日本では学術振興会 特別研究員制度というものがありまして 
 博士課程に在籍する大学院生の10人に一人ぐらいが月給20万円ほどと研究費を100万円弱貰えます。 
 で、人類学などフィールドワーク系だと、これに受かるか受からないかで人生が劇的に違うので、 
 皆さん気張って応募するわけです。 
 ここで公開するのは、2001年度に応募して不採用になったものですね(採用は2002年度ということ)。 
 もっとも、3年間ほとんど変えずに応募していたわけですが…。 
 たぶん、次年度から小笠原をテーマにしては応募しないので、ここで公開してしまいます。 
 なんかの参考にしてください(「落ちた物」であることをお忘れなく)。



学術振興会特別研究員DC2申請書類

小笠原の民族誌:国民国家の境界と地域文化

2 現在までの研究とその成果(700字程度)

 申請者は修士論文において、小笠原諸島におけるマイノリティの成立を歴史的文脈のなかで分析することによって、日本という国民国家の成立およびそのかなで周縁的な地域性の持つ意味を捉え直すことを試みた。
 無人島であった小笠原には、江戸期に、国家の支配から離脱した欧米人が住みついた。その後移民達を住人として含んだまま日本領になることが確定し、支配する帝国が有色人種で支配される植民地住民が白人、という転倒した構図が出現した。
 この歴史過程を言説化することは論者の政治的位置を強く反映する。戦前日本の言説では、西洋の言説を利用しながら独自に「有色の帝国」を正当化するオリエンタリズムが徐々に形成された。それに対して戦前欧米側の言説には、住人への好奇のまなざしはあっても、蔑視や差別は含まれない。戦後はこの関係性が逆転し、アメリカの言説の中に小笠原の欧米系島民を民族集団だと見なす視点が形成された。
 一方、戦後小笠原の返還を訴える日本は、欧米系島民はすでに日本民族に同化しているのだと主張したが、返還後は旧島民との利害関係を調整する必要から、欧米系島民を利益団体としての民族集団と見なす論調が現れた。
 欧米系島民のこの状態に対する抵抗戦略は、明確な自己表象を提示しないことであった。戦後、民族集団としての自己を表象することはアメリカの支配を受け入れることであり、それを否定することは日本の支配を正当化することであった。どちらにせよ彼らの自律的な表象はありえなかったのである。
 「民族」概念の厳密な定義が不可能であることが明らかになった以後の文化人類学は、民族の外延を自己表象にのみ求めてきた。しかし、小笠原の歴史を再検討すると、民族の自己表象それ事態の矛盾や困難があることが明らかになる。しかし、この困難を正確に見据えることによってのみ「単一民族によって構成される国民国家」という支配的な言説の背後に隠蔽される現地の実践を正確に記述することができるだろう。



3 研究計画 (全体で2000字程度)

(1) 研究目的(研究の背景、国内外の研究状況)
 小笠原の文化は、欧米、日本、南洋などの要素が複雑に結合したものであり、また特殊な環境に適応したものであった。小笠原島民は、移り変わる時代に合わせて生業を巧みに切り替えると同時に、八丈島から当時日本領であった南洋諸島の歌やお祭りを取り入れるなど、独自の文化の形成にも積極的な姿勢を見せていた。ところが、これらの文化的特質は、屡々見過ごされてきたし、彼ら自身もあまり積極的には主張してこなかった。
 本研究では、第一に小笠原諸島の文化の特質を、特にその多様な来歴と、特殊な環境への適応という観点から論じる。この「環境」は、単に小さな海洋島であるという面のみならず、その小さな島が歴史の中で多面的な役割をになって来たという側面も無視できない。
 第二に、そうした小笠原の固有の文化が、住民や外来者によってどのように表象、解釈されてきたかについて考察し、日本における「民族」概念のもつ意味を多角的に明らかにする。


