第1章 古代の忘れられた技術

 世界最古の船の記録はエジプトのものである。およそ5000年前、エジプトにはすでにナイルを航行する葦船があった。しかし、エジプトには森林がないため、長らく葦船以外のものはつくられなかった。紀元前1500年ごろになると木の船が現れる。木材は輸入に頼ったのかも知れない。このこC9FFFFろから海上にも耐えそうな船が現れる。しかし、海上の主役はエジプトではなかった。
 航海術の歴史を叙述する場合、我々は紀元前の海洋王国フェニキアから話を始めなければいけないだろう。というのも、この歴史はポルトガルのアフリカ南下までを扱うことになるが、その2000年以上前にアフリカ周航を成し遂げた民族を扱わないわけには行かないからだ。
 紀元前1300年頃から、フェニキア人は中心都市シドンを中心に地中海各地と交易をしていた。また、紀元前10C頃からはシドンの南方の都市ティルスが栄え、交易範囲も拡大した。
 フェニキアの地理上の国土は僅かである。しかし、したたかな商人であった彼らは早くから当時の地中海で最強の国家であったエジプトに取り入り、勢力を伸ばした。
 フェニキア人の航海術の実力を示すエピソードの一つにアフリカ周航がある。ギリシャ人の歴史家ヘロドトスによればフェニキアの船乗り達は紀元前7Cにエジプト王ネコの命によりアフリカを時計回りに一周したという。

