京都人類学研究会ニュースレター Vol. 1 2001.10 3p.- 5p. 「上半期活動報告」内
  京都人類学研究会2001年度5月例会『特集小笠原諸島誌: その歴史、環境、文化と生活』
  春日匠「語られざる小笠原:日本におけるサバルタン研究の可能性」発表要旨 





 小笠原諸島は、江戸時代ごろまで、完全な無人島であった。最初の発見者を誰とするかは議論のあるところであるが、ここに最初に住み着いた人々は、当時盛んであった北太平洋捕鯨の船に物資を補給することをあてこんだ商人たちや捕鯨船を下りた船乗りであった。つまり、欧米人や船乗りとして活躍していた南太平洋の人々だった。
 これらの人々にとっては、小笠原は国家の統治を受けない楽園であった。明治期に入り、英米や日本が小笠原の領有権を争い、結果として日本領として落ち着くわけだが、このときも駐日イギリス領事が帰属について島民に聞き取りをしている。その回答は、どこの統治も受けたくないと言うものであった。彼らの態度は、欧米の船乗りたちの手記の中では、ロビンソン・クルーソーを彷彿とさせるものとして比較的好意的に記述されている。現代の我々はハキム・ベイの「エンクレーヴ」という概念を思い出すことも可能であろう。
 ただし、領事の報告や紀行文の中で、彼らが統治を拒否していると明示できたのは、欧米諸国が小笠原の統治権を放棄したという事情も無視できない。一方、統治を推進する立場に立った日本はそれでは問題がでてくる。したがって、「日本の統治」を正当化するような言説が展開される。これは、日本をより高等な文化ないし文明と見なし、小笠原の住人たちを従属的、非主体的な集団とする言説である。この課程で、当然ながら現地の主体は無視され、消滅させられる。こいった言説の形式はサイードの指摘する「オリエンタリズム」に符合するものであるが、実際の言説の内容もヨーロッパのオリエンタリズムの模倣であった。つまり、小笠原に居住する人々の来歴の多様性を無視し、一つのエスニック・グループとして扱おうとしたのである。『小笠原島志』の「故にこれ等の徒は雜婚雜居によりて南洋土人の血に同化せりといふを適當とす」という記述は、その象徴的なものである。特に、昭和に入り、軍国主義の色彩が強くなってからは、それまで許されていた欧米風の名前や英語も弾圧されるようになり、そういった来歴を持つ住民にとってはつらい時代が続いた。
 第二次世界大戦の激戦を経て、小笠原は沖縄と同じように米軍の占領下におかれる。ただし、一部の軍属を除いたほぼすべての民間人が内地に強制疎開していた小笠原は、終戦時において事実上無人島に戻りかけていた。占領軍はこの小笠原に、彼らが「欧米系」とアイディンティファイした一部の住民にのみ帰島を許可することになる。「許可」といっても暫くの間は米海軍からの支援もほとんどなかったようで、島民たちは極めて困難な生活を強いられた。それにもかかわらず、島への愛着と、戦中に受けた弾圧の記憶が彼らを島に帰らしめたのである。
 しかし、ここで利益主体の分断がおこった。強制疎開を受けた他の(つまり、主に日本本土に来歴を持つ)住民たちも帰島を望んだのである。彼らは、返還を訴える過程で小笠原の欧米系島民はすでに日本民族に同化しているのであり、彼らもまた他の島民の帰島を熱望していると主張する。これは、まったくの嘘とまではいいきれないものの、すこし誇張した表現であった。つまり、欧米系の島民は、生活のインフラを保証するために何人かの必要だが島にはない技能をもった人物を欲しており、そうした人物としてある程度は見知った昔からの島民のほうが適当であると考えていたことを示す文書は残っている。しかしながら、大枠としては彼らは島がアメリカへ帰属することを望んでおり、そうした陳情書も提出されている。しかし、彼らが自分たちがアメリカ市民である資格を備えていると主張したのに対し、アメリカ側の文章は、彼らの民族的独立性を強調している。これは、小笠原を自国領と認めるよりも、どちらかというと信託統治領的なものとして統治の対象にしようとしたという事情が反映されている。もちろん、戦前の日本の立場と類似していることが指摘できるだろう。逆に日本側の言説は、戦前とは逆に「普通の市民」として扱おうとしているのだ。
 では日本側のほうがオリエンタリズムから脱却できていたかというと、当然そうではない。欧米系の島民がアメリカへの帰属を望んでいると見るや、日本側の記述は態度を一変させ、彼らを(島に住むという)既得権益を排他的に守ろうとする集団として非難的な口調に変わっていく。ここでも結局、島の人々の見解や実体を正確に把握、説明しようと言う態度は感じられない。次に、いざ小笠原が返還されてみると、今度は日本側も、旧島民との利害関係の調整の都合から、欧米系島民を利益団体としてのエスニック・グループと見なす論調が出始める。ここでも、戦前の差別的な言説とは質が異なるにしても一種のオリエンタリズムが働く。
 欧米系島民のこうした状態に対する抵抗戦略は、自己表象しないことであった。戦後にあっては、エスニック・マイノリティーとしての自己表象をとることはアメリカの支配を受け入れることであり、それを否定することは日本の支配を正当化することであった。この状況ではどちらに転んでも彼らの自律的な表象はありえない。この意味で、小笠原はスピヴァクのいうサバルタン性を持っているのである。我々は、こういった国民国家による隠蔽の背後に現地の実践をとらえなおす民族誌を構築する必要がある。
 このサバルタン性が現在でも継続している問題であることの査証として、アイヌや沖縄に匹敵するほどユニークな存在であるはずの「小笠原の欧米系日本人」の存在は、本土においてほとんど知られていない。実際問題「欧米系島民」という言葉はあっても、島ですら「欧米系日本人」(つまり「日系アメリカ人」といった概念に対応するものとしての)概念はほとんど見られないのである。また、彼らには島が日本に返還されたさいの事務手続き上の特例として、戸籍上の名前にカタカナ表記が許されているのだが、それらを例えば在日韓国・朝鮮人問題に関わる知識人などが、在日問題の対比で取り上げる、といった機会もまずない。
 結局のところ、まず彼らは発言を封じられてきた。また、例えばマイノリティ性を主張することはその時の統治国の「統治性」の強化に繋がり、「市民性」を強調すると逆にその「統治」に意義をもつ国家ないしグループを利する、という側面をもっているために、単純にどちらかの表象戦略を採用するというわけにもいかない。このことが彼らのサバルタン性をさらにます結果になったと考えてもいいだろう。


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