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インド・フィールド報告:
 2001年9月22日から10月31日まで、インドを訪れたさいの報告です。 
 簡単な覚え書き程度の日記ですが… 
 大学バッシング激しい昨今、大学院生がどんな生活を送っているのかご理解いただくため 
 …という、おもに世間一般の人々にむけたものであると同時に、 
 論文だけでは判らない調査の手法的な部分でも相互批判を可能にするため 
 …という、おもに人類学者に向けたものという意味もあります。 
 どちらにしても中途半端かもしれませんが、まぁ、フィールドも日記公開も最初ですので… 

 ご意見、ご批判などお待ちしてます。 

 

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準備編
 今回持っていったもの:
 ・PowerBook (個人所有。やっぱ重いわ。iBook欲しい。あと、うまくモデムが反応しない。なぜだ?)
 ・ヴィデオカメラ (研究室のもの。再生機能がちょっと変。)
 ・デジカメ (研究室のもの。あとからACが国内用であると気がつく(笑))
 ・MP3レコーダー(個人所有。ヴィデオカメラが壊れた時用。っていうか、事実上娯楽用でした。)

 

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記録編:

2001年9月22日 
 関空発。テロの影響で警備が厳しいと聞いていたし、また実際空港にもそう書いてあったのだが、意外とすんなりチェックを通過。マレーシア航空クアラ・ルンプール行きの便に乗り込む。飛行機もけっこうな混みよう。あまりテロの影響は感じられない。
 クアラ・ルンプール到着後、無料シャトルバスであらかじめ予約しておいたホテルへ。シャトルバスの場所がちょっと判りにくくて迷ったが、無事到着。簡単に食事をすませて就寝。

23日
 クアラ・ルンプール発のマレーシア航空にて、夜インド到着。飛行機内が冷房の効きすぎだったとか、日本を出るまで忙しかったとかあって、かなり体調が悪い。イミグレを通って荷物を受け取ったあっと、出口のところで係員が関税カードを集めているのだが、ここで最初のトラブル。なぜか出国カードまで取り上げられる。返せといっても「オマエにこれはもう要らない物だ」といって返さない。他にも数枚、関税カードと出国カードがつながった物を持っているのが見える(もちろん、ついていない物もある)。体調がしんどかったこともあり、面倒くさくなったのでそのままにして出る。お金を替えた後、お世話になるJawaharlal Nehru University (以下JNU)のクマール先生宅に電話。…といっても、もちろん小銭は持っていないのだが、男がひとり近づいてきて(半ば強引に)1ルピーを貸してくれる。早速電話をかけるが…なぜか電話はうんともすんとも言わない。男がなんか言っているが取り合わず、とりあえず売店でジュースを買って休んだ後、(もちろん小銭が出来たので)もう一度挑戦。なぜかかかる(コインに細工、ってできるんでしょうか?)。
 電話でJNUのインターナショナル・ゲストハウスに向かうように指示を受けて、プリペイドのタクシー券を買う。タクシー券には車のナンバーが書かれており、そのナンバーの車に乗るシステムになっているのだが、そのナンバーの車が見つからない。また別の怪しい男が現れて「こっちだ」というのでついていくが、別の車に乗せられそうになる。別の車でもかまわないのかもしれないが、外務省情報などで空港タクシーのトラブルが報告されていることを鑑み、乗車を拒否。またプリペイド・カウンターにもどり、番号を変えてもらう。
 こんどは無事出発するが、若くてチンピラっぽい風貌の、なんか頼りなさそうなドライバーである。車内でドライバーは「JNUにゲストハウスはない。オレがいいホテルに案内するからそこに泊まって明日大学に行け」を繰り返す。もうちょっと手を変え品を買え説得されるのであれば楽しめないこともないが、オウムのように同じフレーズを繰り返すので、こっちも(最後はかなりイライラと)「早く行け」を繰り返す(でも、おかげでしんどいのがふっとんだ)。
 …案の定ドライバーはゲストハウスが判らず、大学のよく判らないところでおろされる。そこからは親切な学生に案内され、徒歩でゲストハウスに向かう。けっこう歩かされる…というか、あまり建物もないのにむやみにでかい大学である。後に聞かされるのだが、研究や保護もかねて、元の自然林を残す形で設計されているらしい。
 とりあえずゲストハウスにチェックインし、先発していた矢谷直子(一橋大学)と合流。1日が終わる。ゲストハウスは、予定していたドメスティック用がいっぱいだったとかで、値段は倍(といっても10ドルほど)のインターナショナルになったものらしい。あちこちガタは来ているが、一応お湯(と水の中間ぐらいのもの)もクーラー(屡々効きすぎる)もあるので、比較的快適。

24日
 朝、大学の食堂で朝食を取る。パンとオムレツのセットとお茶(チャイ)。ちょっと休んで、昼食がてら、大学内を散策。矢谷は学内の郵便局で国際便を送ろうとするが、昼休みだったり、計算におっそろしく時間をかけられたり、ほとんどそれだけで1日仕事である。夕方、神戸大の塚原さんの紹介で今回JNUのゲストハウスを用意していただいたJNUのディーパック・クマール教授を訪ねる。教授は"Science In Raj"などの著作で知られる科学史家である。クマール教授とは、STS国際会議で面識があったのだが、その時の日本の話などで時間を過ごす。そのまま、イルファン・ハビビという有名な歴史家の出版記念パーティだかがあるというのでお出かけ。会場はシヴァのカンファレンスが開かれるIndia International Centreである。ホントにここか? いや、まさか野原で輪になって国際会議を開くと思っていたわけではないが、それにしてもここはちょっと立派すぎる。

25日
 JNUちかくのBasant Lokという高級ショッピング・センターのようなところへ向かう。とりあえずインターネット・カフェに入る。自分のPowerBookがつなげるかと期待したのだが、それはムリとのこと。しかし日本語の読めるマシンはある。それぞれのマシンでまず、係のにいちゃんがIDとパスワードを打ち込んでから始める形式になっているところを見ると、店舗はより上流のシステム・プロバイダーのフランチャイズなのであろうか? 
 ちょっと早いが夕食と言うことで、T.G.I.Fridays という(多国籍な)ファミレスに入る。大学食堂ならばチャイが2ルピー、30ルピーもあれば夕飯でおなかがいっぱいであるが、ここで夕食を食べるには一人300〜400ルピーほど必要な感じの値段設定。味はまぁまぁというところか。一皿はバカみたいにでかい。よく考えると、カリブ系の料理はスパイシーだし、インド人ごのみか? ついでにメガマグ・ビールも頼むと、二つ出てくる。この時間は一つ頼むと一つフリーだとのこと。そこまでアメリカのマネがしたいか? しかも、ジョッキのサイズは「メガ」の名に恥じぬ…っていうか、これはピッチャー? 矢谷はほとんど酒を飲まないので、がんばって一人で一つ半ぐらい片づけるが、最後にちょっとリタイヤ。

26日
 バスでデリーの中心街であるコンノート・プレイスへ。ちょうど通勤時間帯だったため、混みまくりで難儀。車掌は老人が乗ってくると子どもを立たせているが、成人以上であれば若くても特になにも言われていない。あれは料金の問題なのか?デリーのマック
 試しにマクドナルドへ入ってみる。こちらはいわゆるヴァリュー・セットで90ルピーほどである。それでもふつうの食堂の倍ぐらいの値段である感覚か? 食後、Bookwarm等、数件の本屋を覗く。環境がらみはインドでも多大な関心事らしく、かなりの量の本が出版されているようだ。
 出版社や問屋が多く位置しているダリア・ガンジへ移動(結局今回の滞在中は行けなかったが、日曜日は古本市などもあるらしい)。オックスフォード大学出版を覗く。ここは問屋なので一割引で買えるが、ルピーの現金のみでカードやドルが使えないのでちょっと不便。今回は見るだけにしておく。

27日
 朝、大学内の銀行にむかうが、TCの換金はできないと言われる。JNUの旧キャンパスならできると言われるが、ちょっと信用ならない気がしたので、またまたバサント・ロック・コンプレックスへ出向いてみる。ところが、ここの銀行やアメックスの支店でも換金できないという。どういうこっちゃ。アメックスではコンノート・プレイスのオフィスに行ってくれと言われるが、さすがにそれはメンドウなのであきらめる。マスターカードを通すATMがあるので、とりあえずカードでお金をつくることを試みるが、どうもパスワードを受け付けてくれない。間違ってないと思うのだが…? 磁気の問題かもしれないし、これもあきらめる。
 インド・ローカルなコーヒー・チェーンであるところのBaristaに入る。まぁ、スターバックスみたいなものか? ちょっと薄めのコーヒーが20〜50ルピーほど。町のチャイが2〜3ルピーなんだから、ある意味バカ高いと言えよう。国内の経済格差の大きさを感じる。
 ここは高級マーケットなのでアディダスやナイキなどのショップがある。ちょっと冷やかしに覗いてみると、ようするに日本と同じような品揃えである代わり、値段も同じである(日本の郊外の巨大アウトレットなんかで買った方が安いかもしれない)。
 今回は普通のインド料理屋で食事して帰る。お金を替えるといったような雑事も1日仕事で、大変だなぁと思い始める(しかも結局変えられなかった)。

