STS Network Japan '01 夏の学校 
 「未開の教育学: 人類学的架橋の試み」 
 発表要旨…のつもりが分量的には論文ですな。 
 いろいろと未整理ですが、あげとかないとズルズルそのままになるので… 


未開の教育学: 人類学的架橋の試み



 所謂「ゆとり教育」を中核とする近年の教育改革議論は、企図している教育改革国民会議の中核メンバーである三浦朱門や江崎玲於奈らの公式、非公式の発言を見れば、単なる棄民政策であることは明白であり、とうてい支持するわけにはいかない。この点は一連の「大学改革」と同様、ないしそれ以上に重要な問題である。斉藤貴男らによれば、教育改革国民会議の論調の背後にあるのは、教育リソースを一部のものに集中することで経済効率を上げようと言う思想であり、それを正当化するような優生学的な先天的能力があるという優生学的な仮説である(斉藤 2001)。
 ただし、こういった見解は日本の財界人一般の認識からも乖離している可能性がたかい。例えば、経団連のステートメントなどは、詰め込み型の教育の問題は認めつつも、行き過ぎた「ゆとり教育」への警戒心を表明するという、ある意味では非常に穏当な、言い換えれば玉虫色の結論を示している((社)経済団体連合会 2000a, 2000b)。
 また、教育改革国民会議的なゆとり教育への反対論は、きわめて錯綜した状況にある。もっともマスコミ露出度が高く、影響力もあると思われるのが一連の『XXが出来ない大学生』シリーズを出版している大学教授のグループだが、彼らの議論や統計はずさんなことが多く、あまり支持できない(岡部他 1999, 2000, 2001)。もっとも基本となる論調は、カリキュラムの削減・緩和が児童生徒のやる気を失わせ、単純な学力崩壊ばかりか学校の環境じたいの崩壊を招いているというものである。しかしながら、時系列でその二つが同時進行していることと、単純にその二つを因果関係で結べることが異なるのは当然である。また、そのさい提示される証拠も、新聞等に「校内暴力」「中学生の殺人」という記事が出てきた回数を調べるなど、あまり当を得ていないものが多い(西村 1998)。詳細は発表されていないので不明だが、数学受験経験の有無が年収に影響を与える、という議論なども疑問が多い。数学能力が論理的思考力を身につけ、論理的思考力が高年収につながるというのが推定されている関係であるが、数学能力が年収に対する独立変数なのではなく、ジェンダーや階層などの独立変数が、「数学受験」と「高年収」という二つの従属変数に影響を及ぼしていると考える方が妥当性が高いのではないだろうか?
 そもそも、『XXが出来ない大学生』シリーズは、各大学で行った基礎的な計算問題の結果に対する簡単な論考を中心に、多種多様な筆者が「ゆとり教育」に対する危機感を表明するエッセイを寄稿する、といった形式でつくられている。結果的に、「学力が崩壊すると優秀な労働者が減り、日本経済があぶない」といったような扇情的な議論の大枠は共有するものの、個別の論者が依拠するエヴィデンスには相当の差異が見られるし、総じて信用性に乏しい。例えば、中には次のような、数学が合理性を養うことの説明としては、印象批評の域を一歩も出ないような議論も見られる。

 「x^2+5x+6を因数分解するには、一対の数で『加えると5』になり、『かけると6』になるものを見つけなければならない。」このように二つのことに目配りして両方に具合のよい答えを見つけるという問題には、社会に出てもたくさん出会うだろう。(岡部他 1999 p.15)

 また、一橋大学の中馬は、工場労働者が生産現場でどのように熟練工になっていくか、またその適正な比率はどんなものになりうるかといった課題について優れた論考を著している経営学者だが、『XXが出来ない大学生』に於ける論考では、企業現場においても論理的思考力は必要であるから論理的思考力を養う数学は熟練工の養成に寄与するという議論を行っている(岡部他 2001 p.59- 小池他 2001)。しかし、数学において養われる「論理的思考力」と企業現場における「論理的思考力」が共通のものであるということを保証する議論は、彼の研究書においても乏しいし、『XXが出来ない大学生』では完全に欠落している。実際、後に詳しく触れるアメリカの文化人類学者ジーン・レイヴの議論のように、学校的な知識や推論が、産業の現場において十全に機能するという仮説に疑義を提示する研究は少なくない(レイヴ 1993)。
