先端研にての、 
 STS Network Japan研究発表会 (02.3.24) 
 発表予稿です。
 


ポストモダン時代のパブリック概念



 本発表では、パブリックという概念が、ポストモダン状況にあってどのように扱われるべきかが考察される。パブリックとプライベートという対概念が指し示す領域については、多様な議論がおこなわれている。そのなかで屡々、「日本ではPublicはほぼ国家を意味するが、欧米ではより広い領域を指し示す」と言われる。これは正しい認識だろうか? また、そのことを根拠に、我が国においても分権化を進めるべきであるという議論は左右両勢力から聞かれるものになってきた。これは正しいのであろうか? 現状を見るならば確かに欧米においてPublicは国家のみを示すのではないことは間違いがない。しかし、欧米でPublicの概念が拡張されたのはさほど昔のことではない。また、現状として分権化以外の選択肢があり得ないとしても、そうなった背景には必ずしも歓迎すべきと言い切れない諸事情が隠されている。
 この事を論じるために、まず簡単に戦後のPublicに関する議論を振り返ってみる。議論の最も重要な部分が、アレントとハーバーマスによって担われたことは論を待たない。実はこの二者においてもPublicの含意はだいぶ異なるのだが、幾つかの点で共通項が見いだせる。まず、「社会」をPublicに対して対立的なものと見ていることがあげられる。これらの論者において、PublicはPrivateに優越する問題であり、「社会」とは誤ってPublicに属する政治闘争の場にはみ出てきたPrivateなのである。また、政治闘争は適切な手続きを経て統一された政治権力として結実することが求められる。適切な手続きとは無論、ハーバーマスの「妥当要求」や「理想的発話」といった言葉で説明されるものである。また、結実した政治権力が国家であることは論を待たない。この見解においては、適切な(Publicを反映した)国家と、不適切な(階級や因習によって動いている)国家があるだけだと言えよう。また、「善性」や「幸せ」は公開されるもの、適切に形式化されるものとなる与件を欠いており、本質的にはPrivateに属するもので、政治的決定の根拠としては不適切であるという帰結ももたらされる。
 しかしながら、ポストモダンの状況においては、こうした国家観は維持できない。ポストモダンというと、日本ではフランス思想に代表される人文学的な運動がまず含意されるが、欧米では新しい経済状況もポストモダンと呼ばれることが多い。そして、これらは明らかに関連性を持っている。経済的ポストモダンはAgile Economy、Niche、Solution、Virtual Organization といった言葉で定義される。ここにおいて、旧来型の国家やコミュニティ・ベースの生産と、その生産物の流通する社会という「生産」ベースの経済モデルは通用しないとされる(こうしたモデルの起源はリカードであり、マルクスとエンゲルスであることに注意されたい)。ポストモダンの経済学においては、分断されたコンシューマーのニーズ(Niche)に会わせた生産物の組み合わせが商品(Solution)であり、生産手段はこの商品に会わせて再編成される(Virtual Organization)と論じられるわけである。例えば我々科学論者はイノベーションという言葉を通常「技術革新」と訳すが、経営学者によってはこのSolutionとして立ち現れる部分にもイノベーションという言葉を適応する場合がある、というのがこの変化をよくあらわしているだろう。このとき、これまでは一律に生産力として見なされてきた中産階級男性というマジョリティ層が、「生産性」という基準でふるい分けられるということが生じる。逆に、これまで政治と経済の場から隔離されてきた女性やマイノリティ、障害者などが「生産性」を認められるという局面も出てくる。使えないマジョリティより、使えるマイノリティというわけである。これは一見歓迎すべきことに見えるが、どうだろうか。これは次に説明する社会的ないし文化的ポストモダンと同時進行で起こってきた事態であるので、先にその点を検討しよう。
 経済的ポストモダンの象徴がAgile Economyだとすれば、文化的ポストモダンの象徴はドゥルーズの「マイノリティ生成」である。それは、権威、国家、真理、大系へのクレームであり、それらの諸力が排除してきたエスニック・マイノリティ、障害者、女性、性的マイノリティが、発言の機会を得、政治的に結集していくことであった。このとき、個々のグループの統合原理は、アレントらが棄却した「善性」や「幸せ」である(多くの場合、心身の「特徴」は形式ではなく「善性」と「幸せ」に直結せざるを得ない)。それまでは国家と個人という二元論(実際は家族制度が厳然と機能していたという点で、この二元論は実は二枚舌なのだが)に切り分けられていた社会が、二重三重の複雑な帰属を前提とするようになった。このとき、理想的発話によって達成されうる共通の権力は、到達困難なものになっていった。
 こうした経済ポストモダンと文化ポストモダンの折衷の結果として勃発したのが、所謂Culture Warsと呼ばれる「価値」と表象を巡る紛争である。つまり、「生産性(ポストモダンの)」という絶対的な評価基準が光臨する中で、なんとかこれまで価値観と生活を維持したい中産マジョリティと、これを契機として社会の再編成を狙うマイノリティの利害の全面的な対立である。無論、帝国内のドイツ、ユダヤの民族どうしは対立しても、その対立の契機をつくっているハプスブルグの支配体制にまではなかなか批判の眼が向かないのと同様、資本主義自体を批判することは困難であった。無論、価値Valueというのも生産性と並んで、ポストモダンのキーワードである。この二つの概念が重要視されていなかったらCulture Warsは存在し得ない。このことは、Culture Warsの主要局面が再生産と教育に関わる問題であったことを考えれば理解しうるであろう。特に、妊娠中絶を巡る論争は、こうした部分から描き直される必要があろう(中絶が隠蔽される日本においてこのモティーフは、年金などを巡る専業主婦バッシングという、やや喜劇がかったシナリオで再現された)。
 上記の事情を考えるならば、我々がもはや実体としてのPublicを求め得ないことは明白に思われる。PrivateはPublicのためにあるというアレント的感覚はもはや我々には理解しがたい実感であろう。また、生活ベースで構築されたマイノリティ・グループが発話主体である空間に、理想的発話を求めることは難しい。全ての発話は立場性に条件付けられているというポストモダンのクリシェは、Privateを背負わぬものはないという事実認識を内包している。
 ただし、我々はマイノリティ・グループをブラック・ボックスとしてあつかうことならば十分に可能である。つまり、彼らの「善性(外向きの決定力)」と「幸せ(内向きの決定力)」は公開不能だが、政策というインプットに対する要求というアウトプットで内部構造が推定できるだろう。これまで見てきたことを考えれば、STS的課題において問題となるのは、政治的要請(決断の形式化、正統性の付与)と社会的要請(個別グループのPrivateへの配慮)の矛盾である。この矛盾の解決に、こうした糸口の把握は必須のものであると言えよう。


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KASUGA,Sho
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