第3章 大航海時代をもたらしたもの

 この章ではコロンブスやポルトガルのエンリケ航海王子らがなぜ海外を目指したかが考察される。近年、先住民の視点から歴史が再評価される機運の中で、コロンブスたちは昔ほど英雄扱いされるわけにはいかなくなってきた。しかしながら、現在あるような世界秩序、世界システムを形成した時期として、15Cから16Cのヨーロッパの重要性はいささかも揺らぐものではない。むしろ世界システムにおける新しいパラダイムを模索するためにも、研究の必要性は年々高まっていると言える。ここではなにが彼らの航海を可能にしたか、また何が彼らの動機をつくったかをあわせて考察する。
 ただし、大航海時代がどのようにして始まったのか、説得力のある議論を展開することは難しい。しかし、単一の原因に期すことはおおよそ不可能であると思われる。
 通常いわれているような「科学」知識と技術の発展を見れば、その背後にある文化の混合や社会状況の変化にいやでも気付くことだろう。社会の変化や偶発的な知識の総合など、こうした単純な発展論ではおさまりきれない歴史を見ることは重要である。
 大航海時代の幕開けと技術の変化に関連があるのは当然のことである。この時代航海術と造船技術には顕著な変化が見られる。まずコメントしなければいけないのがカラベル船に代表される帆船の誕生である。これにアストロラーベや羅針盤(コンパス)といった道具があらわれ、地図の制作や航海中の位置の確認を容易にした。アストロラーベは過渡期的な六分儀で、星や太陽の高度をあわせ、適度な位置にレーテ(rete)と呼ばれるダイヤルを回すことで必要な数値が得られるように工夫したものである。昔はクロススタッフと呼ばれる北極星の高度を測る中世の道具から派生したと考えられていてが、実際はカマール(Kamal)と呼ばれるアラビアの高度計が発達したものである(ニーダム1980 216)。というのも、多くの星の名称はこの時アストロラーベとともにアラビア語からヨーロッパに移入されたことは明らかだからである(ギンガリッチ1986 38)。羅針盤については中国起源(何処までさかのぼれるかは判然としない)であるというだけで伝播経路はよくわかっていない。15C前半にフラ・マウロやニコロ・ディ・コンティはインド洋のアラビア人が羅針盤を使っていないことに驚いているので、ヨーロッパへの移入が先立ったことは確かである。ウイリアム・トムソン(ケルヴィン卿)は「我々は、866年と1100年の間に北欧の国々で船舶用羅針儀が知られるようになったという強力な証拠をもっている」と主張している(フライスレーベン1983 75)。これは中国よりさかのぼる可能性があるが、羅針盤が視界の悪い北欧の海で開発されたというのはありそうなことにも思える。
 正確な時間を計れる時計はまだ無い。航海に使われたのは砂時計で、これを当直が30分おきにひっくり返すというものだったので、当然正確な時間は計れない。また、この砂時計は使っているうちに中の砂がガラスをけずって、落ちる時間がだんだん早くなるような代物だった。緯度は星の角度を測ることで容易に知れるが、経度については正確な時間がわからなければ知る方法はほとんどない。月食を利用する方法が知られているが、この方法では航海中に任意の位置と時間に計ることは無理なことはいうまでもない。このため、東西方向の距離については長いあいだ正確な値が測定できなかった。コロンブスの計画も極端に短い値を前提としての航海だった。実際の中国は彼が思っていたより実に3倍以上遠くにあった。途中にアメリカ大陸がなければ行方不明になっていたことだろう。
 最後に、地図の変化があげられる。当初、単純な文書で航程を解説した水路誌が使われた。これがポルトラーノと呼ばれる地図に変わっていく。最後にプトレマイオス図が一般化し、緯度経度が書き込まれた。しかし、これはガマのインド航路への航海の後であり、ポルトガルのアフリカ南下にはまだポルトラーノが使われている。
 地図については後に詳しく触れるとして、帆船の誕生を見てみよう。ガレー船は地中海で主流だった船である。たくさんの櫂がついており、基本的には多数のこぎ手が必要となる。後にはガレオン船と呼ばれる大型のものも出た。人力を利用するため風がなくても動けるが、櫂をとりつける必要から甲板が低く、外洋では安定性に欠ける。これと小型の帆船が地中海の主要な船であった。
 意外に思われるかも知れないが、ブローデルに従えば地中海はインド洋や東南アジアのような地域に比べて、あるいは北欧に比べて航海術が発達する好条件に恵まれているとは言えない。地中海は地質学的に大変古いため北海と比べて漁業資源が不足しがちである。したがって、漁師の絶対量も人口から比べれば僅かであり、優秀な船員の潜在人口は北欧に遠くおよばなかった(ブローデル1991 226)。
 優秀だと評判のイタリア船員はトルコやイベリアの国々に高級で雇われた。したがってヴェネツィアはガレー船のために囚人や奴隷を動員せざるを得なかった。こうした状況で、地中海内部における海洋技術の発展はやや頭打ちであった。デュ・ジュルダンによれば、これを打開したのが、北大西洋文化の侵入である。