 しかし、最大の問題は、個々人のための教育という議論と、国家や産業界に寄与する教育、という議論が未整理のまま、前述のような危機感だけが煽られる議論になっていることだろう。例えば、筆者らの言う将来の年収差200万円のために、子どもは何時間ぐらい勉強時間が増大することを受け入れられるだろうか。しかも、年収の上昇は結局可能性の問題にすぎず、勉強時間の増大は現実現在の功利、生活の楽しさに直に関わってくる問題であろう。(※ついでに言えば、これが数学の能力差が縮まれば収入差も縮まるという議論だとすれば、ちょっと変である。収入差は分配に差を付けることで労働意欲を付けるという資本主義システムの問題であり、収入が能力の関数になるという見解は資本主義に対してナイーヴすぎる議論である。すなわち、数学能力が均等化すれば他の能力に収入差の根拠が見いだされるだけだろう)。
 結局のところ、ここでは高度経済成長期のような求心力、動員力を国家や企業が保持し得なくなっている現実に対する考察はまったくないように思われるのである。そこを抜きにして数学カリキュラムの強化が子どものやる気を高めつつこれまでのような形での「平等社会」を維持するという仮説はまったく支持できない。
 つまり、カリキュラムに関わらず、不登校やフリースクールという形で、学校という統制からの逃走はすでに開始されている。カリキュラムの改悪がこの逃走に向かう子どもの比率を増やしていないとは言えないにせよ、カリキュラムをいじることによってこれをゼロにできるという考えは非現実的であろう。とするならば、階層分化を防ぐ方策を基礎教育の強化に求めるのは、少なくともある層に対する対策を決定的にあきらめているという意味で不十分だろう。文部省や教育改革国民会議の面々が抱いている教育に対する不満を真剣に検討することと、教育からの闘争を開始している子どもたちが抱いている教育に対する不満を真剣に検討することの間には、決定的な乖離があるのだ。カリキュラムの削減という局面では屡々無化されてしまうこの乖離は、まさに国家や資本主義の意味や未来に対するヴィジョンにおいて決定的になるだろう。
 では現在の教育議論に欠けているものがあるとしたら、具体的にはどういうことであると考えられるだろうか。例えば、近年(左右両翼から)提唱されているワークシェアリング、あるいはLETSのようなポスト産業資本主義を志向するような制度の可能性はまったく評価されていないことが、個人的には議論不足にうつる。要するに教育論とは次世代の社会をどういう方向に持っていくかという議論であって、多様な可能性の検討を阻むような危機意識のあおり方は、誰にとっても決して有益なものとは言えまい。
 だとすれば、教育改革国民会議と反ゆとり教育という対立点から、国民に迫られている(ように見える)選択は、わずかばかりの自由と「ゆとり」の代償に、未来と生活に対する権利を剥奪される新保守的新自由主義か、平等社会の維持のために現行の学校制度が抱えている問題や、子どもたちが受けている圧力に関する議論を封殺し、現行の学歴主義的な教育制度を強化することを認めるか、しかないように見える。両者において欠落しているのは、教育は「社会」(ないし「国家」「民族」といった集団)のために行われているのではなく、あくまで個々人の幸福な生活のためにこそ行われるのであるという視点である。言い換えれば、社会的経済的に有為の人材に慣れなければ不利益を被るのは当然であるという前提は両者に共有されており(また評価される有意さの範囲は極めて狭く)、後者のグループのほうがそういった「落伍者」の数を減らす努力があるぶんだけわずかにマシであるだけだと見える。
 つまり、ここで私が主張するのは次のようにまとめられよう。数学が、自由時間の適切な利用としての知的な楽しみである限り、それは極めて貴重で崇高なものであると言って良い。また、国民の多くががそうした形で人生を楽しむことができることが、結果として国家や社会を富ませることに貢献しても、それは何ら非難するに当たらず、むしろ推奨すべきことである。しかしながら、この順序を逆にして、「国家や社会を富ませること」のために数学教育をプランニングすることの価値も効果も、さほど自明ではない。
 目指されるべきは教育改革国民会議が嫌うような連帯や批判の能力を備えた(実直でない)市民層の育成に配慮した教育であり、また同時に産業社会における栄達や高収入のようなすでに求心力を失った社会的欲望にのみ依拠するような議論ではなく、新しい、多様化した価値観に即した教育である。
