか語らない言説とは一線を画すものとして理解していいと思われる。たとえば島の人たちは漁師以外でも、α姓である現漁協長A氏の引退後はβ姓のB氏がその座を引き継ぐだろうと信じている。
 ことに特徴的なのはαとβは婚姻関係を繰り返し、連合しているといわれていることだ。実際問題として確認できる婚姻関係はここ2世代ほどで4件程度である。結婚がおおむね島内で行われること、島の人口のある程度がβ姓とα姓に含まれてしまうことなどを考えると、婚姻戦略として意識的なものであるか否かの判断は難しい。ゆえにここで確認できるのは、そういった言説が確かに存在するという事実だけであろう。
 この言説が存在する背景にはいくつかの要因が考えられる。まず、その2つの家系が高見において多数派であるということが上げられよう。第二に、α、β、そしてγが商店を経営している、先に紹介した関の言葉を借りれば商業資本あるいはブルジョアジーであることも考えられる。しかし格が高いというのはいかなる制度的機能を持っているのだろう。もしαやβといった集団が社会的に存在するとして、その構成員はどのように規定されるのだろう。そして、それらの意思は統一されているのだろうか。
 こうした疑問に答えるのは極めて難しい。第一に範囲である。浜地区のα姓はほぼ親戚関係が認知されているものの浦地区のα姓との関連は不分明である。婚出したものはどうなのか、養子にでたものはどうなのか、といった規定も曖昧である。ある人は一族の墓に兄弟はいれるが姉妹はいれないと語る一方、自分の娘は一族の墓に入るものと考えていた。
 故にここでの結論は次のようなものとなろう。つまり、それらは格であるとみなされることによって格である。個人と社会・文化の関係は統制的なものではなく、「解釈」をふくむものである。より厳密さを求めれば、次のようにも言える。つまり、個人にとって社会とは参照し、行動の戦略を決定するための何かである。われわれは常に社会(世間、宗教、伝説、道徳、おきて等)を参照しつつ生きている。この戦略決定にあたって人々が自由であるがゆえに、排除や差別といった根源的な権力システムがあらわれる。自己を一つの商品化する、柄谷行人 のいう命がけの飛躍がここにある。


 われわれは全時間を通じて一定の規則に準拠しているわけではなく、「やりながら規則をでっち上げる」のである。一定の基準が将来において「行為の仕方」を決定するのではない。たとえば、私はある語を、将来も同じ意味で用いるという保証はないが、それは私の私意によってではなく、「意味している」ことが成立することを、私自身が決められないからにほかならない[柄谷 1992:56]。


 つまり、人々はα姓もしくはβ姓ならば多数派であるとみなす。そして人々が多数派についた方が有利だと判断するとき、α派を構成する一個人の意見はあたかもα派全体の意見であるかのように拡張され、特権的意見となる。これがまさにフーコーのいう、権力は下からやってくるということの意味である。これも言説的な権力である。そして高見にあっては歴史的な資料から現れるシステムに由来する言説的権力よりも、より実在性を持った言説的権力であると言えよう。



