はじめに

 たとえば高名なSF作家アイザック・アシモフは科学の貢献を説明するためにギリシャとの比較を持ち出す。ギリシャ時代、確かに人々は高い文化を科学の力無しに手に入れていた。しかしそれは多くの奴隷の力を借りてのことだ。現代の科学は奴隷制という犠牲なしに万人が高い文化を手に入れることを可能にしたではないか。
 こういった見解は確かに一面真実であるが、多くの要素を無視していることを指摘せずにはおけない。たとえば、奴隷が主人の優雅な暮らしの犠牲に悲惨な人生を送っていた地域は実はそんなに多くない。人々はしばしば奴隷という言葉に牛馬のようにこき使われ、働けなくなれば容赦なく捨てられる人々を想像する。しかし、実際にはこれは南北アメリカの鉱山や綿花農園の黒人奴隷のイメージにすぎない。一般には奴隷という言葉は単なる階級の問題にすぎない。ギリシャでいう奴隷は単に市民ではない、つまり参政権を持たない以上の意味はなく、おおくの銀行経営者や哲学者が「奴隷」であったことは周知の事実である。
 また、現代において我々が何不自由ない生活をおくれることの裏には、科学の進歩以上に資源の浪費や第三世界からの搾取があることは間違いがない。我々は奴隷階層に対する(政治的決定権という、筆者の見解では相対的に僅かな)犠牲の代わりに、アフリカの人々や後生の人類に対する(飢餓や貧困という巨大な)犠牲のうえにアシモフの云う高い文化を享受しているのではあるまいか。
 こうしたことをふまえれば、現代のいわゆる科学的知識が、果たしてそのコストに見合うだけの成果を上げているのかは疑問であるとする意見は一考の価値があろう。また、レヴィ=ストロースに代表される文化人類学者が60年代以降、我々が未開の人々として軽視してきた人々の文化は、我々のそれとは性質が違うにしろ、ある種の文化的変遷の結果であるという研究を発表してきた。これをレヴィ=ストロースは(生物学のメタファーで)進化という言葉で呼んでためらうことがない。それを進化と呼ぶかどうかはともかく、アフリカや南米の原住民の文化が我々の文化とアウストラロピテクスの文化の間のどこかに位置するものではなく、我々の文化と同根の、しかし別の道を辿った文化なのだ。
 では、我々の文化とは何なのだろうか。これをもう一度考え直す必要がある。そして、我々の文化の最大の特徴の一つである近代科学について考察することは、こうした問題意識にそうだろう。こうした科学批判を行う上で、問題となるのは科学の位置づけである。旧来、科学はギリシャ・ローマにはじまり、長い中世の暗黒時代に忘却され、ルネサンスによる復活という歴史をたどったとされた。科学はギリシャに始まり、ヨーロッパの伝統の上に築かれたものであり、それ以外の「未開」の文化は科学的な知識を持っていなかったのである。こうした考え方に反対したのが、クーンやニーダムのような科学史家である。
 特に、マルキシストであったニーダムは
 1)近代科学が人類の共有財産であり
 2)そうした科学知識にいたる道は、世界史上の各所に見られる
 と主張した。彼によれば「ガリレオの時代に生まれたものは、普遍的な範型、すなわち民族、人種、信条、あるいは国境に区別のない、あらゆる人びとに有益な開花であったからである。それにはすべての人が資格を与えられ、すべての人が参加できるのである。現代の普遍科学がそうであり、西洋近代はそうでないのである。」(ニーダム1981 54)。
 また、近年こうした歴史観は定着してきたといえる。G.G.ジョーゼフの『非ヨーロッパ起源の数学』は科学史の専門書というよりは一般向けに書かれた入門書だが、ニーダム流の歴史観を採用している。その中でもヨーロッパは特殊な地位を占めている。ヨーロッパは「様々な起源からの数学の上に築かれた近代数学を発展させた」のだ(ジョーゼフ1996 37)。
 たとえば本稿が扱う航海術について、ニーダムは原始的、定量的、数学的の三つの発達段階をあげている(ニーダム1974 213-)。
 第一は原始的航海の段階。星や太陽の観察、おおざっぱな時間と距離との関係の推測。水深の測定、海底のサンプルの調査、卓越風や潮流、陸標の利用、干満の差の測定、等がおこなわれた。  第二段階は定量的な航海の段階で、この時代は定量的な測定が行われる。すなわち羅針盤、ポルトラーノ図、砂時計、三角法、およびアラビア数字の一般化などが特徴である。
 第三が数学的な時代で、測定の時代の測定結果が数々の計算式や表にまとめられる。特に、アストロラーベ(astrolabe)は特徴的で、それまでのクロス・スタッフ(cross-staff)などの緯度測定器が単に星や太陽の高さを測るだけだったのに対し、数々の情報をダイヤルであわせることにより、総合的な情報を簡単に引き出せた。一種のコンピューターであるとも言えよう。また、南中時太陽赤緯表(noon solar declination table 1485年)等が次々創られ、最後には航海歴(nautical almanac 1678年)の形にまとめられる一連の時代である。