28日
 朝、ゲストハウスから電話をするものの、回線状況が悪くてなんともならない。そこで(ご迷惑かとも思ったが)直に日本山妙法寺を訪ねる。イースト・オブ・カイラシュにある立派な4階建ての建物である。一応日蓮宗系のお寺なわけであるが、吹き抜けにステンドグラスのお釈迦様があしらってあったり、チベット風の装飾が施してあったり、ちょっと無国籍な空間になっている。ここは、日本のインド研究者にも宿を提供しており、連絡先としても使わせてくれるので比較的便利である。こんどはためしにこちらも利用してみようと言う話になり、お昼をご馳走になったり、チベット系のお坊さんたちと話したり、インターネットを使わせてもらったりする。こちらに移動する日を決め、その後、お寺近くのインターナショナル・トレード・タワー(思わず「ワールド・トレード・センター」とか言ってしまう、めんどうな名前である)のトーマスクックの支店でやっとこTCを取り替える。インドではどうも、スリや置き引きのたぐいにさえ気を付ければ、強引な強盗は少なそうだし、TCを現金にするのは大変そうなので、ちょっと多めに取り替えるようにする。ところが、なんと50ルピー札の束がやってきて、ちょっと運ぶのが大変。
 ゲストハウスの延長をの手続きをして、ついでにに今日までのぶんを払う。ところが、最初に言った期間を消化していないにも関わらず、今日から混むから部屋がない、という。結論として、スイートがこれまでのちょうど倍の1000ルピーなので、そっちに移れ、という。それはちょっと、というと、スイートだから当然二部屋あるので、もう一部屋にマットを敷いてやるというので、そのラインで妥協。ところがトラブルは続くもの。部屋を移るごたごたの中で矢谷が部屋の中に鍵をおいたままドアをロックしてしまう。「合い鍵は?」と問うと、「そんなものはない」という答え。ちょっとうろたえる我々を後目に、インド人たちはたんたんと唯一廊下に面したバスルームの窓(はめ殺し)を手近にあったレンガで破壊し始める。鍵を忘れたことを責めるでもなく、システムの不備を嘆くでもなく、通常業務であるかのごとく窓を壊して部屋に進入。中から鍵を開ける。
 やっとあちこちのはめ殺しがはずれているわけが理解できたわな。ちなみに新しいスイートもはめ殺しが無くなっている。ついでにいうとお湯も出ないし、トイレもうまく流れないのでバケツで水を流してやる必要がある。面倒くさいのでそのへんは目をつぶることにする。

29日
 "Women, Globalisation and Environment"カンファレンス初日。初日のテーマは "Women & Ecology" である。基本的にはインド国内や世界各地におけるNGOアクティヴィスト(主に女性)が壇上で活動報告や問題提起をしていく。役人を追い出して自給自足を始めた人たちの話など、ちょっと面白そうなエピソードもあったけど、多くの場合は「まぁ、そうでしょうな」という感じで…NGOアクティヴィストの関心がアカデミシャンの関心に沿わないのは仕方ないのだが…。
 休憩時間、この会議の主催者であり、日本でも『緑の革命とその暴力』『生きる歓び: イデオロギーとしての近代科学批判』などの著作で有名なヴァンダナ・シヴァ氏に「北九州でお会いしたものだが」と挨拶する。もうすこしナヴダーニャの農場などを見せて欲しいと申し込むと、「ちょうど明日から3週間のツアーコースがあるから参加しなさい」とおっしゃる。3週間だとインドでの滞在がギリギリになってしまうのですが、というと、では3週間コースを1週間で切り上げてもいいとおっしゃる。ツアーがどんなものか判らなかったので、欧米人の観光旅行につきあわされるだけなのではないかと、ちょっと不安を感じるが、とりあえずお願いする。事後に振りかえれば、ツアーに参加したことは結果的には大成功だったったと思うが、この段階では展望なしの行き当たりばったり。
 最後に、インドの村の様子を写した映画の上映がある。村の女性たちが川で儀式をするところが美しく描かれており、芸術とドキュメンタリーとプロパガンダをミックスしたような作り。ただ、女性たちの祈りがインドの伝統性や神へのものではなく、多様性や知識へのものであるところに特徴があろうか? このあたりの言説構成の仕方は調べる価値があるかも知れない。

 30日
 今日のテーマは "Natural Rights To Natural Resources"。話題の焦点の一つは 生物多様性(Biodiversity)であるが、それ以上に水の私有化(Water Privatization)が人々の関心を引いている感じ。ここでのPrivatizationというのは、例えば水道インフラの供給が国や自治体から私企業に移すことや、水資源がペットボトルで先進国に運ばれていくことによって、貧乏人がちゃんとした水にアクセス出来なくなることを指している。昼食休憩の時も何人かから「日本では水道供給はプライベート・カンパニーの責任か? 自治体の責任か?」と聞かれたから、「全土で自治体の責任であり、都市はもちろん農村部でもほぼ100パーセント上水道が利用できる」と答えておきましたが…間違ってない? 事実誤認があればメールででも指摘してください。しかし、「水の私有化」問題は、生活者にとってはこれ以上ないぐらい重要な問題だけど、アカデミシャンとしては白黒ハッキリしすぎていて、ちょっと手を出しづらい。難しい問題ですな。
 どうでもいいけど、インド人の男性質問者はちょっと失礼な人が多いですな(笑)。アカデミシャンの国際会議でもしゃべり続ける人が多いけど、ここではさらにその傾向が強い。突然立ち上がって「アンタの発表は面白い。それで、アンタの名前は?」と言ってみたり(最初にちゃんと言ったし、プログラムぐらい読めよ)。あと、ガンジー装束のおじいちゃんは、なぜヒンドゥー語でしゃべらないのか、と怒っていた。

10月01日
 朝、ミーティングに参加するために、ツアーのメンバーの宿泊先である Aurobindo Ashram へ。アシュラムの朝食を勧められるが、不摂生ゆえ低血圧状態で、とても食べられそうになく、とりあえず牛乳だけいただく。ここで初めてツアーの参加者に会う。アメリカ、カナダ、メキシコ、南ア、そしてインドなど、出身も年齢も多彩な感じ。自己紹介をするが、扇風機が五月蠅いため、隣近所の人しかちゃんと聞き取れず。コースの説明を聞く。予定表としてはかなりラフなもので、宿泊場所など具体的なことはさっぱり判らないのがインドっぽいか?
 そのまま会議に参加。今日のテーマは"Vasudhaiv Kutumbakam - Earth Democracy"(そろそろしんどくなってきていて、かなり寝てました。スイマセン。っていうか、冷房強すぎます)。総じて言えば、 Earth Democracy と題されている以上、今後の対策が議論されることを期待しますが、そのあたりは今一つ具体性に欠ける印象。「水の私有化」やエンロン問題など、今我々が直面している危機についての説明に終始している感じで、さて昨日のテーマとちゃんと差異化されていたのか?

 終了後、お金をおろすなどのためにバサント・ロックへ移動(初めてメーター改造リキシャに出会って、ちょっとケンカ)。JNUに戻って、クマール家にパソコンなどの貴重品を預かっていただき、旅行の準備をして、ちょっと寝る。

02日
 早朝、オロビンド・アシュラムへ。そこからツアーの面々と行動をともにする。まず、 英Resurgence誌のファウンダーである、サティッシュ・クマール(Satish Kumar)氏と、タイの有名な平和運動家にして仏教思想家(らしいのだが)スラック・シヴァラクシャ(Sulak Sivaraska)氏のお話。共感できるところが皆無なわけではない物の、どっかで聞いたような「ホーリズム」論が続くのでちょっと退屈。ただ、クマール氏が、哲学者バートランド・ラッセルが平和運動を理由に投獄されたとき、奮起して平和を訴えるためにデリーから徒歩でモスクワ、パリを経由してロンドンに向かった話は面白かったです。ちなみに、この方は『スモール イズ ビューティフル: 人間中心の経済学 』で有名な経済学者(なんすか?)、E.F.シューマッハを記念してつくられた Schumacher Collegeのディレクターでもあるらしい。で、今回のこのツアーは、シューマッハ・カレッジとシヴァのグループが共同で企画した物らしいということが判ってくる(っていうか、参加してから「判ってくる」ようなんでいいのか?)。で、最後にクマール氏を中心に「ホピの世界を讃える歌」だかで踊って講習終わり。なんとなく近代文明から脱却できない私(ともうお一方、スイス人)はちょっと居心地悪げに後ずさり…。
 その後、本日は国父ガンジーの生誕記念日とかで、ガンジーの眠るラージガートへ。ただ、タクシーの手配がうまくいっていなかったらしく、アシュラムの庭で二時間ほど待たされる。…ダイジョウブか、この旅行? で、なんとかラージガートへ到着。すごい人混みの中、とりあえず中を通り抜ける。正直言うと別にラージガート、どうでもいいんですけど、インド人がどうしても見せたいみたいだったんで…。ただ、初めて実物のコブラ使いを見たのは面白かったです。その後、なんだか良くわからないけど「式典」とやらのために場所移動。あれよあれよという間にたいそう立派な招待状を渡され、厳重なボディ・チェックを受けて会場のGandhi Smriti(ガンジー記念館、みたいなところでしょうか?)に。会場では若者たちが例の糸車をカラカラ回しているのがガンジーのイベントっぽい。っていうか、ここ、どういうところ? …と思うまもなくヒンドゥやジャイナ、チベット仏教などのお祈りが始まる。「日本の仏教」というところでお祈りしているのは日本山妙法寺のお上人だったから世界は狭いものだ…。と、思っていると、SPを数人引き連れたインドの爺さんが(あとで確認したところによれば副大統領だとか)。そういえば、テレビ・カメラも数台並んでいるし、エラいところに来てしまったらしい。ヴァンダナ・シヴァって何者? その後、かなりプロなインド音楽(っていうかお祈りですな)があって、式典終了。
 ちなみにこの式典ですが、ガンジーの生前は彼自身が色々な宗教のお祈りを自分自身で唱えていたのにちなんだものだそうです。午前中は同じものがラージガートでもおこなわれ、そちらには大統領、首相や各党の党首が出席していたとのことです。なぜか今年はイスラムのお祈りがありませんでしたが、いつもはあるとのことで、偶々か、時節がらか?

