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皆様

 「科学技術社会論研究会」では、来る2002年9月28日(土)に、以下のワークショップを行います。
 ご関心をお持ちの方にご案内いたします。

 準備の都合上、参加の方はお手数でも、事前に下記事務局までその旨ご連絡願います。会の1週間前には、発表梗概などの資料をお送りします。
 また、終了後、同会場で簡単な懇親会(会費約1000円)があります。研究交流を深められたらと思います。参加の方はこの点も1週間前までにお知らせください。

 この案内は、転送自由ですので、ご関心の向きにお知らせください。

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      第30回「科学技術社会論研究会」

     ワークショップ「専門家/非専門家図式の再検討」

    2002年9月28日(土) 9:20-17:30
   東京大学先端科学技術研究センター13号館 215号室


1.ワークショップの目的

● 科学技術活動のコントロールを、専門家/非専門家図式の中で語ることの有効性と、その限界を明らかにする。

● この図式の中で語られてきた、科学技術リテラシー、科学技術コミュニケーション、合意形成モデルなどの意味を再検討する。

● そして、その限界の突破口を探る。それは、非専門家の中に専門性を探る道なのか、それともそれは迷路なのか。



2. ワークショップの時間割

9:20-9:30 ワークショップ趣旨説明

9:30-10:45 話題提供1 (討議25分を含む)
        吉岡斉「科学技術批判の観点からみた専門家/非専門家図式」

 1960年代に台頭した科学技術批判の流れの中で、科学技術専門家の社会的役割に対する批判は、ひとつの有力な論点を形作った。
 批判の様式は単一ではなかったが、最もポピュラーな様式の批判では、科学技術専門家は、既存の権力構造の維持・強化に奉仕する全般的傾向をもつとされた。とくに、権力をもつ者が加害者、権力をもたない者が被害者として対立するような状況において、科学技術専門家は前者に味方し、後者に敵対する傾向をもつとされた。そこでは、科学技術専門家は権力構造の中枢ではなく、そのやや周辺に位置するものと見なされた。
 権力構造の中での科学技術専門家の役割と、科学技術専門家自体の権力作用について、理論と実際の両面から調査研究を深めると同時に、従来とは異なる性質の科学技術専門家の可能性を展望することが、科学技術批判のひとつの重要課題とされた。そうした批判の主たる担い手は、具体的領域において加害者及びその擁護者に対決する道を選んだ専門家や、社会的・歴史的現象としてこの問題に関心を寄せる知識人・ジャーナリスト、などであった。
 この報告の狙いは4つある。第1の狙いは、以上のような思想の流れを歴史的観点から整理することである。第2の狙いは、この思想系譜から見たとき、今日いわれるところの専門家/非専門家図式が、どのようなバイアスを帯びているかを検討することである。第3の狙いは、専門家/非専門家図式が、現実問題に解析にどれほどの有効性を発揮しうるかを、原子力政策を例にとって分析することである。第4の狙いは、この図式に基づく活動が現実に担っている権力作用について、批判的分析を加えることである。


10:50-11:30 話題提供2 (討議15分を含む)
        柿原泰「専門家とは誰か? テクノクラシー再考」

11:30-12:00 レスポンス1
        木原英逸 「民主的合理性を阻むもの」


           昼食

13:00-13:50 総合討議 1 司会 鬼頭秀一

           休憩

14:00-15:15  話題提供3 (討議25分を含む)
     廣野喜幸「科学技術倫理・科学技術リテラシーと専門家/非専門家図式」

 医療社会学・医学論で専門家/非専門家図式が問題になるのは、いわゆる専門家支配(profession dominance)の議論においてである。そこでは、専門家支配の問題性が検討される。この話題提供では、まず、医療社会学・医学論における専門家支配の問題について再考する。そのうえで、それと対比しながら、科学/技術における専門家/非専門家図式について、検討する。そして、科学技術倫理・科学技術リテラシーが問題となる場面で、専門家/非専門家図式がどう発動され、どのような課題を惹起しているかについて、環境問題などの事例を交えながら、論じたい。そして、ではそうした課題を克服する上で、どのような方途が考えられ、それぞれがどのようなものとして評価されるかに関する管見を披瀝する。


15:20-16:00 話題提供4 (討議15分を含む)
     春日匠「公共圏対生活圏:「生活知の専門家」は可能か?」

 近代的な政治哲学の前提では、PublicはPrivateに優越し、支配する概念であった。これに対して、経済的、文化的なポストモダンは、利害主体を細分化することによって、こうした「大きな物語」としてのPublicの存在可能性に疑問符を突きつけた。
 つまりそこでは、「公共圏」に「生活圏」を対置することにより、その脱構築が謀られた。だが、この「生活圏的合理性」という概念は、多様な理解が可能である。このため、「公共圏」が可能だったときのような、統合的な視点による包括的な意思決定は不可能になるし、そういった視点をもつ専門家ももはや存在し得ない。
 こうしたなかで、科学論者や人類学者は、暗黙知といった概念で、人々の意思決定の基盤である生活圏を(公共圏的合理性が届かない領域であるとして)神秘化するいっぽうで、自分たちのディスコース自体は公共圏的理性に裏打ちされつつ、生活圏を体現しうるものとして表象しようと試みてきた。しかし、公共圏という法措定的暴力装置の発動を避けた場合、それによって回避される倫理的問題もある一方、やはり社会的意志決定は困難になる。昨今の多くの社会科学が(特にソフト社会科学と呼ばれる領域において)「今後幅広い議論が必要である」といったクリシェに逃げざるを得ないのは、研究者自身の知的怠慢だけではなく、こういった哲学史的背景にもよるのである。
 ここでは、「今後の議論」を先に進めるために確認の必要がある幾つかの前提を考察する。そのことによって、専門家/非専門家図式に見られる、能力と社会的意思決定を巡る議論のよじれを明らかにし、専門家/知識人の職分と責任との再構築を試みる。


           休憩

16:10-16:50  レスポンス2 柄本三代子/桜本陽一

16:50-17:40 総合討議 2 司会 堂前雅史

17:40-18:30  懇親会
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科学技術社会論研究会・事務局
国士舘大学・木原英逸  kihara@pem.kokushikan.ac.jp

以上。





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