 。 構造変容の契機


 次に、みなされることによって存在する権力が近代的なシステムと結びついたとき、どのようなことが起きるかを考えてみよう。高見島は行政区分としては香川県多度津町に属する。これは本来高見村だったものが多度津に吸収合併したものである。このことで高見の政治は大きな打撃を受けた。全国的にこうした形の合併は多いが、新しい自治政治体に対しての、旧来の自治体住民一人一人の発言力は低下するのである。多度津町議会に議席を獲得するにはおおむね500から600票が必要である。ところが高見に佐柳を加えてもその有権者数は500人にみたない。このため高見島が多度津町議会に代表を送り込み、島の権益を確保するためには、いくつかの条件を満たす必要がでてくる。第一に、高見の人々がある程度一致して候補者を押すこと。第二に島以外の勢力と連絡をもち、それなりの票を島の外からも獲得できること。以上の2点である
 共産党員のC氏は現在町議であるA氏に関して、自民党が票の割り振りをやっているので当選できているのだと主張する。もしそうではなく、A氏個人の人望で票を取っているとしても、A氏が高見に住民登録しながら地方で長く暮らしているという事実がなければこうはいかないことが推測される。とすれば、いずれにしろ島の人間に公の場で民主主義的な議論を戦わせ、議員を選ぶという権利を島の利益を代表する人物の必要性が凌駕する。
 こうして、その能力や思想に関わらず、たんに言説的であったはずの権力が皮肉なことに民主主義的プロセスによって厳然とした制度的権力に固定されてしまうのである。
 では、こうした制度化された民主主義社会にあっては制度外の力の働く根拠は保証されないのだろうか。むろんそんなことはない。たとえ高見の権力機構が漁業組合長、町会議員としてのA氏を中心にしていても、社会の動きはそれだけではない。
 むろん議員の議会での尽力が社会をよくする方に動かせることを認めはしても、先に見たとおりそれらは基本的に保存、継続を前提としている。これに対し、社会構造そのものに直接的な変容をもたらすものも存在する。このいわば第三勢力は常に存在するのである。D氏によれば宇部興産事件の頃までこの第三勢力はγ家がつとめていた。宇部興産による土地の買収が失敗したのはこの一族が最後まで土地を売らなかった点も大きいという。
 ただし、現在の時点でγは第三勢力をなしていない。というのも、現在の漁師は補償金や補助金に多くを負っている。瀬戸内海の漁獲量は年々減少の一途をたどり、相対的に馬力や速度の高い船の必要性が高まっている。また、船は漁師の自慢でもある。しかし、現行の漁獲量では次々でる新型にいちいち買い換えることはできない。ゆえに補助金に頼ることになるのだが、この補助金には漁協組合長すなわちA氏の認可が必要である。こうして漁師はαに少なくとも積極的には刃向かえない構図が生まれる。γ家もまた例外ではない、というのが非漁師であるD氏の説明である。これもやはり民主主義的な制度が権力機構を保存している例と言える。
 これに代わる第三勢力と考えられるのが、C氏を始めとする帰島者たちである。たとえばC氏は宇部興産事件の頃に帰島し、浦部落の総代をつとめている。同時に買収反対運動を組織するために共産党員になっている。その後、県会議員もつとめたC氏は現在でも高見唯一の共産党員である。彼の影響力を測定するのは難しいが、結局買収が失敗していることからも分かる通り、常に一つの可能性として無視できない存在ではあるだろう。
 C氏のしたことはほかに浦のなもで踊りの復活がある。この時は同様のことを志した浜のD氏とのそりがあわず、結局長続きしなかったという経緯がある。ここで面白いのはD氏は先代が淡路からの移入者であり、C氏は帰島者である。なもで踊りが伝統や文化というコンテクストで捉えられ、復活を望まれたのならこの人選は皮肉であり、奇妙に見える。このことは威信の経済学として後に説明するが、ここでは次のことに注目しておきたい。つまり、既成の構造に変容を望むものは多くの場合共同体にとって他者であるということだ。
 たとえば浜地区で早くからごみの問題などに取り組んできたE氏なども、やはり淡路移入者である。かれには淡路の出身者は瀬戸内海でも格が高いんだ、という自負がある一方で、島のためになることだったら乞食のすることでもする、という意気込みもある。また、「部落」という呼称を地区に改めようとしたり、ごみの問題に取り組んだりしている浦の現総代は帰島者である。
 こうした事実を分析する手法や概念は多々あるが、第一に移入者は人間関係のコードをまだ持っておらず、自らそれを作り上げていかなければならないという点に着目すべきだろう。彼らは言説的権力を持たないのである。その獲得過程で満足させられるものが正義感であるか金銭欲であるか、名誉欲であるかは一義的には関係がない。そうしたことが問題となるのはこうした個人の行動が実際に社会に与える影響を分析するときにである。次にそれを試みよう。