 IICで、 The Ecologist誌のファウンダー、Edward Goldsmith氏の講演。この講演は、インドの農業を研究したイギリスのSir Albert Howardを記念して、シヴァのResearch Foundation for Science, Technology and Ecologyが主宰しているらしい。ハワード卿という人は、よく知らないのですが、有機農法の有名人らしいですね。で、講演を聴こうとしたら、「あんたたちは明日の朝の電車の予定だったが、今晩の電車に乗れない人が出たので、乗りたければそっちでもいいけど」と言われる。どちらかと言えばそっちのほうが色々イベントを見逃さないと思われるので、変更を希望。ただし、他の人が荷物持参で会場に来ているのに、明日の朝移動だと思っていた我々は荷物をアシュラムに置いてきている。さっそく荷物をピックアップするため、アシュラムへとって返す。…結局講演は聴けなかった。
 そのままデリー駅へ。外国人の集団を発見したポーターたちがハイエナのように群がってきて、いつのまにか囲まれている(笑)。久々にハードなインドを実感か? NGOメンバーのDr.Aを先頭に、ぞろぞろと列車のホームへ。なんとかはぐれるものもなく着いたかな、と思ったら「ここでいいのかしら」とDr.A。…アンタは私らを先導していたんじゃなかったのか? その後、別のNGOメンバーが呼びに来て一件落着。しかし、電車がホームに入ってきても、インド人たち、キップと目の前のお荷物(外国人とホントの荷物)を前にフリーズ。「どうするんだ、電車がでちゃうぞ」と思っていると先頭のほうの車両から(VIPを案内しおえた)Dr. シヴァがやってきて、大声で指示を出す。いきなりキビキビと働き出すインド人たち。荷物と外国人の半分が片づいたところで呼ばれてその場を去るDr. シヴァ。インド人、またフリーズ(笑)。離ればなれの座席を指定されたカナダ人のルーマニア人の若夫婦の「私たちは死んでも離れないわ」というのろけクレームなどに壊乱されたというのはあっても…ちょっとこの人たち頼りなさ過ぎ。と、思っているまた向こうから小走りのDr. シヴァ。彼女の指示で座席がすべて決定し、お弁当も配られ、全てが解決。しかし、運動の創立者にして理論的支柱が同時にお弁当係も務めなければいけないNGOって、どうよ?
 ※ただし、外国人たちも基本的に世話の焼ける人たちで、イギリス人が荷物を盗まれたり、まぁ大変。

03日
 8時ごろウッタランチャルUttar Anchal州(旧ウッタル・プラディシュ州の北部が近年分離)の州都デラドゥンDehradunに到着。そこからバスでナヴダーニャ・ファームへ40分ほどの道のり。途中なんども干上がった川をこえる。昨晩からかなりピリピリしているシヴァ先生、真っ先にバスをおり…いきなり側溝に落ちる(一瞬動かなかった)。泡をくったインド人たちが駆け寄るが、なんとか起きあがって大丈夫そうなそぶりをする。で、自分がかなりナーヴァスになっていることに気がついたらしく、苦笑い。やっぱり今回のツアーは初回でもあり、また大物ゲストを何人も呼んでいることもあって、シヴァにもかなりの緊張を強いているようである。
 ナヴダーニャ・ファームは、NGOの土地と、シヴァ家の個人的な土地で構成されており、その一部に今回つくられたばかりの学校用の建物がある。くの字型の建物が二棟建っており、一棟は宿泊用の部屋と勉強部屋、風呂トイレである。風呂といっても個室に蛇口がついているだけで、水しかでないが、一部屋湯沸かしが用意されているのでお湯も使えないことはない(使っていいのかどうかは指示がなかったので…いいんだろう)。宿泊部屋は基本的にツインで、一部屋あるドミトリーはNGOのメンバーが使っていた。宿泊部屋には基本的に川の名前がつけられている。もう一棟はキッチン、台所、事務所などが入っている。キッチンは「将来は図書室になる」予定だったらしいが、アレじゃ狭いだろう、という参加者たちの意見で後にDr. シヴァは図書室練をたてますことを決定した。建物はまずレンガを積み上げ(レンガが露出している部分をよく見るとレンガじたいよりセメント部分のほうが分厚かったりするのは秘密だと思う)、それに粘土、藁、牛糞(防虫効果があるらしい)をよく練ったものを塗り、さらに粘土と牛糞を練った物を塗る。あと、床はラテライトかなんかの赤い塗料が塗られているのだが、これが服やら靴やらにくっついて真っ赤っか。「環境にも健康にも優しい建材を選んだ結果なので喜んで真っ赤っかになりましょう」という趣旨のシヴァの演説があったのだが、やっぱちょっと処置に困るやな。
 昼飯はファームで育った米や野菜、それに各種のミレットを使ったチャパティなど、確かにうまい。午後から開所式。さらに植樹などがある。ゲストに混じってシヴァや、Bija Deviさん(伊 スローフード協会の表彰を受けたシヴァの実働隊長)なども植樹。
 夜、キャンプファイヤー…の準備が整えられたまわりで集会。でも、結局薪に火がつけられることはなかった。何なんだ?

 ※ところで、インドでは男尊女卑がまだまだ、とかいいますが、さて本当でしょうか? 色々なところで見聞きする話では本当ですが、ここナヴダーニャ・ファームではちょっと違うよう。当地はシヴァ家の所有する土地であり、ファームの雑務もふだんはデリーや海外にいることの多いDr.シヴァに代わってシヴァ家の当主であるらしいシヴァのお兄さん(Mr.シヴァと呼ばれている)が取り仕切っているようです。Mr.シヴァは空軍上がりの小柄ながら厳つい顔つきのお爺さん(一歩手前ぐらい)。でも時々、そんな彼がファームの事務所(三面しか壁がないので中がモロ見え)でDr.シヴァに大声で怒られてムスッと押し黙っている姿が見られます。NGOのメンバーや農民たちも当然それを見て、くすくす笑っていたりします。ここでは誰が支配者かは一目瞭然のようで…

04日
 朝7時、起床するとヨガの時間。ビートルズが修行したことでも有名なヨガのメッカにしてヒンドゥの聖地リシケシュからわざわざ招かれたヨガの先生がやってくる。…やってみて思うんですが、余計な御託がついていなければ(少なくとも基本コースのうちは)「呼吸に特に気を遣ったラジオ体操」ですな。欧米人がありがたがるのは、彼の地にラジオ体操文化がないからか?(エアロビクスとかと比べて、どうなんだろ?)
  食事のあと、三班に別れて作業の時間。農作業ってことで裏庭の畑を耕して、小石をどける。Satish Kumar氏らは大喜びで作業にいそしんでいるが…正直言うとしんどいし、面白くもない(笑)。っていうか、これを毎日やらされることになったら、モンサントの「ラウンドアップなら不耕紀でいけます」っていう宣伝文句はさぞかし魅力的なものに響くだろうなぁ、と思う。
授業風景  その後、午前中のレクチャーがあり、昼食後に長い長い昼休みが入り、涼しくなってくる夕方にまたレクチャー。本日はまず Third World Networkの創立者であるMohammed Idris氏の講演。ちなみにThird World Networkとは、第三世界で一番よく組織された消費者運動だと考えていただければいい。Idris氏のお話は、なぜ組織を起こして、なにをやっているかなど、今回のレクチャラーのなかで一番実践的で役に立つものでした(が、やや英語聞きづらし)。さらに、エドワード・ゴールドスミス氏。イギリス人で、ご高齢で、とどめに(どうも耳がお悪いせいだと思うのだが)活舌の悪い氏の言語は、ちょっと英語苦手な私にはほぼ100パーセント聞き取れませんでした。困ったもんだ。(その点、ヴァンダナ・シヴァとサティッシュ・クマールの両インド人は声もでかく、発音も明瞭で、インドなまりもなく、聞きやすい。っていうか、役者として十分やっていけそうな人々)。
 その後、「ホントはもっと早く配るハズだったんだけど」と言われつつ、シヴァなんかの本が詰め込まれた、コースのロゴ入りの鞄をもらった。

05日
 農園風景朝はヨガ。今日の作業は食事係。その後、いよいよナヴダーニャ農場の見学である。生物学のドクターで、実験などを取り仕切るDr.Bが実地に案内してくれる(Dr.Bについては、シヴァと連名の著作もある半ば以上公人ですが、このあと記述が家族のことなどに及ぶので一応偽名。その気になれば日本からでも判っちゃうと思いますが…)。ファームでは250種類ほどの米と90種類の麦を中心に、ミレットなど各種の穀物や薬草などが(むろんフル・オーガニックで)育てられている。また、農場の一部では9種類の穀物を混作するという、インド古来の農法(らしい)の実験もおこなわれてる。農場の一角には、NHKの特集にも登場した、穀物の貯蔵庫がある(当たり前だがテレビ通りの倉庫で、穀物のカンがならんでいた)。今は取り入れの最中でもあり、10人ほどの人が刈り取りや脱穀などをおこなっている。働いている人は、お金をもらっている人もいるし、それなりの富農で、ナヴダーニャでの労働については完全なヴォランティアだという人もいるという説明であった。数人は英語がしゃべれるが、スローフードから表彰されたというおばあさんを含めて、ほとんどの人があまり英語を解さないので、詳しい話を聞くのは難しい。やはり本格的にやるにはヒンドゥは必須か(インドは地域言語が多様であるが、ヒンドゥは大概の人がそこそこしゃべるようだ)。

06日
 今日は学校はお休みということで、国立公園へ。…ついたところは国立公園と言うよりは井の頭公園?。若いインド人が川を加工してつくったプールで楽しそうに泳いでいる(なぜか男性のみだが)。ゾウがいるって話はどうなったんじゃら? なお、Dr. Bは実は実に控えめな声で今後の予定とか方針を説明しているのだが、しばしば欧米人どもは聞いていない。結果的に彼らは自己の判断で動くので、しばしば混乱が…。声が大きく、統率力のあるDr. シヴァがいないといきなり崩壊しかかる集団である。ダイジョウブか、この先?
 その後、カナダ人たちの強い希望で山中のシヴァ寺院へ。さらに、Forest Resarch Centreへ。ここはイギリス植民時代からの伝統を誇る研究機関で、バカみたいに広大な敷地を持っている。ここのオーディトリアムは木造の物としては東洋最大だそうな。で、その巨大な敷地の中に博物館も組み込まれている。お子さま向けの啓蒙展示から、専門家むけの巨大な標本群まで含めて8つの部屋に別れた展示は、それだけで1日つぶせる量は十分にある。日頃デリーに住んでいる生物学者のDr.Aは無論、いつも来ているはずのDr.Bも嬉しそうに(解説してくれながら)展示を回る。「もうすぐ時間だ」とか言いながら、Dr.Bは自分の設定した集合時間に遅れていたのはご愛敬であろう。
 その後、駅前のマーケットでお買いものタイム。ジーンズが汚れて限界に来ていたので、適当なズボンを買った後、グリーン・ブックショップという本屋へ。この本屋はヒマラヤ関連、エコ関連が充実しており、もしかしたらデリーでも見つからないかも、という本がけっこうある。ただ、すでに夕方なので手元にお金がないので、今回は眺めるだけ。
 数人、集合時間に遅れてきて、カナダ人たちが激怒。まぁ、インドでそんなにパンクチュアルになろうとしなくたってねぇ。