(※こう言うと、子どもの将来など判らないのだから早いうちから可能性を狭めるべきではないと言う反論があるが、けだし正論である。ただし、子どもが主体的に選択できるという条件を満たすのに、学習内容が今より狭められる必要はない。数学、国語というような天下りに決められた学習領域をそのまま受け入れるのではなく、例えば小分けにした学習領域のサブセットを自分で組み立てられるような方式を考えられるといいのではないだろうか)。


 従って、教育論争はより根本的なところから行われなければならない。ここでは、近年は一部の研究者以外からは忘れ去られたように思われる70年代の反学校論、特にパウロ・フレイレとイヴァン・イリイチの議論を再検討し、発表者自身の立場の表明とする。また、近年の認識人類学や発達心理学の知見を導入し、現代社会においてフレイレらの議論を再定位、再活用するような枠組みの構築を目指すこととしたい。
 フレイレはブラジル生まれのマルクス主義者で、教育学者であると同時に優れた実践家でもあった。彼は故国で、また故国から追放された後も各国で、主に貧者のための教育プログラムを推進した。フレイレの特徴は、従来型の教育システムを「銀行型教育」すなわち、生徒は客体として(支配階層に有利な知識を)詰め込まれるだけの存在であり、その結果として社会の支配構造に対して無力な人材が形成されるというものである。これに対して彼はマルクス主義的な教育実践として「問題提起型」の教育を推進した。具体的には、例えば生活のいろいろな場面を描いたカードを見せて、その場面を描写させることで生活上の諸問題を言語化し、(教育を受けるグループのメンバー同士で)共有したりすることの大切さに気がつかせる、というものであった。また、そうした教育は実際上も教育を受けるグループのモチベーションを向上させることによって、教育効果自体も改善されるのだと主張される(フレイレ 1979)。
 またイリイチはオーストリア生まれのカトリック司祭として、第三世界で貧民救済プログラムに関わると同時に、その近代批判的な思想を先鋭化させてきた。現在はペンシルヴァニア州立大でSTSを講じているという。イリイチは、フレイレの学校批判を「学校化」ないし「隠されたカリキュラム」の問題として精緻化した。イリイチのこの批判によって、フレイレにおいては階級闘争の戦線として表象されていた「教育」の問題が、「教育」という近代的な制度そのものの抱える問題としてクローズアップされることになった(イリイチ 1977)。
 イリイチの議論の要諦は、近代の特徴であるもろもろの制度は、人間が本来持つ生きる力を失わせる、というものである。彼は、その特徴的な機関として、交通、医療、そして教育をあげたのである。例えば、近代医療は、特権的集約的な治療によって、共同体による自律的な医療を失わせる。つまり、抗生物質の利用によって生体内部の抵抗能力を失わせ、工業化された医薬品の供給によって山野の薬草に関する民族知識を失わせる。これらをイリイチは「医原病」と呼んでいる。
 今回のテーマである学校に関わる彼の有名な著作『脱学校化の社会 Deschooling Society』は原著が1970年出版である。ここでの議論は、医療に関する議論と同様、人間はその幼少期を社会から切り離され、学校的規律を受け入れることにより、その生に必須の知識を学習する機会や他者との連帯の可能性を剥奪されるというものであった(イリイチ 1977)。
 もちろん、こうした議論は、単純に「反近代」の蒙昧主義であるという批判もあり、また逆に近代主義的な自由を過度に重視して、規律訓練の意義を否定するものだという批判もなされた。これらの批判が相互に矛盾していることからも判るとおり、イリイチらの議論は見かけほど単純ではない。
 まず、日本のコンテクストでイリイチを理解すると、日本の受験勉強型の詰め込み教育批判とも受け取られがちであるが、実際のイリイチは反復練習Drill Teachingの意義をむしろ推奨している。「詰め込み教育」とドリル・ティーチングの違いは前者が学校的な規律を押しつける「影のカリキュラム」を内包しているのに対して、後者がより生活に密接した必然性から行われるべきであると説かれていると言うことだろう。実際、ブッシュ政権時代の教育改革以前におけるアメリカ教育の建前はむしろ生徒の自主性や思考力を育てることに主眼をおいていたという事実を忘れてはならない。イリイチの批判は、これらの「自主性」すらも資本主義や合理主義という近代に適応させるための「影のカリキュラム」であるという事実を(フーコーの『監獄の誕生』にすら先駆けて)主張していたのである。