 「 威信の経済学


 こうした歴史的、社会的な権力関係の網の目を作る個人の行動はどのような根拠づけの下に、どのようになされるのだろうか。ここではいわば威信の経済学、といったものが重要になる。人が経済活動において最大限の利益をあげようとする行為が経済学的に記述できるように、人が共同体内で最大限の威信を手にいれようとする活動を記述する経済学が想定できる。
 人の社会的地位を高めるのは購買力と威信である。ところが「購買力」や「威信」といったものがマルクス的に言って「物質的」に存在しているわけではない。物質的には金銭やステータスが存在している。表面的には威信への意思は物質的な欲望に見えるかもしれない。しかしこの物質は象徴に過ぎず、長期的にはその所有より消費が威信の獲得に有利であると考えられればそれらは放棄される。
 高見においてこのことを示しているのが民宿δを営むδ家である。δ家は高見と完全に無関係だったわけではないものの、よそものであるという意味合いは強い。技術者だったδ家のF氏は戦後朝鮮半島からの引き上げのあと、妻の故郷の高見に落ち着いた。この、妻の実家という一点のみがδ家と高見のつながりであったが、妻の実家は現在高見において断絶している。また、自身高見の生まれではない長男G氏の妻も、県外の出身者である。ただし、G氏自身は幼いころ高見に移入してきたこともあり、自分は高見の人間だという意識を強く持っている。
 高見島において威信を獲得するために最低限の条件となるのは漁業に従事することである。第一に高見のローカルな政治機構である寄り合いの構成員は漁師に圧倒的に有利なようになっている。しかしなにより大きいのは高見における生業が事実上漁業しかない点である。残る現金収入の手段としては鑑賞用の菊の栽培があるが、この規模は極めて小さい。また、携わる家の数も微々たるものである。除虫菊の栽培が全盛のころには島の主要現金獲得手段は農業であったが、現在農業は年金生活者の小遣い稼ぎでしかない。現在進行の高見を経済的に支えているのは、やはり漁業従事者なのである。
 このことが威信の経済学に与える影響は極めて大きい。移入者が高見の社会でそれなりの地位を獲得できるかは、とりもなおさず漁業に参入できるかにかかっているといえよう。例えばC氏の一族の場合、先に述べたようにC氏はサラリーマンを退職して帰島した者である。その後彼は妹に養子を迎え、漁師を一族中に作っている。これは帰島後宇部興産事件、共産党入党などをへて島の政治に深く関係することになったC氏が、より積極的に政治へ介入しようとして企てたことなのではないかと推察される。ところがこの計画は、C氏が義弟のためにまず佐柳の漁業権を購入してしまったことが高見漁協の反感を呼び、義弟はしばらく漁協の中で微妙な立場に立たされることになったと証言されている。ここではその義弟の被った不利益がどんなものか、またそれがC氏の魚業者間の取り決めや了解に対する無知によるものか、あるいは彼が共産党員という事実に因るものなのか、明確ではない。しかし、実際重要なのはC氏という帰島者が、村の政治に参入するにあたり身内に漁師を必要としたという事実が明確に読み取れる点である。この点でいえば、δ家は十分に高見の政治に参入する資格を有している。G氏自身若いころ船員として長期間島を離れていたことはあるが漁師である。高見で最も収益の高い潜水のおうぎ貝漁や養殖を行う等、かなり大規模な漁業を営んでいる。また、実際は地方在住ではあるが実弟も養殖魚業を営んでおり、高見の漁協に所属している。さらに最大の強味として息子が後継者として控えているということがあげられる。実際、魚業の後継者問題は高見でもきわめて深刻であり、漁業者としてこの島に残る気のある若者は10人に満たない。こうした現状にあって、後継者の存在はδ家が高見の将来に重要な役割を演ずる可能性を保証している。
 さらに、民宿というもう一つの生業も将来的には重要な役割を演ずることが予想される。現在高見島には二つの民宿がある。ただし、もう一つは現在老夫婦二人だけで運営されており、盆や正月に断わり切れない島の帰省客等が泊まる以外は休止状態にある。したがって外来者の訪問など、島の内と外を結ぶときの唯一のインターフェイスは民宿δであるといえるのである。浜地区と浦地区の中間点の海沿いに、2つの民宿は並んで建っている。民宿の前には以前テニスコートに使われていたという空き地があり、そのすぐ向こうは浦地区の港になっている。民宿の横の道を登ると竜王山山頂に至る道に続いている。この付近はいわば高見の中心地というべきで、郵便局、役所の出張所、学校、いこいの家、漁協などが集中している。島の公共施設がこうした配置になっているのは、浜と浦の中間に作ることでいざこざを避けようとしたものか、たんにここが地理的にどの家からも便利だったためか。ともあれこのいわば中心地に民宿δは存在しているのである。むろん、初めからこの場所にあったわけではなく、最初、島の裏側に居を構えていたのが後にこの土地を購入したのである。