07日
 今日も日曜日なのでお休み。各自適宜出かける。我々は、Dr.Bのオーガナイズで、ヤムナ川につくられたダクパタル・ダム(と付随する公園)とDr. シヴァおっすすめの「ローカルな交易が行われている」ヴレッジ・マーケットを見るコースに。初めは少数派だったのだが、より観光っぽいコースを選んだカナダ人たちが「より充実した1日」を求めてエライ早朝の出発を主張。「たかだか観光にそこまでやってられません」組がこっちに移ってきたので、それなりの人数になる。
 朝、出発して小一時間。だいたい農場のまわりの光景が明らかになってくる。このあたりは、サトウキビのモノカルチャー地帯であるとのことだが、米も相当の面積つくられているようである。何度も乾いた川を超える。これはもちろん乾期だからで、雨期には水が流れるのだろう。デラドゥーンの風景を想像するには、ガンガーとヤムナーという二大聖河(アラハバードで合流する)のつくる巨大なデルタの中にあると思うといいかもしれない(厳密にはデルタではなく構造性縦谷であるが。Dunは「谷」の意味だとインドで解説されたが、厳密には縦谷の意味らしい)。無数に走るこれらの川の支流が、この地に毎年新しい土をもたらすことになる。従って、古来この地は肥沃な大地で知られてきた。デラドゥーンのバスマティ・ライスといえば、インドでは「魚沼のコシヒカリ」みたいなイメージらしい。
 さて、新規参加のアメリカ人が「公園なんぞ行きたくないから兎に角ヴィレッジ・マーケットに行け」と言い出す(そういうことは出る前に言え)。ところがタクシー・ドライバーも「マーケットなんぞ知らない」と言い出す。もう何が何やら。しかたないので適当なところへ車を止めて農場のDr.Bに電話。ドライバーに代わったり、すったもんだの末に、マーケットさがしに出発。暫く走り回った末にドライバー、「今日はマーケットの無い日だ。買い物がしたいのなら町へ行く」と宣言。もちろんこっちは町へ行きたいわけではないので、とりあえずダムと公園へ。ちなみにDr.Bの情報ではここでボート遊びもできるってことだったが、ボート小屋は廃屋になっていた。田舎の観光地で、外国人が珍しいのか、子どもに囲まれたり写真を撮らされたり、大騒ぎ。
 で、迎えにくるはずの時間になってもドライバーがもどって来ない。小一時間近く待って、待つのが苦手なアメリカ人三人は町に向かって歩き始める。もう暫く待っていると、タクシーが戻ってくる。エンジン・トラブルだったと言う。とりあえずタクシーに乗って先発した三人を追う。途中で向こうから捕まえた新しいタクシーで戻ってくるアメリカ人たちに行き会う。で、エンジン・トラブルなのでもう走れないと主張する(本当か?)元々のタクシー・ドライバーによって、新しい(より小さな)タクシーに強引に押し込まれて農場に帰還。なんか、休みの日のほうが疲れるんですけど…。
 Dr.Bにヴィレッジ・マーケットの件について訪ねると、ドライバーがあきらめた街の近くに村が幾つかあって、そのどこかでは必ず開かれているものだから、その近隣の村をざっと全部回れと指示したのに、とご立腹。でもドライバー氏が目の前にいなかったので、あきらめのいいインド人としては怒りが持続せずその日はそこまで。
 夜、インド人にすっぱく漬けたマンゴを食べさせられる。梅干しに似た味である。どう、食べられる?というから矢谷の持ち合わせていた梅干を食べさせる。あぁ、似てるわね、って話になってめでたしめでたし。

08日
 今日の作業は選択制で、農作業をチョイス。NHKにも写っていたくだんの建物で脱穀である。
 その後、午前中のレクチャーと昼飯を済ませて、午後は抜け出してグリーン・ブックショップへ。本屋に着く前にトラベラーズ・チェックの換金を試みるが、時間がちょっと遅めなこともあって、ことごとく失敗。結局、本屋がトラベラーズ・チェックも受け取ることが判って一件落着。レートもそんなに悪くない(でも、カードは使えませんでした)。旅先にもかかわらず、けっこうな量の本を買い込んで、ほぼ100ドル。それだけかったらVIPだ、と言われた(笑)。しかし、値段はいいんだけど、旅行を続けるためには重さがね。
 帰りはリクシャーを使ったけど、ドライバーが農場の場所を把握しておらず、把握していないにも関わらず判ったような顔をして出発したので、あとで一悶着。もう、疲れるわ。

09日
 作業は家の壁づくりをチョイス。まず、粘土と牛糞、それと藁と水をよく練る。村の女性ふたりが働いているところにツアーのメンバー三人が参加したが、いつのまにかツアーのメンバーで働いているのはボクだけになった。…こらえ性のない人たちだ。と、思っていたらインド人もどっかへ行ってしまって、ちょっと寂しい。ちなみに、足でこねるわけだが、足の指先にちょっと傷があるので、ちょっと不安(牛糞はよさそうなんだけど、こねるのにつかう水が、ちょっと…)。一応後でオキシドールをかけておく。文明人だね。
 夜、ふとキッチンの裏のコンポストを覗くと、農場で飼われている(のかも知れない)犬どもが残飯をガッツガッツ漁っていた。…こういうものなのか?
 ところで、シヴァのレクチャーについてなんですが、北九州の時は「女性の権利、女性の知識」を連呼していたが、こっちではあまり言わない。ナヴダーニャの農民会員もあくまで「家族単位」だそうだし。善し悪しについては議論があるんでしょうが、TPOに合わせてかなり強調するところを変えてきている。やはり学者ではなく、活動家なのだなと思う。

10日
 朝飯時、参加者に「これから行く町は標高4000メーターらしいよ」とデマを飛ばされ、かなり怖じ気づく。同行者に止めようかと相談すると「大丈夫だよ、行こうよ」との返事。結局あとで確認すると最高でも1500メーターぐらいまでしか登らなかったのだが…。しかし、ツアー客をいきなり標高4000メーターに連れて行く、と聞いて信じる私もお馬鹿だが、「大丈夫だよ」と返事する同行者もなかなかなもんであろう。
 なんと、定刻どおりにガルワールへむけて出発。ハルドワール、リシケシュという聖地を抜けると、いよいよヒマラヤである。ガンガーの支流であろう川沿いに蛇行する道を登っていく。道がいい加減なので、かなり怖い。ガルワール・ヒマラヤはヒンドゥ世界の北限と考えられているバドリナート寺院や、聖河ガンガーが天から下りてくる地(つまり水源)であるガンゴトリなど、ヒンドゥの聖地が集中しているため、巡礼客が非常に多い。また、この地域の人々の風貌はモンゴル系との混血っぽいが、ムガール帝国の影響が比較的弱かったため、古いヒンドゥの風習をよく残しているともいう。リシケシュから川を登り初めてからしばらくは、まばらな集落と、リゾート用っぽいキャンプ・サイト以外はなにも無い。これが暫くすると、集落と集落の感覚も密になってきて、町のようなものも見えるようになる。リシケシュのような麓の高原地帯をアウター・ヒマラヤ、1000メーターを超える山岳地帯をミドル・ヒマラヤと呼ぶが、アウター・ヒマラヤとミドル・ヒマラヤではある程度別個の経済圏と見るべきであることが予測される。ちなみに、標高6000から7000メーター級の山々がそびえる印中国境地帯はグレーター・ヒマラヤと呼ばれる。ガルワールのあたりは、ネパールやカラコルム・ヒマラヤのあたりなどと比べて比較的低めの山が集まっているが、それでもちらほらと万年雪をかぶった所謂ヒマラヤの偉容が見え隠れする。これは確かに神々の住まう地だ、と思わせる。基本的には自分の村とその周りだけが生活世界で、グレーター・ヒマラヤは「決して行けない場所」であった時代であればなおさらであろう。その意味では、金と(多少の訓練を積む)時間さえ惜しまなければ南極だろうがヒマラヤだろうが「可能性として(ボードリヤール流に言えば)」すべて可能である時代の我々は、そいった崇高さへの感動という意味で損をしているんだろなぁ、と思う(もちろん、別の部分の感動を喚起される機会があるわけで、単純に損得を測れませんが)。
 この日はTiruwaraという町(推定標高900メーター)にある、ガルワール行政区の観光公社がやっているホテルへ。ちなみにここではドミトリー用の5人部屋を丸ごと幾つかと、ツインを幾つか押さえてあった。カナダ人の夫婦などが優先してツインに入る。で、とりあえず私などはドミトリーを使ったのだが、やっぱだいぶ清潔さなどに差があるね(っていうか、ドミの風呂場、ネズミが出るのは勘弁して欲しい)。いずれにせよ水しか出ないが、風呂トイレ付きのツインで400ルピーほどとか。