 また、近代を否定する家父長主義的な蒙昧主義であるという批判も必ずしも適切とは言えない。カトリック司祭イリイチの実践は、しかしマルクス主義者フレイレのそれと似ており、人々、特に貧者の自発的連帯の契機と能力を磨くためのものと定位されているからである。
 ただし、イリイチはフレイレほどある集団を所与のものとは見なしていない。これは、オポチュニティー・ウェブという彼の提唱する教育システムからも理解できる。イリイチは、関心や利害を共有できるグループを自由に形成したり組み換えたりするための連絡ネットワークの構築を、現行の学校制度に取って代えようと試みたのである。これは、当初は草の根のBBSとして始まったインターネット上の市民ネットワークを連想させる。本来、インターネットが普及した21世紀の現在こそイリイチ的実践がより容易になった時代であるかもしれない。
 また、80年代後半から90年代に入って、イリイチは若干「反学校論」の論調を修正している。当初は、学校を政府の統制から切り離し、例えば新自由主義の巨頭フリードマンらが主張したような教育ヴァウチャーを導入することにより、オポチュニティー・ウェブが実践できると考えていたようである。つまり、フリースクールやチャータースクールなどのようなものが想定されていたのだろう(イリイチ 1991)。
 しかし、近年のイリイチはフリースクールのようなものを真っ向から否定するのではないにせよ、彼が「学校のニーズ」と呼ぶもの、つまり学校へ行かなければ人並みの生活もおくれない、アイディンティティも認めて貰えないのではないかという恐怖感を感じさせる社会のシステムに対する批判を強めている。この時点で、フリードマン流の議論とは確実に袂を分けたと見ることができようし、前節で批判したようなカリキュラムの自明視がもたらす産業主義的な罠からの脱却の道も開けよう。
 また、先に述べたインターネットの普及と同様、現在の最先端の認知科学も、イリイチやフレイレの見解を支持しているように思われる。次節でその点について述べる。



 初期の学習理論は、パブロフの犬の実験や、スキナーのオペラント反応のように、ある環境から来る反復的な刺激への反復的な反応の定着を学習の典型と見ていた。しかしながら、現実の生命体は、環境への多様で自発的な働きかけに満ちているように見える。このことから、より多様な学習と認知に関わる理論が生まれてきた。
 これらの領域は、心理学、神経生理学、人工知能、論理学、文化人類学らの専門家が討議する複合領域となっており、議論は多様を極めるが、その象徴的な事例としてエキスパート・システムがある。エキスパート・システムとは、単純に説明すればコンピューターの指示に従って回答を入力していくことで、コンピューター自身が適切な状況判断を下す、というシステムである。プログラムは大きく分けてインターフェイス部、推論エンジン部、そして知識ベースと呼ばれるデータベース部に分けられる。代表的な例としては医学的な診断を下せるエキスパート・システムであるMYCINなどがある。エキスパート・システムは長らく人間の思考を説明するための格好のメタファーを提供すると同時に、知識ベースを変更するだけであらゆる専門的な知識判断に応用可能なエキスパート・システムの構築は、人工知能研究の欲望でもあった。
 しかしながら、エキスパート・システムは果たして実際の知能の実状を正しく捉えているのだろうか。よく挙げられる問題点には二つある。一つは推論エンジンの普遍性の問題であり、もう一つがいわゆるフレーム問題である。これらは実は密接に関連しており、かつ本論考の話題である「学習」ないし教育を考える上で極めて重要なので、順をおって説明していく。
 エキスパート・システムの理想的な形態とは、知識ベースの部分だけが取り替え可能であることであると述べたが、この条件を満たすためには(何が知識ベース部に属し、何が推論エンジン部に属すのかという議論は置くとして)推論エンジン部分は高い普遍性を要求される。我々はここで、一節で議論した、数学において養われる「論理的思考力」と企業現場における「論理的思考力」が共通のものであるという前提を思い出そう。推論エンジンの普遍性という課題と、この共通の論理的思考力という前提には共通点がある。