 ニーダムによれば原始的な航海の時代を最初に抜け出したのは中国で、これは西暦900年頃のことだ。一方、ヨーロッパは西暦1200年頃まで原始的な航海の時代にとどまっていた。しかし、ヨーロッパは1600年かそれより少しはやい時代に次の数学的な時代に入ったのに対して、中国はそういった数学的な航海術を採用することはなかったというのがニーダムの主張である。
 たしかに、こうした史観は西欧中心主義を排し、公平で客観的な評価を諸民族に与えているかに見える。だがそこには科学は諸民族を評価する絶対的、客観的な基準であるという前提がある。はたして、ニーダムの主張の通り、現代の科学は多くの民族の科学にとって終着点なのだろうか。
 この観点にはマルクス流の発展段階論が影を落としているといわざるを得ない。
 つまり、人類共有の、かつ人類のウェルフェアーを全体として向上させるような知識がある、という前提がある。そして、我々はその前提を共有することはできない。実際はそれらは我々の文化にいかに近いかで判断しているにすぎないからだ。実際はある文化がある知識や技術を採用するのはそれが正しいからではない。それが必要だからである(なにが必要を決めるかは議論の余地がある)。したがって、もしある文化aがある技術を知っていて、別の文化bが知らないとしても、それはbに属する人々がaに属する人々に劣るとは限らないのである。それは単に必要がないだけのことかも知れない(ナミブ砂漠にすむ人が傘を知らないからといって誰が責められよう)し、迷信によるものかも知れない(と、いうよりも何が迷信で何が根拠ある話なのかを厳密に決めることは不可能である)。したがって、知識の量を西洋との比較で評価するよりも、その知識が彼らに何をもたらすかを考えるほうが遥かに有効な研究である。その時、人間の驚くべき多様性が見えてくるだろう。
 例えば、異文化のものである地図は、我々に異文化の地理認識の手法を教えてくれる。
 空間と時間は人間の認識の根源であると言う指摘はおそらく正しい。しかし、その認識が実際の物理的空間(というものが単なる形而上学でないとして)の単純な反映でないことも、また確かである。このことの証明には我々が通常、その時認識していない仮想の空間(明日の待ち合わせの場所)と現在自分がったっている場所とのあいだに何らかの連続性を前提して思考していることを指摘しておけば十分であろう。また、ギブソンらによる人間の認知システムの研究が示すことも、我々が空間をデカルト的な座標軸で捕らえていないことを示していよう。
 したがって、地図が単なる現実の写真でないことも明らかであると言えよう。若林幹夫によればそれはデリダの云う代補(supplement)である。つまり、「地図は空間の代わりをするのではなく、通常の空間経験とは異なる空間像を、あたかもそれが局所的な空間像よりも根元的なものであるかのようにして、人間の了解と経験に代補するのである」(若林1995 36)。
 同書の主旨は以下のようなものである。世界の地図化の手法と人間の認識には密接な関連がある。したがってそれぞれの文化の固有の地図はそれぞれの民族にとって最も合理的な地図である。また、近代化の過程は地図の「客観化」「抽象化」の過程としてなぞることができる。なぜならば国民国家の普遍的、公平で稠密な領土支配が資本主義の成立と我々が使うような客観的な地図の成立の双方に欠かせないものだからである。
 こうした視点が若林のオリジナルではないことは指摘されるべきであるが、空間認識を実際の地図というメディアの歴史的変遷を追うことで明らかにしたという功績は、若林の『地図の想像力』に帰せられるべきだろう。こうした視点が可能になったのは、従来型の文献資料に頼り切っていた歴史学ではなく、美術品等を含む広い歴史的遺物を資料として読みとく新しい社会史の手法が一般化してきたことも大きく関係していよう。
 さて、本稿が技術史的観点からこうした視点の強化に寄与できるとすれば、こうしたメディアの変遷と社会の変遷と技術の変遷の関係を考えることである。それは地図による世界認識の歴史を補強するだろう。
 地図の歴史はその文化の世界観、世界認識を如実に表す。完全に公平な地図など有り得ないので、地図はその文化が強調したいものを強調し、忘れているものを隠してしまうのである。また、航海技術はそうした世界認識が形成される手段として欠かせなかったものである。陸を行くのであればあまり技術に依存しないし、後も残らない。しかし、世界は一つの海の中に多数の大陸と島が浮かぶという構成になっているため、世界を拡げていく上で航海技術は欠かせない。また、そうした技術は後に残る。思想は形を残さないが、思想としての技術は後に残るのである。