(2)研究内容
 現在申請者が調査を進めている小笠原は、日本で唯一、江戸時代から続く欧米系住民の共同体が維持されていることなど、単に地理的遠隔性以上の特殊性を秘めた地域である。にもかかわらず、これまでまとまった研究は皆無に等しい。
 したがって、まず小笠原の文化とはどんなものであるかを考察していく必要がある。
 第一に、小笠原の文化の歴史と特異性を明らかにすることを試みる。例えば、アウトリッガー・カヌーという南洋ゆらいのカヌーは島の人々が自分たちのらしさの象徴であると胸をはる数少ない文化である。これが、大正時代の導入期、戦後実際に漁の主役として使われていた時期(この間、帆走から船外機の導入という変化を見る)、日本返還後に漁の主役が大型船に移った後の観光のために使われるようになった時期、と役割を変えつつ受け継がれてきた。カヌーに関する語りを採集するとともに、カヌー模型の復元などを通してこの技術の持つ特性や、環境や目的に応じてなされた変容を記録する。
 また、「南洋踊り」呼ばれるダンスも大正のころに導入されたと考えられており、現在でも高校で踊られたり保存会が活動するなど、島の人に広く親しまれている。しかし一方で、戦前の南洋に対する差別感を反映した踊りであると見るむきもあり、フラダンスなどを導入して新しい島の踊りをつくりたいという若い人々もおり、一種の緊張関係も生まれている。こうした経緯もふくめて、今後島の文化がどのように変容していくか、これまでの歴史を振り返りつつ見守る必要があろう。
 第二に、その一方で、こうした文化があまり日本で認知されることがなかった背景も考察する必要がある。そのため、この地域について、フィールドワークと行政資料の検証を中心として、小笠原の戦後の生活を歴史人類学的に記述する。特に、米軍占領地域から日本に復帰するに当たって、在島の住民が望んだことと本土に居住していた住民の望んだことが何だったのかを資料と聞き取りの両面から検証する。またそれに対する日米両国の行政側の措置やそれに関わった地域住民の配慮や思惑を探り、それらの人々の地域に対する認識や要望の相違点や矛盾を明らかにする。
 また近年、他の遠隔地と同様「東京並」を目指して、医療、交通、教育、情報などの面での生活改善が試みられているが、そういった試みの行われてきた歴史的経緯とその影響、およびそれらに対する住民側の多様な評価とその変遷を解明する。
 この歴史的経緯の確認は、特殊な国民国家の特殊な地域である小笠原の日本における位置づけを明確化することに寄与し、最終的に国民国家における「地域」の意味を照射することを可能にする。



(3)年次計画
 1年次
 小笠原でのフィールドワークを継続的に行う。日本返還以前のカヌーや漁労技術について、聞き取りや映像記録の収集に務める。また、アメリカと日本の両面において、公文書などの歴史的な文献の調査を実施し、国家政策や時代状況の中での小笠原の位置づけや生活形態について体系的に記録する。

 2年次
 小笠原でのフィールドワークを継続的に行う。特に、観光やお祭りなどにおける「小笠原」らしさの表現について考察する。また、アメリカに移住した欧米系住民や小笠原の欧米系住民と現在も交流を維持している親族筋のアメリカ人への聞き取りを行う。



(4)研究の特色、独創的な点

 本研究は以下の3点を特徴とする。

 1)調査地がこれまでほとんど研究のない地域であること。小笠原の文化人類学的な研究は、これまで国内では事実上皆無であり、アメリカにおいても、博士論文や未出版の研究ノートなどの存在が若干確認できるだけである。小笠原の歴史的経緯や環境の特殊性を鑑みれば、なすべきことは多いと言える。また、日米の間を揺れ動いた時代を生きた、貴重な歴史の証人である世代が高齢化し、そういった時代の証言を確保する最後の機会になりつつあることも研究を急がなければならない理由である。

 2)日本の単一民族幻想を批判するような従来の研究は、中心すなわち東京からの空間的、時間的距離による周縁性を強調するものがほとんどであった。しかし周縁性は単純に場所の問題ではなく、中心のイメージとの関わりの中で、歴史的、政治的に構成されるものである。本研究は、各地域の社会変容を記述することにより、周縁社会が中心性を受容する課程で周縁社会の社会構造自体が変化することによって、周縁性が特徴づけられるプロセスを明らかにする。また、日本においては周縁性を隠蔽する力も働いていることにも注目する。

 3)民族は近代以前に起源を持ち、現在の民族問題はその残存であるとするこれまでの視点に対し、近代化の推進力そのものが民族を切り出したり、地域のコミュニティーを破壊するものであるという事実を明らかにする。また、一方で、民族の表象の問題の背後に隠れた、地域住民の実践を記述する道を探ることが出来る。

・論文要旨 (全体で2000字程度)