 さて、この異なる課題に以前取得した別の推論形式を利用することを認知科学ではしばしば「転移」と呼ぶ。例えば、「要塞攻略と癌治療」というよく使われる例があるが、「要塞攻略問題」において周囲360度から一斉に攻撃する、という方式を学んだ人間は、「癌治療問題」(すなわち、ある癌を治療するのに一定量の放射線が必要だが、一カ所から当てると癌以前に人体組織それ自体を壊してしまうというケースで、弱い放射線をあちこちから当てて、癌に置いて焦点が合うようにするといい、と考える問題)に容易に転用できるという議論である。
 この議論に重大な疑念を提起したのが、先に触れたカリフォルニア大の人類学者ジーン・レイヴである。この問題では多くの人類学者が登場するが、アメリカ、特に西海岸の人類学者は大学アカデミズムの内部では『文化を書く』に代表されるようなエスノグラフィーの精緻化という課題に挑む一方、企業などの研究所では認知科学やコンピューター・インターフェイスといった問題に取り組んだ。これは無論、アメリカ人類学的な文化相対主義の反映であり、両者は同じカードの両面であることは注意を要しよう(レイヴ 1993)。
 レイヴは、「要塞攻略と癌治療」の事例など、幾つかの実験を再検討して、学習のプロセスにおいて無条件に転移が行われるという前提に疑念を呈した。そして、より実践的な実験として、スーパーマーケットでの買い物、という日常的なコンテクストで人がどのように計算能力を発揮するかという調査を行った。この調査では、比を計算してお買い得品を見分けたり、異なる単位系を換算したりという、日常的に行われる計算を、実際のスーパーマッケットにおける観察と、ペーパーテストでの再現という二通りの方法で被験者に科した。同時に、同程度の難易度の算数テストを学校でのテストと同様の方法で同じ被験者に行った。結果は、スーパーマーケットという状況に置いては、被験者はみな比較的高得点をマークしており、同程度の問題であるにも関わらず、数パターン行われた学校型テストの点数とはほとんど相関がなかった(レイヴの実験における計算はあまり高度なものではなく、『XXができない大学生』における小テストの最初の五問ていどの難易度にほぼ相当するだろう。従って、より高度な、おそらく日常生活においてほとんど利用されないような計算における問題はここでは論じることができない。しかしながら、『XXができない大学生』が主張するような、「初歩の少数、分数すらできない大学生がいる」という批判が果たして小テスト以外のコンテキストにおいて妥当であるのか、という疑義は提示できるだろう)。
 このことから、学校の成績の善し悪しは、生活の営為の中で要求される計算を行う能力とさほど強い関連を持たないのではないかという議論が可能になる。このように「転移」が疑われている以上、『XXができない大学生』の著者らが仮定していた学校知のレベルと労働者としての能力のレベルが相関を保つ、という過程は(否定されたとまでは言わないものの)自明ではないのである。一方で、この実験は、それぞれの状況毎に異なる推論能力や知識が発動しているのではないかという推測を可能にする。これらの能力と知識を「状況付けられたsituated」と呼ぼう。
 次にいわゆる「フレーム問題」に移ろう。エキスパート・システムでは、一問一答型で状況を整理、現状認識に至っていく二進法的な情報処理に依存している。この情報の二進法モデル(シャノン・モデル)は現在の高度情報社会を実現するにあたっての数々の利点があることは知られているが、主体の置かれている「環境」という不定形で外縁のはっきりしないものを扱おうとすると難しい問題がでてくる。つまり、あらかじめ定式化された課題を解くのとちがって、現実の問題の多くは、なにが環境要因(つまり問題のフレーム)で、なにが変数であるかをあらかじめ決めることは困難である。ところが、現場でそうした弁別を行おうとすると、作業は限りなく複雑になる。結果として、現行のコンピューターでは我々が日常生活で発揮するような問題解決能力を獲得することは難しい、というのがフレーム問題と呼ばれる議論の概要である。