11日
 朝食はやや遅れ目に始まり、やっぱり出発も若干遅れる(朝食の遅れに比べればけっこう持ち直しているが)。途中までバスで上がり、その後ジープに乗り換える。この道がまた怖い。ジープの道が切れたところから、さらに歩いて3キロ、Magni村まで上がる。この旅には、デュラドーンのナヴダーニャ・ファームで穀物の実験、管理などの責任者をしているB氏が同行しているが、村は氏の故郷であるという。やはり村の出身で、今はちょっと下ったところの村に住んでいるB氏のお母さんも合流。60は下るまいという歳だが、村までの道のりをほいほいと上がっていく。村へ上がる道すがら、学校が建っている。その壁にナヴダーニャの名前とロゴが入っている。我々を歓迎するために書いたものであるという。村総出でお出迎えだったらどうしよう、という冗談が口をついて出た。ツアーの参加者ども、みなペースがバラバラなので、直にバラバラになるが、親切な村人たちは道ばたの石の上に矢印や、Welcomeメッセージを残しておいてくれているので、問題なく道をたどれる。Welcomeメッセージはじきに"Save Water"とか"Save Seed"になり、"Monsanto, Go Back"や"Cargill, Go Back"も登場。これは「ぷろぱがんだ」ってやつでは?
 時折、道ばたに米が盛ってある。これは何かと聞くと、お葬式の行列があったときに、道すがらこれをつくっていくのだというDr.Bの説明。さらに地元の人(もちろんDr.Bの友人)が引き継いで、亡くなったのが男性だと右、女性だと左につくるのだという。「それは知らなかった」と言ったのはDr.B。やはり彼はだいぶ都市化されているようだ。
 なんとな〜く予想されたことだが、村に到達すると案の定、村人総出の大集会。Dr.Bが「この人はアメリカ人の何々、この人はメキシコ人の何々」と紹介。そのあと、村の役付きの人の紹介があって、紹介された人々が演説。基本的に現地語なので、Dr.Bが通訳。ひとしきり、村人がこの運動に賭ける意気込みについての演説がある。そのあと、ツアーのメンバーも演説したり、歌を歌ったり。こういうとき何故かカナダ人が元気である。…国家まで歌うし(「帝国」の記憶を持たないせいか、ちょっと図々しいやね)。日本の事情を知っているスイス人から「君らも歌ったら」とからかわれる。
 その後、何軒かの家や畑を見せていただきながら(なんとなく村人から見せ物になっている感じも受けながら)村を回る。で、お食事(辛い)。
 帰り道は行きとは別の道を通る。段々畑のただ中を通る道だったので、すさまじく奇麗な光景が広がる。ちょうど宮崎駿の世界であると思うといい。あるいはナショナル・ジオグラフィックを切り抜いたような…。道ばたに粉挽きのための水車もあったりして、完璧である。

12日
 バスで標高1500メーターほど(たぶん)のNala村まで上がる。 途中、けっこう大きな村(たぶんMaggu?)でアーユルベーダの先生を拾う。村に着くと、先生の講義。ヒンドゥーでおこなわれて、それを大学生S嬢が英語に通訳。アタルヴァ・ヴェーダの話から始まって、現在でもインドでは80パーセントのヘルスケアが伝統的なアーユルヴェーダ医によっておこなわれている、というような、まあ基本的な話。その後、村の人と会話。オーガニックへの期待や、ジャイヴ・パンチャヤット制度などについて。オーガニックだと労働が大変じゃないですか、と聞くと、どうせウシの糞は別の用途があるので今でも集めているし、草取りは村人総出でやるし(元々段々畑だからトラクターなんかは使えないんだろう)、労力面ではあまり変わらないと言うようなお話。いろいろ見た感じ、第三世界のほうがオーガニックに対するポテンシャルは高いのかも知れない、と思う。
 村一番の家っぽいところの庭でお茶をご馳走になる。ご主人は元弁護士で、Dr.Bの伯父であることが発覚。やっぱりDr.B一族、このあたりの名士らしい。庭のみかんを沢山もらって帰る。
 何人かが飽きたと騒ぎ始めたのでさっさと帰る。途中、お寺があるとのことなので、何人かはおりて寄ってみる。ついでなのでバラモンにご祈祷を頼む。都市部の神殿などでやると、もっと寄付、もっと寄付と言いだして収集がつかなくなったりするのであるが、ここのバラモンは出された金をそのまま受け取った。やっぱ田舎はいい(のかな?)。

13日
 朝、宿を出発。ヒマラヤを下る。途中、若いもんはラフティングのツアーに行くが…まぁ、ここは仕事で来ている以上、我々は自重。午後にはリシケシュの宿に。我々はここでコースからドロップアウトであるが、一行は週末をリシケシュで過ごした後、月曜日にラジャスタンへ向かう。ただ、ラジャスタンへの旅程が、朝出て深夜につくことになっており、しかも運転手が一人である。このことに不安を感じたカナダ人たち(含むインドとルーマニアからの移民)が騒ぎ始める。危ないから電車にするか、旅程を2日に分けて途中のデリーで一泊しろ、というのが主張らしい。インド人が安全を主張するが、なかなか納得しない。常識人のアメリカ人(彼女もインド移民)が「彼らを信用すべきである」と説得を試みる。カナダ人とアメリカ人であるインド移民どうしで口論。…なんなんだろうね。結局、カナダ人たちは独自に列車のキップを探すべく宿を後にする。国際的なツアーも大変である。
 夕食前、南アフリカからきた参加者が「肉を食いたい」といい始める。リシケシュはヒンドゥーの聖地なので肉食はタブーである(ここのヒンドゥーはみなヴェジタリアンである)。無論、ヒンドゥーのタブーに縛られないイスラム・エリアでは肉食も可能なので、インド人が一生懸命さがすが(すごいホスピタリティだと思った)、最後に「4キロ先だ」と言われてあきらめる。だから南アフリカ人は歩いているウシを見て「あれは食べられないのか」と聞くのは止めた方がいいと思う。ところで、街のあちこちにムスリムの人々も食わないはずのブタがウロウロしているのは何なんですかね?
 宿に帰り着いてからも南アフリカ人がこぼすので「ここはヒンドゥーの人々のための町だから、肉は禁止されているんだ」と説明すると「ヒンドゥーの人々のための町、No!! It's Apartheid!!」とご当地ギャグをシャウト。

 夕食後、学期が始まるので帰るというインド人大学生S嬢と我々で、夜九時発のバスに乗りデリーへ。さすが聖地リシケシュ、ガンガー河畔に広がる寺院群の灯がつくる夜景が美しい。途中、どういうわけか何度も警察の検問がある。若いインド人は立たされて身体検査などされている。一応深夜バスで、車内の電気は消えるのだが、検問や町のバス・ステーションに着くたびに電気がつくので寝られたものではない。夜出たら朝デリーにつくかと思っていたのだが、一回のトイレ休憩のあと、2時30分ごろにはデリー到着。結局S嬢の家で朝まで休ませて貰えることになったが、旅行者はこの時間に放り出されてどうせいってのか? もちろん、インドは比較的治安がよく、S嬢以外にもインド人の若い女性が普通に深夜バスで一人旅をしている姿もみられるぐらいなので、朝までバス停のまわりでウロウロしていても問題はないのだと思うが、それにしても疲れるわなぁ。

14日
 午後、S嬢の家から日本山妙法寺へ移動。後半はこちらに泊まることにする。日本山妙法寺は日蓮宗系の仏教運動で、インドに仏教を返すという趣旨で、インドの各地にお寺を建てている。デリーのお寺は四階建ての白いビルで、一階部分にお釈迦様がまつられており、それ以上は居住スペースになっている。また、一階から四階までの吹き抜けがあり、そこにはチベットふうの壁画や洋風のステンドグラスでやはりお釈迦様があしらわれている。要は、日本風、インド風、チベット風、洋風がまぜこぜなのである。ちょっと不思議な感じだが悪くはない。
 デリーの妙法寺は日本人のお上人と、数人のチベットやラダックからのお坊さんが住んでいる。また、ゆかりのひとや研究者なども泊めてくれる。一泊め1000ルピー、二泊め800ルピー、その後は500ルピー(食費込み)であるので、学生や貧乏旅行者にはかならずしも安いとはいえないが、インドに詳しいお上人がいろいろと相談にのってくれることや、メンドウを見てくれるのが顔見知りにもなりやすいお坊さんたち(ある程度は日本語も通じる)なのが非常に安心感がある。あと、靴を玄関で脱いで上がる方式なのも日本人としては非常に楽である。ただし、朝の6時にはお寺中に響き渡る読経の声でたたき起こされることは覚悟しなければいけない。あと、食事はヴェジタリアンである。
 夜はクマール家にご挨拶。
 お寺に帰って、久々に熱いシャワーを浴びて寝る。

15日
 朝、TCを換えにトーマス・クックのオフィスへ。ついでなのでサイクル・リキシャに挑戦してみる。しかし、トーマス・クックまでの道は坂が多く、リキシャワラは四苦八苦。なんとなく罪悪感を感じる。止めれば良かった。
 その後、教えられた本屋に行くためサザン・エクステンションへ。…月曜日なのでほとんどの店はお休みである。
 久々にメールをチェック。とりあえずPowerBookでの接続を試み、失敗。しかたないのでお寺のパソコンでアクセス。たまりまくっていて、Web Mail ではとても全部読む気になれない(しかも、Windowsだとショートカット・キーがよく判らないので、いつもの倍以上時間がかかる)。急ぎの物以外は後回しに決定。

16日
 インド滞在を一週間延ばすことにする。飛行機の予約の変更処理。航空会社に出向こうかと思っていたが、お寺のお上人が出入りの旅行会社に頼んでくれたので、そのまま解決。
 昼を食べてからDelli HaatのINAマーケットにあるナヴダーニャのアウトレットに向かう。どうも、INAマーケットというのは地方物産などの展示会場らしく、入り口付近は次の展示の準備でオタオタしている。その奥に各州の名前のついた(ということはおそらく各州の名物を出す)店があり、その一角にナヴダーニャの店もある。店と言っても、売り場は5メーター四方ぐらいの売店になっており、その奥に倉庫のような物がある。品物は主に関連書籍、ちょっとしたクラフト、それにもちろん穀物、ジュースやシリアルなどである。なんと、ガルワールの道ばたで買ってきた蜂蜜と同じメーカの蜂蜜も発見。
 穀物の値段は、やはり一般のスーパーよりは高いようだが、これがどの程度評価されるのかはよく判らない。とりあえずお米などを適当に買って帰る。
 その後、先日の大学生S嬢の家を訪ねる。ちょっと話した後、本屋を案内してくれるという。まず、Khan Market の Bhari Sons Book Sellers をたずねる。ここがマーケットで最大とのこと。カードも利用可能なので、ちょっと買い込む。その後、もう一件本屋に寄る。帰りしな、S嬢お勧めで、道ばたの屋台で羊肉をタンドリーで焼いた物をチャパティでくるんだものを食べる。なんか、食べ心地が生っちいんですが…。でも美味しいので許す。
 その後、タジ・マハルのミニチュア版みたいな某観光地に寄る。外国人は250ルピーだ、と言われて「高い」と抗議するS嬢。最近は外国人から金をふんだくる政策で、どこも観光地はインド人の10倍ちかく取るらしい。「こいつらはシッキム人(インドと中国の国境地帯にある州で、住人の外見はほとんど中国人)だ」という理論で突破を図るも、簡単に見破られて敗退。日本人的には「まぁ、250ルピーったって、日本じゃコーヒー一杯の値段だし、出してもいいよぉ」と言ってみるが、「250ルピーの価値はない」ということでそのまま撤退。S嬢の家で夕飯をご馳走になって帰る。