「小笠原のオリエンタリズム:『帰化人』をめぐる言説の系譜学」

 近年、日本の境界画定におけるオリエンタリズム言説の効果についての研究が数多く為されている。しかし、小笠原諸島については、オリエンタリズム研究の空白地帯である。これは、国民国家の視点で小笠原を対象化することの困難を反映している。
 国民国家はその神話に包摂できない要素をマイノリティーとして聖別するか、あるいはまったく忘却するかして、その神話の純粋さを保つ。小笠原の「エスニック・マイノリティー」であった欧米や南洋に出自を持つ島民の扱いが、帝国主義日本の小笠原統治の鍵になったであろうことは疑いがない。忘れ去られた「民族」の存在に十分配慮した民族誌は、今後の課題である。
 アメリカ側のいくつかの報告には、第二次世界大戦中の「欧米系」の人々の苦難が記録されている。島のアメリカからの返還にさいしても、欧米系の人々が反対したのには、戦中の恐怖の記憶が影響していた。こうした苦難は戦争がもたらしたものであるとしても、それ以前の小笠原は理想的な共生が可能な土地だったのだろうか。いくつかの文献から、戦前の日本は一貫して排外的であったという見方も、第二次世界大戦のときに戦争という状況が仕方なく日本人を差別的にしたのだという見方も、同様に誤りであるといえる。日本の排外性は段階的に準備されたものである。
 江戸から明治初期の欧米人船乗りたちの記録の中の小笠原の移民へのまなざしは、当然のことながら決して差別を含むものではない。一方日本側は、そうしたヨーロッパの記述を模倣しながら、徐々にオリエンタリズムを造成させていく。
 まず、著名な言語学者である大槻文彦の『小笠原新誌』の中では、住民は「白人は皆欧米種なれども無頼の徒多く、徒に日を送るが故に愚且懶惰なり」と表現される。
 小笠原に行ったことのない大槻がの記述にはいくつかの典拠が想定できるが、いずれにせよ欧米人の記述の曲解である。彼のオリエンタリスティックな見解は、この後多様な論者による小笠原の民俗、風習の記述にくりかえし現れる。この意味で、大槻の見解が小笠原を理解するパラダイムになっていたことがわかる。このような定型化された語り口が、小笠原を日本の植民地的統治の下に置くことの正当化に寄与したであろう事は論を待たない。「固陋野鄙」な人種はむろん開化しなければいけないのである。
 この傾向は、1906年の『小笠原島志』になるとより明らかになる。その中では、帰化人が南洋系の人々としての特徴を強く受け継いでいるという見解が表明される。とくに注目すべきは、「歐米に於ける中等社會の美風好尚」という形で西欧の先進性の文化的優越をひとまず認めたうえで、その美風が「絶て無」いことをことさら嘆いてみせる身振りであろう。ここに、日本の行政府による、小笠原住民を一個のエスニック・グループと見なすパラダイムがここで一応の完成を見たわけである。
 明治以降の日本の帝国主義が採用したロジックは、より後進的な諸地域には開化という名目で近代の産業構造と日本の支配の受け入れをせまり、反面それらの地域が日本を飛び越してヨーロッパの介入や支配を受け入れることを阻むためにヨーロッパ的植民地主義からの脱却や民族自立を説く。民族の自立は皇国への忠誠という形で発露せしめねばならない。というのも、開化や文明化のみが強調されれば、支配地域の忠誠心は日本をとびこしてヨーロッパを目標として選択してしまうおそれがあるからである。
 この「有色の帝国」の論法の原理的な問題は、小笠原のヨーロッパ人に適応しようとしたとき、明らかであろう。というのも、例えば沖縄の場合は、内地の風習をまねることはより進歩した文化を身につけることだという論法が通用したが、小笠原におけるマイノリティーはそもそも日本人が目指すべき西洋人なのであるから、これは通用しない。
 こうした困難が、明治の小笠原関連文献において、小笠原島住民をヨーロッパ人やただの「人間」ではなく、雑婚の末に誕生した特殊なエスニック・グループとして記述することを選ばせたのであろう。
 帝国や支配民族とは白人のことで、植民地や従属民族は有色人であるというのが常識になっている。ところが小笠原の構図は有色人である日本が支配的な帝国の側で、植民地のネイティヴが白人という、転倒した構図を描いている。これは、知識や政治体制の側面では「進歩した」ヨーロッパを目指し、いっぽうで白人の有色人に対する横暴を反ヨーロッパの動機にするという日本のイデオロギー戦略にとっても奇妙な転倒だった。そのため、彼らはヨーロッパ人でない、小笠原の特殊なエスニック・グループであるというレトリックが必要とされたのである。
 しかし、このレトリックは、あまり普及することがなかった。そのために小笠原は我が国の民俗学という意味では忘れられた存在になった。しかし、一方で小笠原諸島が帝国の一部と化して均質な同一性のなかで忘却されることも、帝国の起源として神話化されることも拒絶しうるのは、逆説的ながらなこのレトリックの不可能性ゆえでもあった。だとすれば、現在、日本が小笠原に独特の文化、風土を維持できていることは、国民国家の統制力が及ばなかったことがもたらした歴史的がもたらした帰結であるとも言えるだろう。


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