 ヴァイキングたちは散発的に地中海への侵入を繰り返した。9Cにははロシアの河川を利用してコンスタンティノープルに侵入し、その勢いに感心したビザンツ皇帝により衛兵に採用されている。また11Cにはシチリアに侵入、シチリア王国が築かれた。12Cには北欧からも十字軍に参加者がいた。しかし、ヴァイキングたちはコミュニケーションを重視したとは言えず、頻繁に彼らの来襲を受ける地域の村々は海岸線から距離を置くのが常であった。したがって、本格的に交流が始まるのは13C、ヴァイキングの勢力が衰え、かわりにハンザ同盟の諸都市が制海権を握り始めてからである。また、同時期ポルトガルのレコンキスタが終了し、大西洋と地中海の間を行き来する船に寄港地を与えたことも大きく影響している。(ジュルダン1996 54-55,99-)。
 とはいえ、ヨーロッパの造船技術にたいして果たしたヴァイキングの貢献は無視できない。一般的なヴァイキングの船は細長く、帆と櫂の両方を備えている。櫂を突き出す穴は帆走の時や波が高いときは塞げるようなふたがついている(あまり役には立たなかったかも知れないが)。マストには横静索(shroud マストの上から両舷側にはった支索)があり、これを動かすことにより横からの風も三角帆と同様に受けることができた。これらの船は極めて高速であったが、積載量で地中海の大型船に劣った。よろいばりと呼ばれる技術がある。これは、板と板を少しづつ重ねてはるもので、これにより北大西洋の荒海に耐えうる船が可能となった。(ルイス1981 56-57)。
 実際、ヴァイキングたちの航海はアメリカ大陸にまでおよんでいる。厳密にいうならば初めてアメリカにわたったヨーロッパ人はコロンブスではなくヴァイキングのレイフ・エリクソンである。詳細は伝説の彼方だが、少なくともカナダのニューファンドランド、もしかするとニューイングランドの付近まで航行していた可能性がある。
 サガによれば、赤毛のエリックと呼ばれる男が罪を犯し、追放になった。彼は西方に向かい、グリーンランドにたどりつき、さらにそこから西方を目指した。そして、カナダのバフィン島にたどりついた(コロンブスも大陸そのものは見なかったので、これをもってヨーロッパ人初のアメリカ到達ということもできる)。後に国に帰ったエリックは移民団を組織して35隻の船に1000人を載せ、グリーンランドに移住した。グリーンランドとはエリックが移民を引き寄せるために付けた名で、実際は不毛の地で、木材もなかった。
 ある男が自分の航海から帰ってみると父親がエリックの移民団としてグリーンランドにわたったことを知らされた。そこで自分も後を追ったが、南に流され、密林を持つ土地に流れ着いた。その後グリーンランドにたどりついた彼の話を聞いたレイフ・エリクソンという男は、遠く故郷のノルウェーから木材を運ぶよりは近かろうと考え、西南に向かった。最初に到達した地はやはり不毛の荒野だったため、そこをヘルランド(岩の地)と名付け、さらに南下した。次にたどりついたのが目指す森林地帯だったのでここをマルクトランド(森の地)と名付けた。これをさらに南下すると野生のブドウの実る豊かな土地にたどりついた。これをヴィンランド(ブドウの地)と名付けた。
 一説にはこれらはそれぞれヘルランド=ラブラドル、マルクトランド=ニューファンドランド、ヴィンランド=ニューイングランドだという。また、ニューファンドランドでは1000年前後のものと思われるヴァイキングの居住地の後が見つかっている(茂在 65-69)。
 ヴァイキングの勢力が衰え、北欧の海上貿易が盛んになると、コグ(cogue,kogge)と呼ばれるより積載量の大きな船が登場した。コグでは積載量の他、舵にも改良が加えられた。また、斜檣(sprit 斜めのマスト)も採用された。
 これがヴェネツィアなどと交易を開始し、地中海に北欧の技術が伝えられた。そのころ、戦争に突入した英仏の王は自国の海軍戦力が決定的に弱体であることに気がついた。そこで彼らはイタリアの諸国に戦艦を発注した。大西洋の荒海でも航行可能な戦艦を開発するためにイタリアに北欧の造船技術が採用された。また、イタリアと北ヨーロッパの間に商業航路が確立し、ジェノヴァを初めとしてイタリア諸都市のガレー船が大西洋に出る必要が生まれたこともこの融合を促進した。また、ガレー船では不十分だと感じたイタリア諸都市は14C半ばからコグを導入、建造する技術を身につけた。コグは地中海でしだいに大型化していった(ジュルダン1996 100-101)。
