第2章 南太平洋の認知科学

 海は全ての方向に均質に広がっているわけではない。実際は海流や風の影響でより行きやすい方向と行きにくい方向の差は厳然と現れる。現代の船でも行きと帰りで時間に差が現れるのは珍しいことではない。まして、エンジンの無い時代は海流や風の動きが重要になる。それは陸上において山や河が人間の交流を支配するのと変わらない。
 地中海では降水や河川からの流入より蒸発する水のほうが量が多い。したがって、大西洋から海水が流れ込み、大西洋と地中海を結ぶ水道の一番狭い部分(ジブラルタル岬とセウタ岬のあいだ)では海水が2ノットから3ノットで地中海に流れ込んでいる。古代ギリシャ人はこの両岬を「ヘラクレスの柱」と呼んだ。彼らにとってはここが事実上の世界の果てだった(ジュルダン1996 32-33)。
 しかし、強力で絶え間ない(あるいは定期的な)水や大気の流れは、利用できれば巨大な交通機関になる。古代エジプトをはぐくんだナイルは常に川下からの川風が吹いている。したがって、物資の輸送はこれを利用することが可能である。川を下るときは船を流れにまかせ、のぼるときは帆を張ればいい。
 南太平洋も、現代人の目から見れば茫漠とした空間にすぎないが、そこを生活の場とする人々にしてみれば道が続き、自然の恵みに溢れた空間であった。アッピア街道のように我々が容易に観察できるそれではないにしても、そこには道があり、人々が交流を続けていた。そして、それを可能にする技術を、彼らは持っている。
 先にフェニキアについて見たような、我々とは別種の、しかし優れた航海技術がここにはある。歴史に残る最古の記録は1521年のミクロネシア、マリアナ諸島のものである。マガリャンイス(マゼラン)の部下だったビガフェッタは航海記の中で次のように記している。
「彼らの楽しみは船に女を乗せてこぎまわることである。この船はフェレーラ(ヴェネツィアの細長い漁船)に似ているが、それよりももっと細い。黒白や赤でぬっている。帆を張ったところと反対側に両端がとがっている太い棒を腕木で連絡している。それで水面を安定して帆走することができる。帆は椰子の葉をつなぎ合わせて作り、三角帆の形をしている。舵はちょうどパン屋のこね棒のような形をしていて上端に木をとりつけている。船尾は船首の、船首は船尾の役目を果たすことができ、水面では波から波へまるで海豚のように跳ねまわるのである。(『大航海時代叢書氈x1965 530)」
 これはまったく正確なシングル・アウトリッガーカヌーの描写である。
 1975年、ミクロネシア、中央カロリン諸島のサタワル島の人々がチェチェメニ号と名付けられたカヌーで沖縄の海洋博を訪れた。その間実に3000kmを48日かけての航海であった。遠洋航海の技術は近年船外機のような西洋の技術の導入ですたれているが、彼らにはまだそれだけのことができるのである。
 チェチェメニ号はまさにマガリャンイスの記述通りの船であった。違う点といえば、椰子ではなくパンダナスの葉を細かく割いたもので帆が作られていること(これはマガリャンイスの間違い)、船体を造るのにペンキやナイロンロープが使われたこと、滑車が使われていることぐらいであった。それ以外は、金属の部品は釘を含めて使われないなど、徹底して伝統的な造りに則っていた。板はココヤシの繊維のロープで縛り付け、パンノキの接着剤で止められていた(石毛1984 314)。浅瀬に強いという縫合船のメリットはすでに指摘したとおりであるが、これが珊瑚礁の多い南太平洋でも役だったと言えるかも知れない。
 アウトリッガー(Outrigger)とは船の本体から横に張り出した腕木のことである。この腕木の下に浮き木(float)がとりつけられる。浮き木とはいうが実は主要な目的は重しである。カヌーは風を真横から受けても進めるが、この時風上に浮き木を持ってきて、風を受けて船が転倒するのを防ぐのである。現代のヨットは舟底に鰭のように板を延ばし、水の抵抗で転倒を防ぐが、これと役目は同じである。このため、カヌーはほぼ真横からの風も受けることができる。
 また、大航海時代の船は三角帆(Latine)を採用していたものの、実際は後方左右65度づつの追い風、および進行方向から45度ほどずれた向かい風しかさばけなかった。これに対してカヌーは(船にもよるが)向かい風もより狭い角度で進むことができる。速度もマガリャンイスやクックを驚かせるに足るものだった。