 この転移問題とフレーム問題の両方をクリアするために、「学習」を考える幾つかのモデルが提示されてきた。ここではその中で、アフォーダンス理論について検討したい。アフォーダンスはもちろん、与えるという意味のAffordに行動・状態・性質などを示す名詞語尾を付けたものである。つまり、知識というのは精神に内在するのではなく、環境から与えられる、換言すれば環境と精神、あるいは身体との間のインタラクションを指す、という立場である。工業デザインに関する大家であるD.A.ノーマンは、例として車などのドアの取っ手を挙げる。通例、車のドアの取っ手は、手を差し込めば何も考えずとも引く方向が確定できる。また、くの字型のノブがついていれば人間は上下にそれを回そうとするものだが、それが横にスライドするような扉についている場合、人間の認知にとって自然ではない状況がうまれるので使いにくいわけである(ノーマン 1990)。
 また、ノーマンは次のような例も挙げている。すこしづつデザインを変えたコインの絵がいくつも並んでおり、そのうち一つが被験者が日常使っているコインである。しかしながら多くの被験者はどのコインが自分が慣れ親しんだコインであるかを見分けることは出来ない。この場合、我々は日常のニーズに合わせて認知の精度を落としているのである。これは、ドアの取っ手の例が身体的なアフォーダンスの例だとすれば、社会的なアフォーダンスの例とでも言うべきものであろう(ノーマン 1990)。
 いずれにせよ、こうしたアフォーダンスは身体と社会の構造やニーズによって先天的にせよ後天的にせよ自己発生的にもたらされるものである。しかし、学校的な教育はしばしばこうしたアフォードされる知識を軽視している。というよりも、教室における授業の中にこうしたアフォードされる知識が欠落してしまうのである。例えば、レイヴの買い物実験において、被験者はスーパーというフレームを与えられたとき(つまり商品と値札を前にすれば)適切な計算方式や精度を選択できる。いっぽう教室におけるテストでは、意味を失った(なにもアフォードしない)数字が紙の上に並んでいるだけなのである。
 アフォードされる知識についての学習について最初に思索を巡らせたのは文化人類学者グレゴリー・ベイトソンである。ベイトソンはこれを「二次学習deutero-leaning」という用語の元に扱う。二次学習を簡単に説明すれば、コンテクストの学習、ということである(ベイトソン )。
 例えば、反応理論に基づいた典型的な実験で犬に混乱をきたさせる方法について考えてみよう(ベイトソンはこれを「パブロフ反応」と表現しているが、厳密には報償システムによる強化が含まれるのでオペラント反応である)。円のサインが示されたとき、犬はAのボタンを押すと餌が貰えるとしよう。一方、楕円のサインを示されたときは餌をもらうためにBのボタンを押す必要がある。ルールを理解した頃に犬は「円とも楕円ともつかない」サインを見せられる。このとき、犬は認識に失敗して恐慌状態に陥る。ベイトソンによれば、この時犬は実は「認識に失敗している」のではなく、「円と楕円を見分けよ」という実験室的なコンテクスト・レベルの情報と、「円とも楕円ともつかないサイン」というオブジェクト・レベルの情報の乖離に板挟みになる、つまりダブル・バインド状態におかれているのである。
 これは実は、実験室という、操作された特殊な環境により発生した状況である。犬は実験室の諸々の環境から、「円と楕円を見分けよ」というシグナルを受け取ってしまっている。誤った情報がアフォードされているわけである。逆に言えば、自然状態においてはこうした混乱は生じにくい。それは、自然状態におけるコンテキストが、先に述べたアフォーダンスの特徴通り、「身体と社会の構造やニーズによって自己発生的に」(いわばオブジェクト・レベルの情報と自然に接合する形で)もたらされるものであり、なんらかの絶対者(ここでは実験を行う科学者)によって天下りに決められるものではないからであろう。
 ここで我々は、イリイチの学校批判、すなわち学校が生きる力を失わせるという批判を想起する必要がある。イリイチの批判は幾つかの論点を含むが、その最も重要なものは、教室内部におけるこの二次学習の混乱にある。つまり、教室と実験室はよく似ているのである。レイヴの実験で見たようなスーパーマーケットにおいては、計算の手法や精度は、パッケージや値札に書かれた情報やその日の気分、懐具合などによってアフォードされる形で指示されていた。一方、教室においては「小数点二位まで求めよ」といった天下りの指示が示されるだけである。ここでは、オブジェクトの操作に関する学習はあっても、適切な二次学習が行われていないのである。イリイチが自発的な教育を指向しつつも反復学習を否定していないことも、この議論にのっとれば極めて適切であることが判るだろう。適切な二次学習のレベルで自発性が発動する場合、反復学習は有意義なものとなる。逆に、行政側が主張したがるような「自発性、独創性を養うカリキュラム」というのは語義矛盾である。