 リビア(アフリカのこと)がアジアに接する点を除いては、四方を海に囲まれていることは、リビアの地形から自ら明らかなことで、我々の知る限りでは、この事を証明して見せたのは、エジプト王ネコスがその最初の人であった。彼は、ナイル河からアラビア湾に通づる運河の開墾を中止したあと、フェニキア人を搭載した船団を派遣したのであったが、帰路には「ヘラクレスの柱」を抜けて北の海に出、エジプトに帰還するよう命じておいたのである。
 さて、フェニキア人たちは紅海から出発して南の海を航海していった。そして秋になれば、ちょうどその時航海していたリビアの地点に接岸して穀物の種子を蒔き、刈り入れの時まで待機したのである。そして穀物を採り入れると船を出すというふうにして二年を経、三年目に「ヘラクレスの柱」を迂回してエジプトに帰着したのであった。そして彼らはー余人は知らず私には信じがたいことであるがーリビアを就航中、いつも太陽は右手にあった、と報告したのであった(ヘロドトス 28)。
 ことの真偽については各論あるが、現代ではおおむね真実である、あるいは十分可能であると信じられている。この事は後にも触れるが、十分な時間をかけかつあまり正確な目的地を目指すのでなければ古代の航海術でもかなりの距離を移動することが可能である。この事は南太平洋を扱う章で詳述する。
 また、より重要な証拠とされるのが、「リビアを就航中、いつも太陽は右手にあった」というくだりである。これはおそらく、アフリカ大陸南岸を西進中、太陽がいつも右、つまり北に見えたということであろう。南半球にいれば当然太陽は真東より北側からのぼり、真西より北に沈む。つまり、ちょうど北半球と逆になることは我々にとっては常識だろう。しかし、ヘロドトス自身が「私には信じがたいことであるが」と書いていることからも判るとおり、当時の人々には信じがたいことであったのだろう。このため現在では、信じがたい嘘をわざわざ書いたと考えるよりは、彼らが本当にそれを体験したのだと信じられている。
 また、アフリカの東、インド洋側は当時から比較的よく知られていた。また、西の大西洋側は後にポルトガル人達が南下に苦労することになる地域だが、このあたりは常時極めて強い南風が吹いており、南下よりは北上のが易しかったと推測される。このこともフェニキア人達を助けたろう。
 近年、ローマ近郊でフェニキア製の衣装掛けが出土したが、これにはチンパンジーを狩っている人間の姿が彫られている(岡倉1990 21)。これも、フェニキア人が実際熱帯地方まで出かけていた証拠となろう。
 また、フェニキアの植民地で後に本国をぬいて地中海の覇権を握ったカルタゴの住人も海の民であった。前470年頃のカルタゴの執政官ハンノは先の例とは逆にアフリカを反時計回りに赤道付近まで進んだと云う。ただし、このハンノの航海記はさきのヘロドトスのものほどは信用がおかれていない。ハンノの航海はモロッコどまり、遠くても大西洋までは到達していないとする見方もある。ただ、カルタゴに動物園がおかれ、軍用の象もアフリカから輸入されていたのは紛れもない史実である。
 またこのころの人々がインド洋のかなり広範囲で交易を続けていたことはよく知られている。ただし、さきにあげたような時代はまだ沿岸航海が続いていただろう。アレクサンドロス王の将軍ネルアルコスもインダス河口からペルシャ湾に戻るとき沿岸沿いに航海を続けている(長澤1989 15)。
 これが前1Cぐらいに変化したものと思われる。直接の原因はヒッパロスの風の発見である。
 家島彦一はインド洋を三つのブロックに分けている。1)東から広州、マレー半島、フィリピン、大小スンダ列島をふくむ南シナ海ネットワーク。2)インドの東半分を含むベンガル湾岸。南シナ海ネットワークとはマレー半島で重なるベンガル湾ネットワーク、3)それと南インドで重なるインド洋西海域ネットワーク。これはインドの西岸、アラビア半島、ザンジバル島付近までのアフリカ東岸を含んでいる。(家島1993 37-46)
 最後のインド洋西海域ネットワークが、フェニキア人が舞台にしたと思われる地域である。この海域は都合のいいことに吹送流が夏季は時計方向に、冬季は逆方向に吹く。この風の利用がインドへの遠洋航海を可能にした。
 「エリュトラ海航海記」は前1Cごろの無名の船乗りの手記である。エリュトラ海とは紅海のことであるが、ここでは広くインド洋やペルシア湾も含めたインド航路全般のことを指す。この中で触れられているヒッパルコスが、海岸沿いの航海から、はじめてモンスーンを利用した遠洋航海に乗りだした人物だと言う。ヒッパルコスがいつ頃の人間かは全くわかっていないが、この人物にちなんで、先に触れた季節風はヒッパロスと呼ばれた(長澤1989 30)。
 航海記にはインダス(パキスタンのカラチ付近)、ナバルダ(ボンベイ近郊)、マラバル(南インド)と、三つの航路が記載されている。アラビア半島側の最も栄えた町は「幸福なアラビア」とよばれた今日のアデンであったと思われ、ここからインドの各都市に出港していったのである。
 インド洋で使われているのはダウ船と呼ばれる帆船である。
 ダウは現代でも使われている。近年ではあまりなくなってきたようであるが、一般には縫合船であった。縫合船とは釘を使わず、板と板を縫い合わせた船である。これは一見大変頼りなく見え、マルコ・ポーロもその危険性に言及している。しかし、イブン・バトゥータの解釈によれば、「インド洋の海の底には岩が多く、鉄釘で打ちつけた船はこわれるが、椰子繊維で縫った船は弾力があって割れない」のである(三杉1988 108)。この説明が縫合船が使われた理由として妥当ではなかろうか。
 遠洋航海が紀元後1Cに始まって以来、どのような歴史がインド洋における航海技術にあったのか実はよくわかっていない。
 たとえば、インド洋でどのような地図が使われていたかは定かではない。ガマの航海記を書いたバロスはモーロ人がガマに緯度と経度の書き込まれた図を見せたことを描写している(Tibbetts1987 256)。バロスは1523年からインドで勤務しており、ジョアン。世の命でガマの航海の記録を編纂した。彼の航海記が現在最も信頼されているものであるのは間違いない(生田1992 40-41)。しかし、バロスの航海記が刊行されたのは1552年でありその頃は十分にプトレマイオス図が広まっていたこと、ガマと旅を共にした何者かが書いたとされる記録(『希望峰を経由するインディアの発見のためにドン・ヴァスコ・ダ・ガマが1497年に行った航海の記録』大航海時代叢書氈j等の資料に同様の記述がないことなどから、これを疑問視する向きもある(Tibbetts1987 256)。ただし、アルブケルケが1515年マラッカを攻略したさいにジャワ人の航海者が描いたインド洋から東インドにおよぶ「今まで見た地図のうち最もよいもの」を手に入れたと述べている(三杉1988 101)。これがプトレマイオス図だったか、それとも詳しい沿岸図だったかは不明であるが、前者の可能性が高いと思われる。実際、プトレマイオス図がヨーロッパの特権だったと考える理由は何処にもない。中国はついに緯度経度の入った海図を創ることはなかったが、10C頃の天球図は円筒投影法を用いている(テンプル1992 60-62)。
 しかし、プトレマイオスは2Cの人間なので、遠洋航海が始まった当初から使われていたわけではないのは明らかである。
 フェニキアとその後継国家カルタゴは長い間、事実上西洋史から抹殺された存在だった。というのもヨーロッパにおける正当な歴史観は、文明はギリシャとローマに始まり、ながい暗黒の中世の後現代のヨーロッパ人がそれを継承したというものだったからである。とくにフランスは同じラテン圏であるローマを、またドイツはフランスへの対抗上ギリシャを文明の泉源として重視する傾向がある。日本の西洋史観はその多くをドイツに負っているため、我々は通常ギリシャ文明が西洋文明の礎で、ローマはその模倣であったと教わってきたのである。また、巨大な遺跡の残るエジプトとも違い、ローマに徹底的に焼きつくされたフェニキア文化が省みられることはあまりに少ないと言える。
 たしかに、我々がフェニキアの文化や航海術について知ることの多くはギリシャ人に負っている。
 しかし、我々の歴史が不当にセム系の文化を否定しているという事実に注意しなければいけない。こうしたことはギリシャ・ローマ中心史観による弊害と見ることができる。バナールによれば、フェニキアとエジプトの高い技術は現代においてはおおむね忘れ去られている。もともと我々の歴史が頼る資料を最も多く残したギリシャ人はフェニキア人が嫌いである。その上、アフリカとアジアを差別し、19Cと20C初頭はアーリア系を重視する歴史観が隆盛を極めた時代でもある。
 M・バナールはこれまでの歴史観をアーリア史観(Aryan model)、これに対してフェニキアとエジプトを重視する歴史観を古代史観(ancient model)と名付けて後者の復権を計った(Bernal1993 47-)。しかし、こうした時代のことは今だ十分わかっているとはいいがたいのが現状である。ここで言えるのは、この時代の地中海がかなりの程度完成された航海技術を持っていたろうという推測が可能だということだけである。
 では、大航海時代がヨーロッパの覇権をもたらすには何が必要だったのだろう。それについて考える前に、我々は別種の環境のしかし極めて完成された海洋の技術と知識について考察する。それは、ヨーロッパがとりえたかも知れない別の選択肢でもある。


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