17日
 昼からナヴダーニャのオフィスへ(他いくつかのNGOのオフィスも兼ねている)。ジャフリ氏に話を伺う。いずれちゃんとした報告には反映させるとして、ここではポイントだけ列挙する。まず、『緑の革命とその暴力』と並べて、"Seeds of Suicide: The Ecological and Human Costs of Globalization of Agriculture"を必読書にあげていた。基本的にはナヴダーニャに参加している農民は、自分の土地伝来の種を利用することが望ましく、適切な物がない場合にはデュラドーンのファームから種を送るらしい。その場合は、種を貸し付ける形になり、返済も種で行うらしい。メンバーが収穫したものをナヴダーニャで買い付けることはあるが、それはあくまで一部で、基本的には一般の業者におろすことになるらしい。今後の展開としては、食料なども貸し付ける Food Bank のようなシステムも構築していきたいらしい。

 そのままコンノート・プレイスのState Emporiumへ。ここはいろいろな州の物産展示即売上になっており、そこそこの物がぼられずに(←重要)購入できる。インドでは伝統服は正装とみなされるので、ちょっといいところでの食事などにあると便利であろうと考える。いちばん簡単なレディ・メイドのクルタとパジャマ(つまりズボン)を買う。欲しい色と装飾を説明すると、そういったものは木綿のものはなくて、絹だけになるという。クリーニングが大変だから絹はやだ、というと普通の洗剤で手洗いすれば大丈夫だ、と言われる。半信半疑ながら閉店(6:30)まで時間もなかったので、2000ルピー(日本円で5000円)ぐらいなら失敗してもあまり痛くないと思い、とりあえず購入(15パーセントのディスカウントののち税金がかかって、実際は1760ルピーほど)。インドで2000ルピーは大金であるが、一方ではアディダスやリーバイスが先進国と同じ値段で売られていることを思えば、手刺繍の入った絹がそれらと同じぐらいか安く手にはいるというのは安いとも言える。

 お寺に帰ってナヴダーニャで買ってきたバスマティ・ライスを食べる。バスマティは粒の非常に細長い品種(もちろんインディカ米)で、香りが強い。インドの最高級品種である。お寺で食べているバスマティに比べて、粒が短くて若干不安だったのだが、味がしっかりしていて非常にうまい。香りは粒の長いもののほうが強いようだが、日本人的にはこちらのバスマティのほうが美味しいと感じるのではないだろうか? このレベルでキロ60ルピーなら、決して高いとはいえないような気がする。

18日
 ダリア・ガンジの本屋街へ。先にも触れたとおり、ここは問屋街になっており、オックスフォード大学出版なども直販で買える(一割引である)。その中で、薦める人が多いManohar Book Serviceへ。ここもManoharという出版社の直営だが、オックスフォード大学出版などの本も取り扱っている。Manoharの本は25パーセント、その他の本も1割引で購入できる。カードも使えるし海外発送も可能なので、海外の大学関係者もよく利用するようである。書架はテーマ毎ではなく出版社毎にならんでおり、若干見にくいが、店の人に探している本のジャンル(我々の場合、人類学、環境問題、農村、社会運動等)を告げるとあっという間に200冊ほどの山をつくってくれるので、そのなかからじっくり(お茶を飲みながら)選ぶことができる(もちろん棚から選んでも良い)。最近の日本の書店だと店員はただのアルバイトで、本の知識は期待できないが、こちらの店員の知識はなかなかである。例えば、タイトルからはあまり関係がなさそうな本でもちゃんと運んできてくれる。目次ぐらいはひごろから目を通しているのかもしれない。農村問題や環境問題はこちらでは重要性が高いようで、かなりの本が出版されている。なかでも灌漑についての(実務的なものから社会運動とのからみを解説したようなものまで)本の多さが目に付いた。シヴァのカンファレンスでも水の私有化という、日本ではあまり注目されないであろう問題が強調されていたが、やはり水に関わることは深刻な問題なのであろう。インドに関する総論っぽい本までふくめて、4万円をちょっと超えるぐらいの本を購入(ちょっと予算オーヴァーな感じである)。日本に船便で発送してもらう。書名のリストは本が日本に到着したら作成、公開させていただくであろう。※02.4.16追加

19日
 買い物にでかける。お上人から、グレイター・カイラシュのNブロック・マーケットというところのFabindiaという店が服を買うのにいいと教わったのだが、出かける段になって何人かにNブロック・マーケットへ行くというと、Mじゃないか、と言われる。MとNがよく判らなくなって、とりあえずMへいってしまう。こちらはスーパー・マーケットや高級食料品店などがあるにぎやかなマーケット街だが、Fabindiaはない。しかしながら、市場について実感を得るという意味ではこちらのほうがだいぶ役に立ったかもしれない。ナヴダーニャの値段と比べるために、スーパーでお米の値段をメモしていたら…お店の人に怒られた。薬屋や雑貨屋っぽいところでは、アーユルヴェーダを唱ったシャンプーやリラクシング・オイルなどがおいてある。あまり大きくないプラスチックの瓶に入って100ルピー弱。まぁ、中産階級でないと買えない金額であろうか。珍しいのでおみやげにはちょうどいいかもしれない。
 その後、食事の後、改めてNブロックに移動。こちらはレストランとカフェ、それにFabindiaがあるだけである。
 Fabindiaで綿のクルタとパジャマ、ついでに冬用の長いショールを買う。エンポリウムでは絹のクルタが手洗いできると言い張られたけど、ここで扱っている絹のクルタには"Dry Cleaning Only"の表示がついているな…(まぁ、いいんだけどね)。
 Fabindiaで買い物をしていると、ツアーのメンバーに出会う。今日、ラジャスタンからデリーに戻ってきたらしい。…元気だね。なんでここを知ったのかと聞くと、地方在住のインド人の女の子から、「ここは物がいいから」と、ちょっとピントをはずした感じのお返事。まぁ、有名だってことなんだろう。
 矢谷が買い物をしている間、メンバーと一緒にFabcafeへ。名前からしておそらくFabindiaと経営が一緒なのであろう。壁に絵が描いてあったり、店内はインドとしてはおしゃれな印象。アメリカ人が「カリフォルニアだぁ」と喜んでいた。

 夜、JICAにおつとめで英国の大学院にも所属しているSさんのお宅へ伺う。30分ほどでつくかと思ったらアウター・リング・ロードが渋滞のお時間で、すっかり遅刻。Sさんのお家では開発関係者やJNUの学生さん、大使館勤務の方などとお話しすることが出来ました。フェア・プライス・ショップの仕組みなど、インドの基本的な知識を教わることができたのは最大の収穫でしょうか?
 デリーはダシャラ(Dasara)というお祭りの期間に突入しており、お寺に帰るととなりの建物で歌が続いていて五月蠅いことこの上ない。…朝まで続くんだろうなぁ、と思うとちょっと憂鬱になる。

20日
 朝、またまたオロビンド・アシュラムへ。昨日帰還したツアーのメンバーと会う。みなさん元気そうである。一言ずつ感想を、と言われるたのでVisorで簡単に下書きしてみたが…どうも英語にならなそうなのでパスさせていただく。英語はもうちょっと勉強しないといけない。そのままツアーの最終行程に便乗。
 まず、ガンジー・ミュージアムへ。ガンジーゆかりの糸車などの展示がある。また、人生を追った写真を展示しているコーナーでは、生まれてから南アフリカ時代を経て、反英闘争の時代、独立と暗殺、というぐあいに眺めていけるわけである。そういえば、もちろんネルーやボース、パテール、シャストーリといった独立の英雄たちとの写真はもちろん、ジンナーと談笑する写真も飾られているわけだが、アンベードカルの写真はついに見つけられなかったな(膨大な写真があるので見落としているのかもしれませんが)。
 その後、INAマーケットへ移動。途中、何人かがTCの両替のために銀行へ入るが空手で帰ってくる。けっこう大きめの銀行でもTCの交換はしていないところが多いようである。しかも、そのあたりは普通のインド人もよく判っていないようだ。『地球の歩き方』などでは必要に応じて100ドルぐらいずつこまめに交換することを薦めているが、インドでそれは難しいように思われる。前にも書いたとおり、スリや置き引きのたぐいに気を付ければあまり危険なこともないようなので、多めに交換しておくのもスムーズな旅のこつであろう。
 INAマーケットにあるナヴダーニャのアウトレットで食事。今夜帰るスイス人のKさんなどとお別れ。Kさんはスイス航空の倒産で帰国が危ぶまれたが、一応まだ飛んでいるらしいということで無事帰国できるらしい。「でも、スイス航空は今お金無いから、きっとビールは出ない」と嘆いていた。

 夜、妙法寺のお坊さんのお供でインド人の結婚式へ。エンポリウムで買った絹のクルタが活躍するときであろう。なんとなく「どっかのお寺にいくのかなぁ」と思っていたら…五つ星ホテルへ…。こないだのガンジー誕生祭の時といい、なんか油断しているととんでもないところへつれてこられる。半地下はバーになって、池の上にしつらえた舞台ではおじさんが生演奏しているというような豪華なつくり。ただ、五つ星とは言ってもよく見ると壁の石としっくいの間はゆがんでいたり隙間が空いていたり、エレベーターのドアの装飾が作りかけだったり、お世辞にも「いい仕事してるなぁ」とは言い難いあたりが、やっぱインドである。これで高層ってのはちょっと怖くないか?
 両家ともパンジャブ出身の一族であるが新郎新婦ともアメリカとシンガポールに住んでいた人らしい。
 なお、男性の出席者はほとんどみんなスーツである。新郎側と思われる若い男の中にはジャケットなしや柄シャツはもちろん、ジーンズもおり、インド人あまり服装にこだわらないらしい。クルタを着ているのはバラモン以外はボクだけ? 日本で紋付きを買った欧米人が喜んで結婚式に着ていったら浮いた、ってのと同じ構図だろうか? 
 ホテルでやろうが儀式の部分は同じで、護摩を焚きながらバラモンがなにか言ったりギータを唱えたりする。一方、新郎新婦はギィ(バターの前段階ぐらいのもの)を、親族は穀物とおぼしきなにかを護摩の中に投げ入れ続ける。待ち時間は満面に笑みを浮かべていた新婦が、ちょっと緊張した顔になっているのがオカシイ。その間、他の参列者は周りで各自談笑したり、タンドリー・チキンをつまんだり…。ネパールの田舎で以前ちょっと結婚式に参加させてもらったのだが、その時の参列者はみんなマジメに座って待ってたけどな? これは都市と田舎の違いか、ネパールとインドの違いか?
 サプタパティ(護摩の周りをぐるぐる回る)も終わると式は終了し、新郎新婦はしつらえられた壇上で飾り物となり、参列者は食事に(新郎と新婦はいつ食事するんだろう?)。伝統的には結婚式はヴェジタリアンでやるらしいのだが、今回は鶏肉も供された。ホールは今のところテーブルが並べられているが、前のほうではDJがターンテーブルに向かってなにやら準備しており、後ろの白壁には新郎新婦の名前をつかったヴィジュアル・エフェクトが写されている。どうも、このあとはディスコになって、朝まで踊るらしい(誰が?)。ともあれ、我々(っていうか、お上人)は適当なところで辞去する。