 どうやら、適切なアフォーダンスに適切に反応するための教育、といった側面に気を配る必要があるといえそうである。ここでは、その回答の一つとしてレイヴがウェンガーとともに提示している徒弟制モデルについて検討したい。最初に断っておくべきであるが、レイヴもフレイレやイリイチと同様、単純な徒弟制を推奨しているわけではない。もちろん、筆者においても同様である。しかしながら、適切な二次学習を提供するための幾つかの装置が、近代的な学校制度ではなく徒弟制において働いているという事実は見逃しがたい。我々は、自由や解放といった(それこそ与えられたコンテキストとしての)近代的理念を見失うことなく、しかし(というよりも、だからこそ)隠れたカリキュラムの結果による子どもたちの抵抗力低下に抗する道を探る必要があるのである。このことに、徒弟制の検討は有益であろう。

 レイヴらが徒弟制の事例としてあげているのは次のような事例である。すなわち、コピー機のサービスマン、断酒会の参加者たち、ニューヨークの肉加工職人、米海軍の操舵手、タンザニアのヴァイとゴラの仕立屋、ユカタンの産婆(レイヴ&ウェンガー 1993)。コピー機のサービスマンのような近代的な職業も、ユカタンの産婆のような伝統的な職業も含まれており、また断酒会の参加者たちのような、厳密な意味では生業と関わりのないような(つまり伝統的な意味ではコミュニティではないような)人々も含まれている。
 ここでのキーワードは「正統的周縁参加」(LPP)である。近代教育は一般に、オーソライズされた教員と参加を許された生徒たちが教育そのための教室で学ぶために学ぶ、といったものであった。これに対して、徒弟制における教育は、稼働している組織の周縁部への、しかしながら正統とみなされる参加から始まる。これは屡々、掃除のような本来の職業的な技能にはあまり関係のない雑用である。雑用は、近代教育から見れば無駄な時間であるが、徒弟にその場所にいる正統性を与えたり、場の雰囲気や先輩職人に慣れるための期間を提供すると行った意味合いもあるのである。ただし、レイヴらはこれをアイディンティティという言葉で説明しているが、近代的な概念であるアイディンティティの議論をここで適応していいかは議論を要するところであろう。
 また、断酒会のような比較的フラットな組織では、新規加入者は自由に振る舞うことを許される代わりに、一種もののわかっていない若造として扱われる。そして、回を重ねるにつれ色々な人の境遇を思いやるようにといった形で教育され、共同体のルールやコードを学んでいく。ここでも緩やかな疑似徒弟制が機能していると見るべきであろう。
 また、ヴァイとゴラの仕立屋は植民地以降に入ってきたヨーロッパふうの衣服を仕立てるという、若干新しい職業であるが、見事に組織化された例として扱われる。例えば、ここでは修行はほぼ完成した衣服を仕上げることから始まって、だんだんと工程をさかのぼり、裁断を最後に教えられる。このことは、基礎から教える近代教育と明白な対立をなしているが、これは裁断のような極めて抽象度の高い作業のさいに、完成品をイメージして、自分が今行っている作業を、工程全体のなかで適切に位置づけられるようにするためであると説明される。一種のリバース・エンジニアリングなのである。
 これに対して、肉加工職人の例は唯一明白な(教育制度の)失敗例として例示される。レイヴらの指摘する失敗の原因は、現場への「周縁参加」に先だって教室における教室的、専門学校的なカリキュラムが課されたことと、実際の現場にあっても熟練工と見習いの職場が物理的に隔てられていることにより、公式非公式にわたる相互のコミュニケーションが図れず、結果的に専門家集団としてのコミュニティが確立できなかったことなどを挙げている。
 レイヴは、彼女自身の考える理想的な教育システムについて明言を避けているように見えるが、我々はここで、一節で挙げた小池、中馬、太田らの自動車組み立て工場における調査を思い起こすことができるだろう(小池他 2001)。小池らの研究では、職場における技能訓練(OJT)に適切な量の教室的な訓練(OffJT)を組み合わせることによって熟練工を養成できるとされている。これはおそらく、その組織の目的(企業であるか逆にゲマインシャフト的コミュニティであるか、あるいは市民運動や互助組織であるか、といったこと)に関わらず一般化できる議論であろう。