 つまり、次のことが言えよう。我々は技術を単純な発達史観で捕らえるのでなく、その背後の文化的コンテクストを十分に読み込まなければいけない。また、文化を読みとくためにはその文化に属する人々が使った技術が何を意味しているのか、読みとかなければいけない。
 特に、我々近代人にとって完全に異文化となってしまった人々の知識や経験は、我々が常に見過ごしているものに触れさせてくれるという意味で、貴重な経験を提供してくれる。また、その近代そのものが成立するに際して、最も重要なヨーロッパでどのようなことがあったかその世界観の変遷を、我々は彼らの地図と、技術と、拡大の歴史、その三者の関係から探れるだろう。
 我々の歴史が常にその視点から欠かれているような意味で、ヨーロッパが歴史の中心になったのは我々が常に思っているよりはるかに最近のことである。現在世界で多く使われる地図は、あたかもヨーロッパが中心のように描かれている。地球は極東から始まり、アメリカの西海岸に終わる。太平洋は大きく二つに分割され、地図の外延を縁取っている。それはあたかも世界をとりまく伝説の大洋(オケアノス)のごとくである。こうして分断された太平洋が一つの文化圏であり、人々がそこを活発に行き来していたとは想像するのも難しい。
 一方、ヨーロッパは地図の中心に位置している。こうした地図を見ている我々にとって、世界の中心は云うまでもなくヨーロッパになる。緯度の線はロンドンを機軸に左右に等しく広がっている。この緯度の数値はあたかも未開の度合いを表しているかのようだ。もちろん、わが国で使われている地図は日本を含む太平洋が中心になっている。また、オーストラリア等の国々では南をうえにした地図が作られている。しかし、こうしたことは地図が作る世界観というものの重要性を誰もが無視できなかったことをしめしているとも言えよう。そして何より、歴史の常識を作ってきたのは誰か、と言うことを考えるならば、ヨーロッパが世界の中心におかれた地図の重要性を、十分に理解できよう。この事は例えばサイードが論じたとおりである。
 今の我々にとって、全ての道はローマに通じるとは、世界の中心としてのローマ帝国を意味する。そして、神聖ローマ帝国や英仏は自らをこの「世界の中心としての」ローマの後継国家に擬してきた。
 しかし、こうした世界地図ができあがったのはコロンブス(クリストバル・コロン。以下慣例にしたがってコロンブスで統一する)がアメリカ大陸を発見して以降のことだ。そのコロンブスですら終生自分の到達した地がアジアのどこかであると疑わなかった。コロンブスの頭の中にあったのは常に、エルサレムを中心としたユーラシア大陸のみの地図である。
 ではいま、コロンブスまでの人々が思い描いていたのと同様に、アメリカ大陸を地図から消したとしてみよう。それが16C以前の人々が見ていた世界である。ヨーロッパはとたんに世界の中心どころか世界の果てになった。デリダの言葉通り、それは巨大なユーラシア大陸の「岬」にすぎない。  このとき、全ての道はローマに通じるとは、世界の果ての、あるいはシルクロードの終着点としてのローマである。そしてヨーロッパはそのさらに外側に広がっている。そこは決して歴史の主要な舞台ではない。世界とはむしろローマやアレキサンドリアといった地中海の都市と、広州や長安といった中国南部の都市の間のいずれかで起こる出来事のことである。
 こうした認識はヨーロッパ人も共有していた。中世の世界観を表すTO図と呼ばれる地図群は一様に東を上にしている。というのも東にあるアジアに世界の中心たるエルサレムが位置するからである。この時、ヨーロッパは明らかに辺境だったのである。
 そのヨーロッパが世界の中心となっていく過程には、技術的な変化と社会の変化、それに空間認識の変化が関係していると言える。
 こうしたことを実際に見ていく過程で、我々は文化としての技術を読みとく手法が必要とされている。我々は初めに古代と南太平洋の航海技術を見る。これらは正当とみなされてきた発達史観が見落としていた別の方向の進化の可能性や、別の合理性を提示している。そして次に大航海時代を考察する。大航海時代をもたらした原因の中には、確かに船舶技術の発展もあった。しかし、そうした技術の相発的な発展以上に、技術の複合という要因が大きかったことを論証する。そして、その複合を利用したあるいはもたらした社会状況を考察する。それは一方ではキリスト教神学の世界観と拡大する現実の世界のすりあわせという中世的課題とその克服の歴史であり、一方では国民国家の誕生という近代世界システム的な問題設定である。ヨーロッパは長い間この二つの視点の中でもがくことになる。


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