21日
 日曜日なのでオフ、ってことでのんびりすることにする。ミネラル・ウォーターを買いに出るが、近所の店もほとんど休みである(どうも、そのあたりの店は日曜休日のケースが多く、サウス・エクステンションのように「日曜日にショッピング」に出かけるようなところは月曜が休みであるらしい)。さて、蕁麻疹が出るなど、朝から体の調子が悪い。聞いてみると、矢谷もちょっと…。さらにお上人と、ラダック人のお坊さんとも具合が悪いらしく朝食に出てこない。…これは、昨日の五つ星ホテルの食事になにか問題があったか!? ともあれ、ボケっとしてすごす。

22日
 Indian Agricultural Research Instituteへ。お寺の外でリキシャを捕まえて場所を説明すると、60ルピーという。実は、Instituteはデリーの反対側でかなり遠い。このドライバーちょっと判ってないな、と思ったが、とりあえず出発。本人も不安だったらしくメーターを倒す。案の定、途中のインド門あたりで道を聞いている。遠いと判って、不安になったらしく「もう30ルピー」みたいなことを言い始める。払うから、と言って走らせる。そのまま無事到着。
 実はInstituteには過去何度も電話しているのだがいっこうにつうじないので、今回はアポなし取材である。とりあえず Director Office とあるビルに入り、適当な人に Public Relations はどこかと声をかける。すると教授の一人の部屋とおぼしきところに連れて行ってくれたので、そこで紹介状などを提示。アポなしであることをわびると "No Problem" と一言。なんでも、ビルがあちこち工事中なのでその関係かもしれないとのこと。その後、別の教授を紹介され、いろいろとお話を伺う。基本的には、ハイブリッド品種の問題点は認識しており、ゆえにGMOに賭けるというスタンス。もちろん、オーガニックでは食糧問題は解決できないと言う見解。多国籍企業の支配は好ましくはないので、GMO導入のさいにも気をつけたい(例えば日本が主導しているイネのゲノム解析にも参加している)。また、農民を集めて啓蒙のための集会も開いているとのこと。…おおむね予想通りの回答ですね。
 その後、同じ構内にある National Institute of Science Communication の本屋へ。本屋と言うよりは売店のようなところだが、発行している本のリストを渡され、これが見たいというと裏の倉庫に回るように指示される。倉庫で買いたい本のリストを作成し、残部があることを確認した後本屋に戻って支払いをすます。するとレシートが発行されるので、それを持ってまた倉庫に回り、本を受け取る。その場で、何冊買った本を持っているというような、門番に渡すチケットが発行される。これを門番に渡してInstituteの外へ出る仕組みである。…実に面倒くさい。なお、ここで発行された本は一割引である(雑誌を除く)。

 その後、コンノート・プレイスのBookwormへ。なるべく買わずに済ませようと思っていたのだが、ついまた本を買い込む。…重複していないか、そろそろ不安。日本に発送して15,000円ぐらいでしょうか。

23日
 朝、近くのKali寺院へ。カーリー神ははシヴァ神の妻パールヴァティ神の別名で、つねに悪鬼を踏みつぶしている勇壮な姿で描かれる。その神のお祭りということで、巨大な(といっても3メーターほど)カーリー像がしつらえられている。なお、この像は26日の夜には河に沈められるらしい。人々が像のまえにしつらえられたパイプ椅子にちらほら座っており、バラモンの読経が続いている。インドのお祭りといえば、ちょっと簡素素朴な物を想像するが、ここは奇麗に刈り込まれた芝生の庭に布の天井が貼られ、天井からはシャンデリアと扇風機がつり下がっているという豪華さ。芝生を取り囲んで協賛企業と思われるトヨタやネッスルのブースがならんでいる。時代ですな。
 神殿自体もまけずに美しく、出来たばかりのようにも見える。中央のカーリー神殿の両隣に、クリシュナとシヴァをまつった神殿がそれぞれ建てられており、それぞれが廊下でつながれている。神殿は二階部分にあり、一階は集会所や事務所のようである。ちなみに、シヴァ寺院の下には Netaji Subhash Hall (Netaji は独立の英雄でベンガル出身の Subhash Chandra Bose の愛称)と名付けられた部屋があって、Kaliがベンガルの人に信仰されている神様であることを教えてくれる。そういえば集まっている人々も、北西インドふうのとんがった鼻ではなく、ベンガル風の団子っ鼻の人が多い。

 そのあと、インド人女子大生S嬢をひっぱって日航ホテルへ。ひさびさの日本食。とりあえずインド人には幕の内を食べてもらい、我々は鰻重と豚カツ。あらかじめ皿にそれらをより分け、ついでにそれらの味も見てもらう。鰻重と豚カツは比較的気に入っていたようであるが、幕の内はちょっと難しかったようである。特に生麩はダメだったらしい。刺身は食べるまで騒いでいた割には食べてしまえばなんということはなかったようだが、わさびの辛さは斬新だったようだが、やっぱり鼻に来たと表現していた。…ほとんど実験のノリっていうか、悪い人間だね、我々。いずれにせよ、JNUでお世話になったクマール教授のように「日本食はすばらしい」というインド人はおそらく少数派なんだろう(まぁ、海外の日航ホテルの幕の内を食べた人と、日本本土でふぐなどの日本食を食べた人の比較をしても始まらないが)。

 当初、映画でも見に行こうかと思っていたのであるが、お目当ての映画は週末公開だとのことで、あきらめる。ちなみにお目当ての映画とは"Ashoka"である。
 日航ホテルの前でリキシャがステート・エンポリウムまで10ルピーというので乗るが、案の定よく判らない私営エンポリウムに連れて行かれる。「ここはどこのエンポリウムだ」と聞くと「デリーだ」とか「センターだ」とか要領を得ない返事。しかたないので歩き始めるが、場所がよく判らないのでメンドウになったのでお寺に帰る。システムはよく判りませんが、たぶんリキシャの運転手はなんらかのコミッションをもらって客をつれてきているのでしょう。

24日
 旅の途中などに買い込んだ本の半分ほどを日本に送るべく、近くの酒屋でもらった段ボールに詰め込んでコンノート・プレイスのGPO(General Post Office)へ。ところが、航空便も船便も、5キロ以下のパックにしないといけないと言う。ついでに、布で包んである必要があるらしい。そこで、パックをバラして5キロずつの山をつくり、郵便局の外で店を出している梱包屋(そういうジャーティがあるんだろうか?)にたのむ。ひもで縛って、日本から持ってきたゴミ袋を解体して簡易風呂敷をつくってそれで包んで、それをむこうの手持ちの布でつつんで、書籍小包用にすこし端を開いた形に縫い上げて、3パックつくって350ルピー(推定だが、基本料金50ルピーに、荷物一つにつき100ルピーということか?)。手間はかかるが、けっこういい商売である。GPO横であるにもかかわらず一グループしかいないので、値切りはあきらめて言い値で払う。一時間ほどかけてできあがった小包をもってカウンターへ。ちなみに送料は船便の書籍小包で5キロ170ルピーほど。エアメールの書籍小包だと1100ルピーであるという。これも未確認だが船便はGPOでしか受け付けていないらしいし、なんのかんので送るだけで半日しごとである。ハードカバーであれば7〜8冊で簡単に5キロになってしまうし、本屋からの発送というのがいかに便利か知る。

 昼食はコンノート・プレイスのセンター・サークルにあるレストランでとる。ここはインド料理屋としてはめずらしく酒がおいてあるのだが、欧米人を中心に昼間っからのんだくれが…。ちなみに私はフルーツ・ビアという(ノンアルコールの)ビールを飲んでみましたが、けっこう美味しかったです。
 そのあと、昨日行くのに失敗したステート・エンポリウムを眺める。UPのエンポリウムで"Bollywood Nostarlgia"というちょっと洒落たタイトルの絵葉書集を発見。買い込む。その後エンポリウムを出てリキシャに乗るが、こっちが幾らと聞くとメーターを使うと言い出すし、またまたメーターの動きがオカシイような気がしたので下りて(10ルピーだけ持たせて)別のリキシャへ。どうもエンポリウムの周りはダメだね。ちょっとしんどくてもインナー・サークルあたりまで歩いてから捕まえるのが吉か?

