近畿日本ツーリストの出資する旅の文化研究所というのがあり、 
 その研究助成金の申請書です。 



旅の文化研究所 研究助成金申請書類

小笠原アウトリッガー・カヌーのリバース・エンジニアリング
  :それはいかに海を渡ったか?

 本研究は、小笠原で近年まで使われていたカヌーの、具体的な製法や方法に関する知識を保存するとともに、カヌーの持つ歴史や象徴的意味を明らかにしようとする試みである。小笠原で使われているカヌーはシングル・アウトリッガー・カヌーと呼ばれるタイプのもので、本来南太平洋で広く使われているものである。これは、得意な歴史を持つ小笠原島民にとって、日本の中における小笠原文化の特異性や固有性の象徴であり、南太平洋との通文化性の象徴でもある。
 現在島に居住する非日本起源の島民は、すべて本来欧米諸国の姓を持っており、「欧米系」として統括されているが、初期の女性島民はほぼすべて南太平洋起源の人々だったと記録されている。カヌーは、公式には語られざる母系の知識の発露でもあるのである。
 無人島であった小笠原諸島は、北太平洋を舞台に活躍する捕鯨船にとって、極めて重要な補給基地であった。特に、父島は隆起した海底火山の外輪山が創り上げた山であり、かつての火口に当たる大きな湾が、まれにみる天然の良港となっており、豊富な水と温暖な気候と会わせて、漁師や旅人を魅了していた。
 こうした交通の要衝としての性質に目を付けた多種多様な国籍を持つ五人の男性が、名前を伝えられていないハワイ系の女性達を連れてこの島に移り住んだのが、1830年のことである。その後、島は通商や捕鯨における利便性が評価され、英米が領有を主張するに至る。
 一方、江戸幕府も、急遽この島の領有を宣言し、移民団を送り込む。結果、おそらく一つには米英がお互いを牽制し会った結果として、日本の領有化が認められてしまう。維新の動乱による若干の開拓中断を経てた明治8年、新政府は小笠原開拓の再開、日本領が確定したまま現在にいたる。
 この結果、Native(現地人)とでも呼ぶべき人たちは欧米諸国を起源に持ち、それを日本が(いわば)植民地化する、という逆説的な状況が誕生した。このことは、近年のポストコロニアル状況にあって極めて興味深い課題を提示するはずだが、これまでこうした歴史は一般に一種の日米交渉史としてしか認識されてこなかった。このことは、小笠原には多様な思惑をもつ多くの、しかもしばしば国家の枠組みからははみ出さざるを得ないような人々が多重的に関わりあって生活しているという事実を見逃してしまっている。
 申請者は、この多重性を公式資料と現地の人々の肉声の両面から掘り起こそうと、資料の収集とフィールドワークにつとめてきた。
 小笠原の(特にいま欧米系住民と呼ばれている)人々が小笠原の「文化」としてほこりを持っているものの一例として、南太平洋に起源を持つ、シングル・アウトリッガー・カヌーが挙げられる。
 小笠原は、明治以後も数奇な運命をたどり、戦後は沖縄とともに米軍の司政下に置かれたが、このとき沖縄とは違い、疎開していた住民の帰島は一切許されなかった。ただし、例外的に、日本の再併合以前に島に居住していた人々を祖先に持つ家族だけが欧米系島民(European-American Origined Islanders)として帰島を許された。
 彼らは若干名の駐留米海軍とともに島で暮らしていた。このとき、米軍は生活を軌道に乗せるのに最低限必要な資材は極力提供するが、原則として自給自足を基本とする自立したライフスタイルの構築を推奨した。これは、68年の返還後の日本が、政府も(当時革新知事を戴いており、諸事政府の逆を行くことをむねとしていた)東京都も、「東京並み」のスローガンを掲げて島の近代化に邁進したのと好対照である。
 その結果、多くの島民が慣れ親しんだ海で漁師として生活することを選択した。このときも採用されたのがアウトリッガー・カヌーである。
 ただし、戦前のカヌーは空襲などで焼失しており、欧米系の島民の間に丸木船を削り出す技術のある者はいなかったので、戦前母島でカヌーづくりに従事しており、当時千葉に住んでいた(つまり、帰島を許された「欧米系」ではなかった)船大工に製作が依頼された。出来上がったカヌーは軍艦で東京湾から移送され、漁師になることを選択した島民に引き渡された。彼らはこの船で魚を捕り、その一部はグァムなどに出荷して現金収入にもされた。
 このカヌーは戦後しばらくしてからの船外機の普及などのさいに徐々に改修されながら、その多くが現在でも利用されている。ただし、68年の返還後は内地型の大型の船舶を利用する漁師と競合することになり、何人かは漁協の指導の元そうした船に切り替え、何人かは漁師を廃業した。
 現在では、漁師を続けた人々も概ね引退しており、カヌーは、たまの楽しみとしての釣りに使われている程度である。しかしながら、彼らはそれでいかに漁をしたか、いかに海が危険と恵みに満ちているか、自分はそれをいかに御すことができるかを語る。一般に小笠原の欧米系の人々は自らについて語ることを好まず、研究者と距離を取る傾向があるように思われるが、ことカヌー漁に関してはやや例外的である。
 ただし、現在ではそのカヌーの使い方、作り方を知っている、つまり生活の中でカヌーを使い続けてきた人々は概ね高齢化しており、このままだと技術と語りの両方が失われてしまう状態である。
 長期的には、実物大のカヌーの再現を試みることこそが重要なのであるが、当面の課題として、その製作過程や部位の名称、カヌーにまつわる語りを映像とエスノグラフィーの両面から記録することを試みたい。
 現在、米軍時代にカヌーの模型を多くつくって、小笠原土産として販売していたという人がいるので、この模型創りを再現してもらい、それを写真とビデオで記録するとともに、実物大のカヌーを創るさいの注意点やタイムテーブルの聞き取りを行う。また、他の何人かのカヌー乗りに関しても、できるだけ同様の聞き取りを行う。
 また、南太平洋の同様のカヌーとの相違を調べるため、その地域のカヌーやその製法について、文献等から調査する。
 これらから、小笠原のカヌーについて、できるだけ詳細な再現を行い、その部位の名称、素材、役割を逐一明らかにし、将来的には完全な形でそれを再現できるようにすることを目指す。具体的には各部位の寸法をできる限り図面化し、実寸で製作した場合の留意点やタイムテーブルの聞き取りもあわせて行う。その過程で、工夫の意味や用法は細かく記録する。


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