 当然移入者としての苦労もあったに違いないのだが、そうしたエピソードのひとつが井戸の問題である。現在のδ家のすぐ近くに浦の共同井戸の一つがある。この井戸は当然、誰がいくら使ってもいいということになっている。しかしある時δ家が家のそばに自家用の井戸を掘ったところ、共同井戸の水が減ると文句を言われたそうである。むろん新しい井戸が掘られたことと共同井戸の水位の因果関係を立証するのは容易ではない。この文句の最大の動機はけん制であろう。しかしその中に「水を使いすぎる者」へのけん制ではなく、「新参者」へのそれが入っていなかったかどうか、より多くの事例を調べたいところである。浦から板持へ続く海岸沿いの道の途中に高見でも良質の水がでる地域があり、他にも何本かの私有の井戸があるのだが、その所有者はすべて当人か親の代に高見に移入してきた人々の所有である。とすれば、水の確保が重要なこの島で、井戸を持っていることが漁協加入同様に重要な威信の基盤になっている可能性を認めてもよかろう。
 さて、いこいの家もδ家にほど近いところにあると述べた。ここは週1回カラオケの会が行われる以外に、そう多くの役をなしているとは言えそうに無い。この事実は祭りのとき象徴的に明らかになる。お大師様の祭りであるおせったいはもともと弘法大師の巡礼をもてなしたのが起源である。四国には旅人をもてなしたところ、それが弘法大師であったという話が多く伝わっている。異邦人は福をもたらすものだったのである。おせったいのような、個人の家で島の人々を供応する風習はここに由来するのだろう。したがってこの祭りへの参加は今でも家単位となる。こうして高見でも何軒かの家が村人達によって擬似的に演じられる巡礼を接待する。このことは比較的理解しやすい。しかし、秋祭りとなると話は別である。これは本来よりオフィシャルな行事である。しかし、秋祭りで御輿をかついだ若者はどうやぶりと呼ばれる宴会に参加することになるのであるが、この宴会は島の公共のスペースであるいこいの家ではなく、民宿δの食堂で行われるのである。
 こうした威信向上のための行為は、必ずしも自覚的に行われる必要はない。これは経済学において経済的な主体が必ずしもその参加する市場の構造を理解している必要がないのと同様である。実際問題として、経済的主体として確立した個人を前提とする必要のない威信の経済学のほうが一般的だと言えるだろう。
 しかし、どこまでこうした行動が自覚的で、どこまで無自覚で習慣的な行為なのかは判断が難しい。たとえばG氏が、もし自分が総代になったら行事への参加をより強く義務づける、というようなことを言うときそれは明快に自分の権威化を指向している訳ではなく、当人の内面では島のためというコンテクストでとらえられているかもしれない。これが高見小学校4)の運動会に自衛隊の楽隊を呼ぶ、ということになるとどうとらえるべきか微妙である。そして、これを自分がPTA会長時代の成果として誇るとしたら、確実に自らの威信化が指向されていると言える。ここでは高見のために何かをしたい、と何かをするために力がほしい、が相補的な関係になっているといえよう。
 また、純粋に威信のための行動ととれるものもある。G氏の場合、それは墓である。浦地区は海岸沿いに共同墓地を持っている。本来両墓制における埋め墓として使われていた土地で、詣り墓は大聖寺にあった。しかし寺の統合で大聖寺が高見全体のものになったこと、大聖寺の境内に土地が不足してきたこと、また近年では両墓制そのものが廃れてきたことなどにより、海岸の墓地が浦部落の共同墓地となった。ここは当然公共のスペースである。しかしG氏はその一番上の部分10畳ほどを個人で買い取り、δ家の墓とした。むろんG氏の宗教的価値観に裏打ちされた行動ととることもできなくはない。しかしながら、立派な墓に入って末代まで祭られようという意志は、それ自体が威信を目的とした行動と言うことができるだろう。
 最後に、高見の人が常に高見に住むことの難点の筆頭にあげる交通手段の問題がある。漁船を持っていていつでも地方にいける漁師がそれ以外の人々より多少有利であることは想像に難くない。また、β家が特船と呼ばれる機能を一手に握っているのだが、ここに変化が訪れる可能性がある。まず、まもなく多度津とのあいだの連絡船がフェリーに替わる。また、浦地区の上まで車の通れるような道路を造る計画もある。こうなると必ずしも自家用船ではなく、買い物をした荷物を一度も積み替えずに家まで運べる車の需要が高まり、交通機関としての漁船の役割は相対的に低下するのではないか。また、民宿δのまえに緊急用のヘリポートをつくる計画がある。これはむろん公共の土地につくられるのだが、G氏はこの土地の買収に意欲を燃やしている。表向きの理由は自分の民宿の前に変な建物でもたてられて日当たりでも悪くなったらたまらん、というものである。だが、買収のあと町に貸与してヘリポートをつくらせようと言うのだからその真意が交通機関のーーいささか象徴的だーー-所有にあることが推測される。  ここでは主にG氏の行動を分析してきたが、こうした諸般の行動がG氏特有のものだという気は全くない。むしろ、こうした行動は誰にでもみられるものだろう。たとえば多度津祭りの夜、H氏は島の外の友人を招いて多度津港で酒宴を催すことを毎年の習慣にしている。これも、威信の経済学の文脈でとらえられるべきだろう。なにより重要なことは、威信の経済学が個体の内面を問題にしないことである。なぜなら人はその欲求の有無に関わらず社会に参与しなければならないことは明白であり、あとはその手法が問題となるだけだからである。そして最も重要なことはその行動の意味でなく、常に機能に目を配ることである。行動は連鎖をつくる。この社会参与の連鎖こそが逆に社会そのものを規定する。その意味でいえば本稿は不十分である。本稿は十分にG氏の行動の機能を分析してはいない。5)