 アウトリッガーはほかにもマストを支えるロープを固定することにも使われる。また、アウトリッガーでバランスをとりながらアウトリッガーの反対側に甲板を張り出して積載量を増すこともできる。アウトリッガーカヌーには、先の航海記に出てきたシングル・アウトリッガーの他に、反対側にもアウトリッガーをつけたダブル・アウトリッガーがある。また、カヌーを二つ平行につなげた双胴船もよく使われる(石毛1984 316-318)。
 この3種類はそれぞれメリットとデメリットがある。また、帆の形もその性能に影響する。三角帆のほうが風を切ることはたやすい。ただし、横帆(長方形の帆)でも不可能なわけではない。
 まず、双胴船は積載量が最も大きくしやすい。安定しているため、転覆の危険は少ないが速度は最も遅い。また、横揺れも大きい。前方からの風も後方からの風も受けられる。トンガの双胴船は帆の位置とカヌーの前後が決まっているため右舷からの風しか受けられない。ポリネシアで主に使われるものは船の左右を2分する線上に帆柱をたて、先端を取り外し、帆柱を軸として帆を回転させることで風を受ける側が左舷にも右舷にもなり、ほぼ前方向に進むことが可能である。
 インドネシアのダブル・アウトリッガーカヌー等、ダブル・アウトリッガーカヌーは必ずしも必要とは言えないが、通常こうした能力を備えている。また、アウトリッガーの存在により強風下でも安定性が増す。構造的に弱く、遠洋航海には適さない。速度はシングル・アウトリッガーに劣るものの力の方向に対して素直に進むため繰船がたやすい。
 シングル・アウトリッガーカヌーではアウトリッガーが常に風上を向いている必要がある。したがって(マガリャンイスの報告の通り)船首と船尾が同形で、風上に対してアウトリッガーを向け、その時の進行方向が船首となる。また、帆も先端が取り外し可能である必要がある。
 風上に向かって航海(タッキング)するときは頻繁にこの船首転換を行う。これをシャンティングと呼ぶ。これにより、シングル・アウトリッガーは極めて速い速度で風上に向かって航行できる。ミクロネシアではオセアニック・ラテン・セールという独特の形状の三角帆が使用される。メラネシアでは普通の四角い帆が使用される。
 シングル・アウトリッガーカヌーは極めて快速で遠洋にも強い。しかし、積載量が少なく、繰船が複雑である。また、シャンティングには労力がいるため、それなりの船員を確保する必要がある(石毛1984 321-325)。
 こうしてみるとどれも一長一短であることがわかるが、どの用に分布しているのだろうか。形態と技術で南太平洋の文化圏は以下の四つに分けることができる。
 1)フィリピンとインドネシア。四角い帆のダブル・アウトリッガーカヌーが使われ、シャンティングはない。
 2)メラネシア。四角い帆を持ったシングル・アウトリッガーカヌー。シャンティング技術を持つ。
 3)ミクロネシア。三角帆のシングル・アウトリッガーカヌー。シャンティングをする。
 4)ポリネシア。シングル・アウトリッガーカヌーと双胴船の両方が分布する。三角帆と回転が可能な四角い帆。シャンティングは一般的ではないが、される地域もある(石毛1984 325)。
 当然、どれが「より進歩した」形態なのかという議論が存在するが、確たる結論はない。主流となっているのは筏からダブル・アウトリッガーが派生し、それが改良されてシングル・アウトリッガーになった。その後浮き木の部分を船に変えたのが双胴船であるという説である。
 これは性能からの推測であるが、逆にシングル・アウトリッガーが最も古いとする説もある。この論によれば、シングル・アウトリッガーの分布は東に偏っており、ポリネシア人の東進という通説を考えれば、外延に古い技術が残るのが自然というものである。また、ダブル・アウトリッガーの長所もあわせて指摘され、それは十分に遠洋航海に耐えるとされている。
 ただし、実際はどちらが起源なのかは文化の伝播を考える上で興味深いが、どちらが「進歩」しているかにとらわれることはそれぞれのメリット、デメリットと生活環境や文化との関係を見失うものであろう。
 このほかにもサーフボードが使われていた。遊びとして水泳や飛び込みとならんでサーフィンが知られていたのである。ハワイでは2種類のボードが知られており、1.8から2.7mのものと4、5mのものがあった。後者は王や首長しか持つことが許されなかった。
 最後のサーフィンまで含めて、こうした技術は地域によって特徴はあれ南太平洋のほぼ全土に広がっている。また、言語、文化的にも共通点が多く、栽培植物なども共有している。この事から、南太平洋の人々が共通の祖先を持っていることはほぼ明らかである。