25日
 JNUがらみの用事をまとめて消化。まず本屋。また数冊買い込む。JNUで日本語を教えているJ先生のお宅におじゃま。JNUでの留学事情についてなど伺う。その後、クマール教授宅を訪れ、お別れの挨拶。

26日
 お昼。S嬢とその友人たちにつれられて Rodi Hotel の南インド料理を食べる(有名らしい)。ここで初めてデュラドーンへの電車内で出されたお弁当が南インド料理だったと気がつく。南インド料理は米とココナッツが基本で、全体に甘辛な感じ。インド人たちは「南の料理のほうが辛いだろう」と言うのだが、辛みが全面に出た北インド料理のほうが時々ツライかもしれない。ただ、肉なしの穀物ベース(お好み焼きっぽくしたものがおおい)だとあまり量が食べられないので、インド人は「やっぱり口に合わなかったか」と喜ぶ(やっぱこないだの日本料理の復讐?)。

 その後、今週から公開されるインド映画 "Asoka" を見にEros(意味は同じなのかな?)という映画館へ。かなり巨大な映画館で、この規模の映画館は東京でも3つ4つしかないと思われる。封切りというのもあり、映画館の前は黒山の人だかりである。で、インド人は並ばないのでごちゃごちゃに入り口に突進。お年寄りが近づくともぎりの兄ちゃんは近くの客を押しのけて優先させてたりするが、それよりちゃんと並ぶようにしたほうが万人に楽なのではないか??
 Ashokaとは世界史を勉強したことがある人ならご記憶のマウリアMaurya朝マガダMagadhaの三代目、アショカ王のことである(仏典の中では孔雀朝の阿育王)。アショカ王はカリンガ国征服のおりの戦闘で莫大な死者がでたことを悔い、覇権によるインドの統一から仏道による統一に方針を転換したことで有名である。また、結集と呼ばれる仏典の収集を行った。大河ドラマの主人公としては申し分のない人物であるが…インド人に人気があるのかどうかはちょっと疑問な気も(仏教徒だしな)。
 実際のストーリーは…まぁ、金のかかった大作らしいので日本でも公開されるのを楽しみにしておきましょう。たぶん、アショカを主人公に据えた娯楽大作にしようとした時点であれ以外つくりようがない話です。欧米人にはウケが悪いかもしれませんが、日本ならけっこういけると思います(※四大悲劇よりは『ロミオとジュリエット』系、ということです)。
 ところで、リンクしたこのページ、たぶんAsokaの公式ページだと思うんですが…Geocities!?

27日
 矢谷帰国。ちょっと反省会(?)ののち、空港まで見送り。インドの空港なので中には入れない。重量超過の荷物がパスするか見届けたかったのだが…。
 その後、またまたお上人のお供でインドの人気画家 Arpana Caur氏の個展を見に行く。しかし、芸術家ってやつはどうして格好に傾向がでるんですかね? ロン毛で全身黒ずくめ、金鎖の十字架をかけた長身の兄ちゃん。インド伝統服を着て、白髪交じりの長く延ばした髪を後ろで縛った老人(日本だと作務衣になるでしょう)。…みたいなのがいっぱいいます。あと、テレビ・カメラが来ていて、なんかいっぱい撮影されましたな。「氏に対しては海外の関心も高く」みたいな文脈で使われたりして。地下で軽食が貰える。皿にはチョコレート・ケーキとキッシュ、ポテトがのっており、それとチャイをいただく。キッシュはかなり上出来で、チョコレート・ケーキも甘さ控えめな仕上がり(やりゃ出来るんじゃん、インド人、と思いました)。あと、二階にも絵があると言われたので行ってみると、元首相の公演中で黒山の人だかり。絵には近づけず。…なんなんだ!!

28日
 前日深夜から腹痛(っていうか、胃が痛い)。理由が思い当たらないが…。まぁ、胃が痛いのはいつものことである(っていうか、日本にいるほうがひどいかもしれない)。とりあえず、午前中は寝ていて、午後からは近所を散歩したりおみやげを買ったり。せっかくなので、"Asoka"のサントラなど、CDを数枚買う。乱雑に並べられた棚をいじっていると Ravi Shankar と Philip Glass のコラボレーション・アルバムを発見。映画音楽の倍ぐらいするが買いと判断。…お寺に帰ってから早速聞いてみるが、これはでも、演奏は Ravi Shankar じゃないようだ…(ライナーノーツがまったくついていないので、判らん)?
 お寺は、ロシア人のお坊さん大集団到着で、ちょっとあわただしい。

29日
 帰国準備。パッキングを済ませる。…どのバッグもギリギリまでパンパンで不安。
 午後からお寺に住んでいる東京外大のHくんと一緒にコンノート・プレイスへ。まず、ガンディー翁の思想を受け継ぐ手紬の店であるKhadi Gramodyog Bhavanへ( Khadi and Village Industries CommissionのOutlet。カディは手紡ぎの意味。ガンジーが手紬している姿は皆さんご存じの通り。Bhavanは「館」。Gramodyogは…知らん。)。第一の目標はネルーなんかの写真で有名なインド帽子を手に入れることである。実物は、なんか端切れでつくったような、色も不揃いのものが「一山いくら」ってな感じでおいてある(実際は一つ20ルピーで、現在全店3割引きセール中なので14ルピー)。せっかくなので、絹のネクタイなども購入(何に使うんだか?)。その後、トーマス・クックでお寺の支払い分を換金。お寺にもどる。
 お寺の小坊主(推定年齢8歳。両親が亡くなっているので誰も正確なところは知らない)に、京大ロゴ入りのノートパッドを「勉強のためね」と、あげたらエライ喜ばれる。そこら中に自慢して回っている。…う〜ん、単に持って帰るのが重かったからなんだが。なんか複雑な気分だ。
 軽く夕食をいただいたあと、空港へ。前回の帰国時は荷物をいろいろ調べられた記憶があるので(時期も時期だし)緊張していったのだが、チェックはあっさりパス。電池が入っていると(プラスティック爆弾と疑われて)五月蠅いとされているが、Visorの中の電池もMP3プレイヤー用に鞄の中に転がしておいた電池も特におとがめ無くクリア。
 なお、重量であるが、お寺のお上人によれば「25キロ以下だったらあまり五月蠅いことは言われないでしょう」とのことだったので、24.5キロに仕立てる(笑)。カウンターでもジャスト24.5キロと表示される。…ホントになにも言われなかった(実は機内持ち込みのほうが重かったりするのだが)。代わりといってはなんだが、「行き先はオオサカか? オオサカ行きのカーゴを作れるか確認するのでちょっと待て。カーゴが無かったらいったんクアラ・ルンプールで荷物をピック・アップしろ」かなんか言われる。結局、暫く待たされた後「荷物はオオサカ受け取りだ」と言われたのだが、なんか一抹の不安が。
 マレーシア航空クアラ・ルンプール行きは定刻通り11時15分出発。来るときはそれでもそれなりに混んでいたのだが、この便はガラすき。乗機率(っていうのか知らんが)30パーセントぐらいでしょうか? となりの席まで占拠して横になれるので熟睡。この状態だったらファースト・クラスは要らないね。っていってもクアラ・ルンプールまで4時間半でついてしまうんですが。

 30日
 早朝、クアラ・ルンプール到着。どうも飛行機の中の冷房がつらいようで、あまり気分がよくない。早々にトランジット・ホテルへ。空港の案内板には3階にデカデカとトランジット・ホテルって書いてあるので、そこらあたりに言って聞くと「ホテルは2階だ」と言われた。仕方ないのでもう一度案内板に戻ってよく見ると、たしかに2階部分の隅っこに、「トランジット・ホテル入り口」という表示があるではないか。3階から行けないなら3階部分の表示は書かないか、せめてもう少し控えめな表記にしておけ。
 本当はクアラ・ルンプールを観光でもすべか、と思っていたのだが、今にも降り出しそうな天気(マレーシア人もそう感じるのかは知らないが)と、気分の悪さで気力が萎える。日本に帰るまでにすこしでもやっていきたいこともあるのでウワサに聞く「ホテルに缶詰」の気分もいいではないかと思い、夕方まで滞在することにする。ホテルの料金は6時間100リンギット(3000円ほどですか)。日本人的にはビミョーな値段設定な気がします(っていうか、国内のトランジット・ホテルとほぼ同額?)。
 ホテルで蚊に刺されて、強烈にかゆい。ムヒは飛行機の腹の中なのに…。
 夜、あまり厳重でもない荷物チェックをうけて搭乗。飛行機はやっぱりガラガラである。

 31日
 早朝、日本到着。荷物は無事着いていました。めでたし。
 関空で荷物を豪快にぶちまけて、重いものをリュックに、軽いものを手荷物に詰め直し、電車に乗る。いや、周りの人もうざったかったとは思うんだけど、下りようとするのを押しのけて電車に乗ろうとするのはやめてくれ。
 っていうか、列をつくれない、待つのが嫌い、計算高いくせに人情話をされたりするとその計算を忘れる、会話がボケとツッコミで構築されている、等々、インド人=関西人説を支持。

 

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雑な会計報告:

 航空券 約90,000円
 宿泊費 約60,000円
   ※前半JNUのゲストハウス、後半は日本山妙法寺。情報面でも色々なメリットはあったが、やや楽をしすぎたか? 
 書籍代 約70,000円
   ※内容については別ページ参照。
 おみやげ、服など 約10,000円
   ※自分用に絹のインド服を購入。結婚式への出席に役立つ。
 その他、食費、移動代など諸雑費 約10,000円
   ※インドはこのあたり、まったくと言っていいほど金がかかりません。ほどんどはオートリキシャ代です。
 マレーシアでのトランジット関連 約10,000円
   ※マレーシアを観光できたら良かったのだが、これ良く考えると100パーセント無駄な出費だな。

 総計 約250,000円
   ※その価値のあるフィールドワークだったか?、っていうのは出かければいつでも悩むところである。しかしながら、今回は旅行がNGOにおんぶだっこだったこともあり、比較的安くあがったと言えそう。あと、本を100冊以上買い込んだことを考えれば、それだけでも一冊あたり2,500円相当なので、日本でうろうろしていても同じぐらい金がかかるわけだし、と自己正当化できるのも物価の安いインドのメリットでふ。

 

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関連リンク

・Research Foundation for Science, Technology and Ecology / Navdanya / Diverse Women for Diversity /
http://vshiva.net/
・Third World Network
http://www.twnside.org.sg/
・Jawaharlal Nehru University
http://www.jnu.ac.in/
・Schumacher College
http://www.gn.apc.org/schumachercollege/
・英 Resurgence誌
http://www.resurgence.co.uk/
・英 The Ecologist誌
http://www.theecologist.org/
・Gandhi Smriti (ガンジー記念館)
http://www.gandhismriti.com/
・伊スロー・フード協会
http://www.slowfood.it/
・オックスフォード大学出版
http://www.oup.com/
・Manohar Book Service
http://www.manbooks.com/
・Khadi and Village Industries Commission
http://kvic.org.in/kvic/indexold.htm

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