 」 微視的権力の分析のために


 ミシェル・フーコーが今世紀フランスでもっとも影響力のある思想家の一人であることは疑いを得ない。その理論に肯定的であるにしろ否定的であるにしろそれを無視することはできない。彼がニーチェの思想とハイデッガーの方法論に即して明らかにした数々の事実、中でも特に本稿でもとりあげた微視的権力、つまり主体とその知への意志が編み上げる権力機構の存在を疑うことはできない。何度も述べているように権力は政府や王権や軍事力によるのではなく、また経済学的な階級分化によるのでもない。それは人々の自由な意志の組み合わせにより生まれ、事後的にのみ構造や機構として認知されるような、個々人の個別の所作の集合なのである。
 しかしながらフーコーに厳しい批判がよせられていたこともまた、事実である。第一に、それは果たして実証的に存在を証明できるものなのか。フーコー自身たとえば私が本稿で試みたような権力の要因や機能の静的分類を頑として拒絶しているように見える。それはフーコーが実証的であることを否定しているが故なのか。
 これにたいして我々は次のように答えるだろう。実証主義的に構造の存在を証明することはできないし、それは正しい試みではない。クリフォード・ギアツのジャワ農村の経済システム論に関してギアツと新古典派の経済学者のあいだで議論が行われたことがある[原 1985:29]。新古典派の主張はおおむね次のようなものである。つまり、ギアツは合理的な構造を持つはずの経済システム研究に文化や人間関係というようなファクターを挿入し、シンプルであるはずの研究を無用に複雑なものにしている。これに対しての反論は次のようなものである。つまり、「倫理ないし価値規範がデサの住民の大多数によって共有されているという命題は、例えば土地所有の実態といった問題とはちがって容易に『客観的』には証明ができないことは確かであろう。」[原 1985:139]「それは、デサのなかに自らも入り込んで生活し『スラタマン』6) にも参加している過程で観察者があるとき『感得』することによって、その実在が確かめられる類のものであろう。」[原 1985:141]こうした研究によって明らかになるシステムこそ、現に我々が生きている社会の権力構造と呼ぶべきものなのではないか。筆者も本稿においてささやかながらこうした視点の確立に寄与したつもりである。
 第2の批判は、一括して微分権力と呼んでしまっているものが、果たして本当にひとくくりのものなのだろうかということである。これについて本稿はいささかなりと議論に貢献したつもりである。というのも、フーコー自身の研究やそれを引き継いだともいえるサイードらの研究は、いずれも言説的な微分権力に注目しているとはいえ、文献研究である。故に彼らは知への意志に注目し、知識やそれに関わる言説が権力機構の形成に大きく関与していることを明らかにし得たとも言える。しかしながら、本稿の最初で指摘したように、人々は必ずしも自己の主体を統御しようとしているわけではない。むしろそれは貴族の特権的な行為であり、大衆に一般化されたのはヨーロッパにあってさえ極めて最近のことといえる。
 実際先にも述べたとおり、現代にあってさえ人々は日々の営為を時間軸にそった現存在の一貫性としてとらえているわけではない。10才の某氏と40才の同氏が完全に同一人物であると、誰に言えるのだろう。とすれば、たとえば『監獄の誕生』におけるフーコーのように、実際刑を執行される主体、またそれを観察する主体である民衆の視点ではなく、そういった民衆の意志を統括しようとする特権的な視点をのみ研究することは、いささか片手落ちであると言えるのではないだろうか。
 ただし高見に関してつけ加えておけば、G氏は自らの宗教的価値観に則しているわけであるし、E氏、C氏などはたしかに使命感を持っている。こうした人々の行為に、自我としての展望がないわけではない。こういった個人の行動が、権力を生成しているという意味では、フーコーの理論は十分に実証性を持つと言える。しかしながら、彼らの自己認識やその統制と権力の関係は間接的なものである、という印象を拭うことはできないであろう。というのも、そうした人々の行動の基盤となっているのは、本稿で言説的権力として規定した最初の権力形態である。そしてこの権力形態は決して主体化や、知への意志の帰結ではないからである。
 知への意志による主体化の結果ではなく、まさに今誕生しつつある未分化な力への意志そのものをとらえること。権力の根源を自覚的な知識ではなく、日常の人間関係からおのずと現れる言説の流れそのものに求める研究が、試みられるべきであろう。