 しかし、南太平洋に広く分布する諸民族がどのようにして現在すむ島に渡ったものか、古くから議論の的になってきた。主要な論点は、彼らの起源と、彼らが広がった手法である。
 起源については南米より西進したという説と東南アジアより東進したという説がある。これはかなり前に言語等の分析から東進説の勝利だとみなされてきた。ただ、南太平洋において、通常強い東風が吹く。1947年、ノルウェーの冒険家ヘイエルダールが南米から葦で組んだいかだでポリネシアまで航海して見せ、ポリネシア人が西から東へ広がったことを「立証」して見せた。しかしながら、実際は移動は西から東になされたのである。語族等の研究から東南アジアとポリネシアの類似はほぼ確かなこととされている。ではヘイエルダールの航海と東進説は矛盾するだろうか(石川1984 129-132)。
 次に手法の問題を検討する必要がある。ある説によれば彼らは古代から卓抜した航海技術の持ち主で、ある程度計画的に居住地を拡げていった。また一方、多くの移住は遭難などの偶然によるものだとする説もある。たしかに、クック以来多くのヨーロッパ人の探検記が漂流するポリネシア人を記録している。その中には家族や、大規模の集団での遭難も含まれている。ヘイエルダールの云う通りならば、移住において偶然の果たした役割が大きくても不思議はない。実際、遭難記録もおおむね東から西へ流されている。しかし、筆者は、それだけでは十分に説明はつかないものと考える。
 いつの頃からかは今となっては計るすべもないが、ポリネシア人が風を切ることを知っていたことは間違いがない。風を切るとは、確かに風向きに逆らって進むことである。しかし、実際は完全に風上に向かって進むわけではない。ヨットが風上から45度以内の角度を保って進めるようになったのはごく最近のことである。したがって、風上に進むとき、船は風上から45度以上の角度を保って左右に首を振らなければ進んでいくことはできない。一方、風を背中に受けて進むときはこうした操作は不要となる。
 とすれば、移住を計画的の行うとするとき、最初はある程度の見込みをつけて風を切りながら進み、もし能力の範囲内で島を見つけることができなければ背に東からの卓越風を受けて帰ってくるほうが楽だということがわかる。東からの卓越風を受けるという手法はまさにヘイエルダールのやったことである。つまり、ヘイエルダールは道を見つけるまでは間違っていなかった。しかし、南太平洋の航海術が風を切って長期間進めるとは思わなかったのだろう。だが実際は、我々は南太平洋の技術で遠洋航海が可能なことを示す数多くの事例を持っている。
 サタワルから沖縄までの航海は先に触れた通りであるが、ほかにも、マルク島の住民が土器を売りにイリアンジャヤまで屋根つきのカヌーで3ヶ月の航海をすることが知られている(後藤1996 180)。  伝播という問題を考える上で注目すべきは、1977年にタヒチの近くのファヒネ島の遺跡から見つかった全長20から30mほどの双胴船の一部がある。これは1000年頃のものと推測されているが、我々が見ることのできるダブルカヌーとさして変わらない(石川1984 154,秋道1989 158)。
 このような20mを越える双胴船の存在は注目に値する。こうした双胴船は50人から80人の人間、イヌ、ブタ、ニワトリ等の家畜と食料や飲料水を載せることができた(秋道1989 159)。
 双胴船には大きく分けて2種類のものが知られている。第一は進行方向が決まっており、帆走と櫂と両用する型である。船の前後は決まっており、櫂を使う必要上甲板の位置は低い。第二はすでに説明したアウトリッガータイプと同様前後が同形で櫂を使用しない。後者は遠洋航海によく耐え、1976年と1978年にハワイとポリネシアの5000kmを航海する試みが行われ、ポリネシアはサタワル人の船長の下、これに成功した(秋道1989 159)。
 アウトリッガーは積載量の点で双胴船に劣るものの、外洋における運動制と安全性はさらに高い。  ヘイエルダールの葦船は後ろから風を受けて進めるだけのものだった。しかし、実際のアウトリッガーカヌーがかなり自由度の高い航海の道具であることはすでに見た。それは長期の遠洋航海に十分耐えうる。また、後藤は北西モンスーンを利用すればいかだでも東南アジアからニューギニアまでいたることは可能だろうと述べている(後藤1996 178)。ただ、それではイースター島のような西の孤島は説明がつかないので、筆者はカヌーで航海した公算が大きいと思っている。