 これらの議論がどちらかというと中等教育や職業訓練、ないし初等教育を十分に受けられなかったまま成人した人、のような対象を想定しているように見える。しかしながら、ベイトソンの議論からも類推可能なように、環境、二次学習とアフォーダンスといった議論は初等教育においても重要である。幾つかの発達心理学の実験がこのことを示唆するだろう(永野 2001)。例えば、幼児に意味づけを与えないで幾つかの日常的な単語を暗記、復唱させるというケースに、お買い物ごっこという条件を与えて同じ語彙を暗記、復唱させるというケースを対比させた実験などがある。当然予想がつくように後者のほうが成績はあがるだろう。ここでも、状況への積極的な参加という動機付けは大きな働きを示していると言って良いだろう。


 混迷を極める教育の問題に対して明示的な回答を提示するのは困難であろう。しかしながら我々は、誤った二者択一という罠にはまる前に教育の意義に常に立ち返って考える必要があるように思われる。原則として教育は人々のために国家ないし社会によって提供されるサービスであり、その逆ではない。従って、国家に対する効率が議論のベースになるべきではないという意味で、棄民か統制か、といった二者択一は排除される。
 では、どのような教育が今後求められるかという問題であるが、これについてはさすがに社会的なコンセンサスや予算の問題を無視するわけにもいかないというのも当然のことであろう。ただ、本稿で確認したような幾つかの原則は、今教育制度に何を求めるべきかを考える上で参考になると信じる。例えば、銀行型教育ではなく問題提起型教育であるべきである一方で、適切な機会と情報、そして反復的な訓練システムすらも準備されるべきである。「学校のニーズ」が本来の社会による学校に対するニーズに取って代わらないようにすべきである。適切なアフォーダンスを読みとれるような「二次学習」の機会を失わせない、教室に封じ込められないシステムが構築されるべきであること。そのためにも適切な実践のコミュニティに対する周縁参加の機会は提供されるべきであること、等々である。
 逆に言えば、こういった点に十分な注意が払われていれば、カリキュラムの問題や制度の問題(公立か民営か、あるいはチャーターか)といったことは副次的な問題であろう。核心は、誰のための教育か、ということなのである。


イリイチ,イヴァン 1977 『脱学校の社会』 東洋訳 東京創元社
イリイチ,イヴァン 1991 『生きる思想: 反=教育/技術/生命』(新版) 藤原書店
岡部恒治, 戸瀬信之, 西村和雄編 1999 『分数ができない大学生: 21世紀の日本が危ない』 東洋経済新報社
岡部恒治, 戸瀬信之, 西村和雄編 2000 『小数ができない大学生: 国公立大学も学力崩壊』 東洋経済新報社
岡部恒治, 戸瀬信之, 西村和雄編 2001 『算数ができない大学生: 理系学生も学力崩壊』 東洋経済新報社
クリフォード, ジェイムズ ジョージ・マーカス編 1996 『文化を書く』春日直樹[ほか]訳 紀伊國屋書店
(社)経済団体連合会  2000a 「グローバル化時代の人材育成について」http://www.keidanren.or.jp/japanese/policy/2000/013/honbun.html
(社)経済団体連合会  2000b 「経済団体・業界団体の役割ならびに教育改革の推進について懇談」 『経団連くりっぷ No.135』http://www.keidanren.or.jp/japanese/journal/CLIP/clip0135/cli008.html
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ブルデュー,ピエール 1990 『ディスタンクシオン: 社会的判断力批判』(全二冊)石井洋二郎訳 藤原書店
ベイトソン,グレゴリー 2000 『精神の生態学』(改訂第二版) 佐藤良明訳 新思索社
レイヴ,ジーン 1995 『日常生活の認知行動: ひとは日常生活でどう計算し、実践するか』無藤隆訳 新曜社
レイヴ,ジーン, エティエンヌ・ウェンガー 1993 『状況に埋め込まれた学習: 正統的周縁参加』佐伯胖訳 産業図書


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