1)ダム落成式での多度津町長の言葉。

2)面白いことに佐柳島では比較的このあたりの事情が知られている。実際、全く雨の降らなかった年は丸亀から水を購入し、船のまま港に浮かべておくわけにもいかないので船のポンプと島の消防団のポンプで砂防ダムまであげた。途中でホースが切れて水が10メーター位ふきあがった。近くに人がいたら危なかった、というような思い出話も聞けた。同様に水に困っていたはずの高見ではこうした話は一切聞くことができなかった。また、佐柳は寝たきり老人介護のボランティア・グループがあったり、災害時の連絡体制が整っていたり、高見とはかなり異質な印象を受ける。むろんこれは島に平地が多く各家同士の交流が盛んだとか、もともと無人島で人名制がなかったため階級分化や高見的な個人主義が発達しなかったとか、いろいろ理由は付けられるだろう。しかし、最も重要な要因はやはり都会帰りが多くてより学校化されている、ということにでもなろうか。

4)島の過疎化により子供が減り、運動会等の行事が寂しくなったことへの対策。

5)しかし、ここで安易にδ家が将来高見に及ぼす意味、といった考察は避けたいと思う。それは重要なことには違いないが、それをするにはギアーツのいうような厚い記述が必要になる。安易なモデル化はこの場合有害無益であろう。

6)ジャワで人生儀礼、祭日など様々な機会に催される供食儀礼。



参考文献

  フーコー,ミシェル 1986 『監獄の誕生ー監視と処罰』新潮社
  原洋之介 1985 『クリフォード・ギアーツの経済学』リブロポート
  今福龍太 1991 『クレオール主義』青土社
  柄谷行人 1992 『探求1』講談社学術文庫
  宮本常一 1967 『宮本常一全集6 家郷の訓・愛情は子供と共に』未来社
  関佳己 Undated 『島の実証的研究:香川県多度津郡多度津町高見島への産業構造の変化と人口流出』立命館大学
  谷沢 明 1987.4「塩飽の島々:技もつ海人の辿った道」『あるくみるきく』242:4-34


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