 実際の移住は何期にもわたって繰り返されたと見られるが、古くはハワイ諸島やマルケサス諸島への移住で、紀元前後100年ぐらいと見られている(後藤1996 191)。
 こうしてみれば、南太平洋の住人が計画的に移民を進めたと想像することはさほど難しいことではない。あとはどのように未知の目的地を見つけたかである。これには幾つか可能性がある。例えば、出発した島が見えなくなるぎりぎりのところまで出かけて、もしそこから次の島が見えなければ元の島に戻り、角度を変えてもう一度出発する。あとは島が見えるまで最初の島から扇状に捜査していけば、安全性はかなり高いと言える。
 その他にも、島の上空に発生する雲を探す、また空が雲に覆われているときは島の反射で雲の色が違う部分を探す、また鳥や流木などの島のある証拠を見つける、等の手段がとられたであろう。
 目的地が明確に視認できない航法は、推測航法(dead reckoning)と呼ばれる。南太平洋で比較的島が密集しておりポリネシア人達のルートとして確実であるマレー半島からニューギニアのルート中にも、海面が100m低いとしても、こうした推測航法にたよらざるを得ない箇所が幾つかあるという(秋道1995 50)。
 また、高い山の上から目的の島を見つけるものを灯台航法、岸が見える範囲で航海するものを沿岸航法と呼ぶ。南太平洋の航海術はこの(推測、灯台、沿岸)3航法に大別できる。沿岸航法にも二つの山の重なりで位置を確認するやまあて等、面白い技術が存在するが、ここでは遠洋航海に話を絞って進めていきたい。
 目的地が定まらぬ場合の推測航法についてはすでに述べた。この場合はかなり適当に方向を選んで進むことができる。では、目的地点が定まっている日常の航海、例えば交易などの場合はどのような手段がとられるのだろうか。
 現在ではそうした技術はほとんど廃れてしまって我々が知ることはできない。しかし、その一部は道具として残っているものから推測できるし、今だ残っている技術もある。
 マーシャル群島ではスティック・チャートという地図が知られている。それは棒を植物の繊維で編んでつくった地図である。ウィルフォードによればそれらはクックの頃から知られているという(ウィルフォード1981 19)。幾つかの種類が知られている。マタン(Mattang)と呼ばれるものは島とそれによるうねりの関係を示したものである。これは若く経験の浅い航海者の教育用での教科書である。メドー(Meddo)というのは群島の一部の島とそれにかかわるうねりを示している。マタンの応用編といったところだろうか。最後に、レベリブ(Rebbelib)はマーシャル群島の全図である。うねりの情報は最小限にしか盛り込まれず、もっぱら島同士の位置関係を示す目的を持っている。メドーとレベリブでは島の位置は織り込まれた貝殻で示される(久武1989 79)。
 また、ポリネシアのひょうたんコンパスの存在がある。ひょうたんに8分目まで水を入れてその上に植物の繊維でできた網をかける。これをカヌーに固定して、水面に映る星が編み目の線上を移動するように船を走らせる(秋道智彌1989 144)。
 このコンパスの存在からもわかるとおり、星座で位置を確認するのは南太平洋においても重要な作業である。ミクロネシアのカロリン諸島では32の方位が識別され、それぞれ基本的に星座の昇る位置あるいは沈む位置として識別されている。これは星座コンパス(sidereal compass)と呼ばれる。ただし、実際の星座がの位置とコンパスの方位とは必ずしも一致しない(秋道1995 43)。
 ある島から別の島や珊瑚礁のある方向や魚や鳥のいる方向を示す知識は上記の星座コンパスを基準に示されるが、これにも誤差が認められる。ただし、星座コンパスと星の位置が最大で21.5度もの差を示すのに対して島とコンパスの誤差は最大で12度であったという。秋道によれば、この誤差ならば実際の航海で目的の島を見失う心配はない(秋道1995 45)。
 カロリン諸島では魚や鳥がどの方向に出現するかを示した知識をプコフという。プコフの内容は個人によって微妙に違うが、実在しない動物も登場する。しかも、しばしばそれらには固有名詞がつけられている(秋道1995 45)。たとえばクジラを例に挙げる。数は一頭のこともあれば群のこともある。性や大きさの区別もある。体を垂直にしたり、音を出していたりすることもある。サメやイルカを伴っていることもある。例えばワシ座のベータ星が沈む方位(真西)にはヨニワというクジラがいる。ヨニワの特徴は人によって違うがおおむね危険なクジラだとされている(秋道1994 70)。
