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◆国境の経験 :小笠原の民族誌的問題と地政学的意義

 京都大学 人間・環境学研究科  春日 匠



 日本の境界画定におけるオリエンタリズム言説の効果については、近年研究が数多くなされているが、小笠原諸島はそうした中で研究の空白地帯である。これは、国民国家の視点で小笠原を対象化することの困難を反映している。そのため、逆にこの地域の言説を扱うことが、国民国家の限界を措定することになろう。
 小笠原諸島は、大航海時代に発見されて後、長らく無人島であり続け、その後北太平洋捕鯨の隆盛とともに捕鯨船を当て込んだ商人や船を逃げ出した水夫達の住みつく島になった。彼らは国家の支配を嫌い、自由に重要な価値を見いだす人々であり、彼らにとっては小笠原は「国家に抗する」ことのできる楽園であった。しかし、米、英、日はその地理的重要性から相次いで島の領有を画策する。結果として島は、ヨーロッパ人移民達を住人として含んだまま日本領になることが画定する。この時、支配する帝国が有色人種で、支配される植民地ネイティヴが白人、という転倒した構図の地域が出来上がった。
 このため、ここをめぐる日欧の言説も、通例のオリエンタリズムとは一風変わった興味深いものになる。ここでは、小笠原に関わる言説空間を、戦前と戦後、欧米側に産出される言説と日本側に産出される言説、の2つの軸を設定して、4つに分けることにする。
 戦前の日本の言説には、小笠原諸島の移民たちへの西洋のまなざしを借りて、そこから徐々に日本独自の「有色の帝国」のためのオリエンタリズムが形成されていく過程が観察できる。対して、戦前欧米側の言説は、小笠原のような辺境中の辺境に住みついた人々に対する好奇と共感の視点はあっても、そこにいる人々に対する蔑視や差別は感じられない。また、日本人が欧米人移民をどう扱っているかの米英の評価も、比較的好意的なものであった。
 これが、戦後の言説空間では、関係性が逆転し、アメリカの公式、非公式の文章の中に小笠原の欧米系島民をエスニック・マイノリティーだと見なす視点が形成されはじめる。この中では、日本の領有、支配の不当性も匂わされることが多い。
 これに対して、サンフランシスコ講和条約で沖縄とともに小笠原を失った日本側は、返還を訴える過程で小笠原の欧米系島民はすでに日本民族に同化しているのだと主張する。次に、いざ小笠原が返還されてみると、今度は日本側も、旧島民との利害関係の調整の都合から、欧米系島民を利益団体としてのエスニック・グループと見なす論調が出始める。これは、戦前の差別的な言説とは質が異なるにしても一種のオリエンタリズムである。
 欧米系島民のこうした状態に対する抵抗戦略は、自己表象しないことであった。戦後にあっては、エスニック・マイノリティーとしての自己表象をとることはアメリカの支配を受け入れることであり、それを否定することは日本の支配を正当化することであった。この状況ではどちらに転んでも彼らの自律的な表象はありえない。この意味で、小笠原はスピヴァクのいうサバルタン性を持っているのである。我々は、こういった国民国家による隠蔽の背後に現地の実践をとらえなおす民族誌を構築する必要がある。
 こういった民族誌は、民族の外延の規定を自己表象に頼ってきた「表象の危機」以降の文化人類学を批判し、国民国家による強制的な規定と、人々の自発的な規定、そして世界システム上の権力配分(エコノミー)の三者の相互関係を浮かび上がらせるものとなるであろう。

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KASUGA,Sho
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