神戸大での、 
 東アジアSTSネットワーク国際シンポジウム「東アジアにおける科学・技術と社会」 
 「セッション・テーマ1:STSの制度化・組織化」でコメンテーターをしました。 
 その時のメモです。 
 当日は学部生が多いようだったので、これ以外にも若干の背景説明をしました。 


02.1.13 セッション・テーマ1:STSの制度化・組織化 コメント


 学者というのが知を掘り下げていく仕事であるというのは、ここでは自明の前提であるとしよう。
 しかしながら、その自明の前提と、所謂「なにか新しいモノ Something New-ism」の追求の間には微妙な、さりながら社会にとって極めて重要な差異がある。
 個々人の知識をチャート化したとすると、おそらくほとんどの人が、浅く広い知識から深く鋭い知識へと逆三角形を描くという構図に、違和感を抱かないだろう。
 浅い知識とは、伝聞や週刊誌で仕入れたような断片的な知識であり、その下のレイヤーとして、新聞やドキュメンタリー、良質のルポルタージュなどが提供する知識があり得る。さらに深くは、専門家が共有するような、ある程度の訓練を要求するような知識があり、一般的に論文などの形で専門家が発表するような知識は、これらの知識のさらに下に位置するべきものである。
 ところで、一般的に言って、現代社会の諸問題を考える上で最も必要とされており、また不足しているのはこの山のピークをなす知識ではない。
 環境問題や遺伝子関連などの新技術導入など、社会的な問題としてあらわれ、論争になる場合、屡々「先端科学」の問題として表象されるにも関わらず、実際はこの重なり合った肩の部分の問題であることが多いと見るべきであろう。
 
 にも関わらず、現今のジャーナル論文を中心とした評価制度は、このピークだけを問題にしているように思われる。
 確かに、ジャーナルによるピアの評価は、ピークを高くするための重要なツールであるし、デ・ソラ・プライスの時代から論じられていたとおり、個々の学者の生産性を図るのに打ってつけの基準であると見るべきである。
 しかしながら、ツールにすぎないものを目的であるというフェティッシュがエトスに埋め込まれてしまったとき、それはもはや基準としては役に立たない。
 我々は、ピークの高さのみならず、三角形の面積そのもの(として表されるであろう幅広い知識)にも評価の目を向けなければならない。

 また、理系の場合、ピークにおいて産出された知識は、工業製品などの形でベルト・コンベア式に社会に還元されるという可能性が高いとされている(社会還元の可能性が小さいモノを「基礎科学」と呼ぶ、という言い方も可能だろう)。
 このことが、ジャーナル論文の点数化を正統化したとも言える。
 しかしながら、人文・社会科学の諸分野においては、自らの思想がエンド・ユーザーたる一般市民に還元されるという保証は極めて困難である。
 科学者が自らの産出物に責任を問うべきだと主張するならば、本来我々こそが自らの思想がどのような形でエンド・ユーザーに届くかについて、責任を持たなければならないだろう。
 この二重の意味で、ジャーナル論文偏重は、人文・社会科学にとって危険なのである。

 近代大学の理念は「研究、教育、公共サービス」を中核として成り立っているとされ、アメリカなどでは人事制度でもこれらの貢献をそれぞれ評価することが明示されていることが多い。
 しかしながら、我が国の大学制度は、長らく外部の介入を排してきたこともあって、大変疲弊しており、これらの理念を十全に反映できるような体制になっていないばかりか、それらの体制を議論するような契機すらも欠いている(我々は公共サービスはおろか、教育という観点からすらもアカデミシャンの評価基準を持たないのである)。
 このため、ジャーナルによる点数制度というフェティシズムから脱却できないでいるように思われる。

 さて、STSの学会化であるが、こうした観点から、一般的な「学会」を造ることには懐疑的にならざるを得ない。
 学会を含めた学問の制度化は、学者が世界から背を向け、自分たちのフェティッシュを反映した架空の庭園に隠ることの正統化に他ならないからである。
 一方で、学会が個別の学者だけでは困難な、ディシプリンと社会との連絡手段になりうるならば、学会に価値がでる可能性もあるだろう。
 デ・ソラ・プライスが学者のグループ化を「見えない大学」の再興として論じたとき、「地位の獲得だけを目的として論文が書かれるということ」の回避を重視していたことを思い出すべきであろう。

 具体的な方策を論ずる時間はないが、ある種の中立的なシンク・タンク機能を果たすような組織の可能性には期待したい(学会を受益者を国家、地域、あるいは地球社会にとったエージェンシーとして構想することは不可能だろうか?)。
 また、先に論じた知識三角形の肩の部分を地図化する作業も重要だろう。
 つまり、どのような議論があり、それに誰がどのような立場をもって挑んでいるか、ということが明示されれば、外部の人間が情報へアクセスすることはより容易になるだろう。
 また、見解が多様で相対的であることと、何を言ってもいいっぱなしということの間には厳然とした距離があるが、こうした距離感はこれまで良心と学者内部での暗黙知によってのみ維持されてきた。
 このことが外部の人間の、人文・社会科学に関する不信感を招いていることは否定できないと思われる。
 この問題を改善するためにも、議論の外縁や焦点を示すことは有益であろう。
 最後に、学会が個別の学者の意見や研究対象を統制することはできないし、すべきでもないが、こうした地図化というかたちでのメタ・レベルにおける介入は、意見の交流を促進する形で研究レベルを向上させることにもつながるだろう。
 
 学会化、制度化は学問の本義にとって諸刃の剣である。
 特に近年の我が国では大学改革ないし教育改革と称する学問の価値の切り下げが公然とおこなわれており、自らのポジションを見失わないようにすることすらも困難な情勢の中で、学会化が何をもたらすかは、大変予測し辛い。
 我々はこれらのことに十分留意する必要があるだろう。


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