 ほかにも色々なクジラが登場する。海上に列をなしていることもある。パレルというクジラはウルル島から北西に進むとあらわれる。パレルは尾の部分で合体した二頭のクジラである。そこからさらに進むと魚のように縦についた尾を持つプワァラムワァレイにあう。さらに進めば褐色のクジラであるイキプウェルにあう。イキプウェルにあった場所から西南西に進むと黒いイキロンというクジラにあう(秋道1994 70)。
 さて、特徴はともかくとして、クジラがいつも同じところにいるということはおよそ有り得ない。では、こうした知識は何を指しているのだろう。これらは暗礁のことだという説もある。そのようなケースもあるかも知れない。しかし、実際はそれらは航海のヒントになっているという事実が重要である。あるクジラにあったら方向転換して、次のクジラでまた方向を変えて、というように航海者は茫漠たる海上に次々と目印を想起して航海を続けるのである。
 おそらく、我々の目にはまったく同じに見える海も海流や温度や生物等がつくるその場所なりの特徴や表情を持っている。航海者は長い経験でこれらを識別していく。しかし、これらの特徴は漠然としたものなので、近代科学がそうするようにチャートやチェックシートとして明確化できない。彼らに何で海を見分けているのかを聞いてもおそらく混乱するだけだろう。こうした知覚はむしろ第六感に近いものにならざるを得ない。しかし、それを覚えておくためには名前があった方がいい。名前があれば仲間で共有もできる。これが南太平洋の航海者が海上に生物を想起しながら進む理由ではあるまいか。
 こうした我々とは違う空間認識の手法として、我々はそれを緯度と経度からなる座標で認識するが、彼らは空間で認識するという違いがあげられよう。例としてはプープナパナプという手法がある。プープとはモンガラカワハギのことで、ナパナプは大きいという意味である。海上に巨大なカワハギのつくるダイヤ型を想起し、その中央部にカヌーを想定する。頭部、背鰭、尾鰭、腹鰭の部分にはそれぞれ島を想定する。この時、島は必ずしも実在していなくてもいい(秋道1995 46)。
 こうした認識の処方は二次元の世界をそのまま二次元として認識しているのだから、目的地と出発点の間に直線を想定してその位置で考えるよりも抽象化のレベルが一段低いと言えよう。また、緯度経度という点に還元するやり方は線で考えるよりさらに高いだろう。
 こう考えれば、次に取り上げる奇妙なエタック航法の意味も理解し安いであろう。エタック航法では出発する島と目的の島とを結ぶ線からずれたところに見えない第三の島を想定する。これをエタック島と呼ぶ。エタック島にはプープナパナプとは違い実在の島が選ばれる。また、島を出てから島が見えなくなるぎりぎりの距離を1エタックとする。これは通常18から20kmである。島から最初の1エタックをエタキニ・ケンナという。ケンナは見えるを表す。次の1エタックをエタキニ・マーンと呼ぶ。マーンは生き物の意味である。この距離を越えると鳥もいなくなることに由来する。ここから先はネメタオ、大洋とされる。大洋もエタックごとに分割される。目的の島にもエタキニ・ケンナとエタキニ・マーンが設定される。
 さて、船が1エタック進むごとに船から見たエタック島のある(はずの)位置は星座コンパス一つ分づつずれていく(これは絶対ではなく、エタック島の取り方による。エタック島の設定方法に確たる法則は発見されていない)。この時エタック島は「這う」と表現される(秋道1985 931-957)。
 エタック航法のメリットは第一にやまあてのような沿岸航法のオペレーションと同次元のオペレーションに還元していること。第二にプープナパナプのような二次元上の空間認識と星座コンパスといういつもの道具立てに還元することにより距離と速度という抽象度の高い概念を使わなくてすんでいることだろう。
 ヨーロッパ文化がより抽象度の高い空間認識を行えるようになった理由は順に考察していく。しかし、そうした抽象度の高い認識が、個性豊かなクジラたちと共に、海そのものの特徴を見る能力を我々から奪っていることは指摘されてよい。


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