 海上交通の増大は沿岸地理の精密な観察を伴った。1275年には最初のポルトラーノ(Portolan chart)、ピサ図が姿を現す。これはすでに極めて精度の高い地図であった。しかし、当初は北大西洋と地中海の文化は奇妙な仕方で混合した。第一に、初期のポルトラーノは東西軸が実際とはずれている。これはプトレマイオスがロドスとアルゴスを同緯度においた誤りに起因するものと思われ、ポルトラーノがプトレマイオスから何からの影響を受けていることは確実と思われる。また、ポルトラーノの作者たちは違う地域には違う尺度を適用した。大西洋岸と地中海では縮尺が違うのである。原因は不明だが、北大西洋の人々がもたらした情報をそのまま利用したのかも知れない。あるいは、地中海についてはローマ時代の計測を利用して、大西洋岸については測りなおしたものもしれない。この違いを考慮に入れるならば、大西洋岸も地中海も極めて正確である(フライエスレーベン1983 16)。
 一方対照的に三角帆は南からやってきた。エジプト時代三角帆は早くから姿を消す。中世の最も古い記録は886年ごろのギリシャの写本で一本マストの三角帆が登場する。その後十字軍のころにはほぼすべての船が1本から3本の三角帆を装備するようになる(ルイス1981 55-56)。おそらくインド洋の技術が導入されたものであろう。こうした三角帆の船をカラベル船と呼ばれた。しかし、船が大型化するにつれ、三角帆は十分に実用的でないことがわかってきた。タッキングを行うときはいちいち帆をマストの上まで引きずりあげ、またおろさなければいけない。南太平洋では180度回転させる形式がとられていたこと思い出していただきたい。しかし、それは巨大な船には採用できない解決法である。それに、三角帆は十分効率的に風を受けるとはいいがたい。これの解決にはマストを中心に回転可能な横帆を開発することで解決を見た。メラネシアの一部で使われているのと同じ方法である。効率を増すため3本のうち、後部の1本は三角帆が採用された。
 こうして、驚くべき技術の総合によって大航海時代が準備された。北大西洋の造船と外洋の知識(主に舵やメイン・マスト。それにコグの角張った船首はヴァイキングふうの丸い船首に改良された)。地中海の作図の技術やひらばり。インド洋の三角帆。また、船の巨大化に際しても帆は扱いやすいサイズを維持するためにいくつにも分割された。このとき、ローマふうのアーテモン(artemon)がスプリットスルー(spritsail 船の前部の斜檣についた帆。おもに風を捕らえる舵として使われる)としてよみがえった。これらが総合されてついに全装帆船が出現したのである(ルイス1981 55-56)。
 ただし、巨船といってもヨーロッパの巨船であることは注意しなければならない。おそらく80トンから120トン程の船であった。これは15Cの鄭和の艦隊が8000トン級の船を擁していたことを考えるといかにも小さく感じる(長澤1989 158-159)。
 ともあれ、ヴィクトル・ユーゴーが史上もっとも美しいと称賛した全装帆船が完成したのである。
 では、それでヨーロッパが大航海時代にいたった十分な説明になっているだろうか。地の果てに数々の技術が流れ込み、総合され、そして準備が整った。しかし、鄭和の明は1405年にはすでに8000トンの船を60隻以上用意してインド洋を行き来していた。なぜ、世界を征服し、世界システムの基礎を創るのは明でなくヨーロッパなのだろうか。こう考えれば、我々は一件純粋に技術的な問題であるかのような事件でも、我々は十分に慎重になる必要がある。  少なくとも技術革新が実用に供されるためには、何らかの社会的合意がいることは明らかであろう。ヨーロッパは海外に出てそこを手中に収める「技術があった」だけでなく「意志があった」ということに注目する必要があるのだ。ではこのアジェンダ・セッテイングはどのように形成されるのだろうか。それにはまず彼らの世界認識を考える必要があり、また、領土という問題を考える必要がある。
 鄭和はインド洋が服属、朝貢すべきだとは考えても「明の領土になるべきだ」とは考えなかった。エリックは新しい土地が無人であるから住み着いた。誰かがいたら略奪して帰るだけである。ポルトガル人とスペイン人は新しい(ただし自分たちにとって)土地を領土にしようと考えた。彼らは今後見つかる土地を両国で二分することを法王に願い出、これを許可されている。神のお墨付きで侵略を行ったのである。前の二者と後の二者は明らかに違う。それは領土に依存する国家があるかないかの違いである。しかし、この事は後に見るとして、ヨーロッパが外に目を向けた理由を考えよう。
 根底には香料貿易の利権の問題がある。しかし、より重要なのはヨーロッパ人が長い間抱いてきた東方への憧れである。この事は彼らの世界観からも明らかであり、特にコロンブスの航海に強い影響を及ぼしている。この事を地図の歴史を手がかりに見ていこう。
 中世からコロンブスにいたるまでのヨーロッパには少なくとも四つの系統の地図が存在した。
 まず第一にローマ系の地図である。これには現存するものがないが、11Cか12Cにアウグスブルグで作られたポイティンガー図(Peutinger)が3Cごろのローマの地図の模写であると言われている。ポイティンガー図は長さが7m、幅が30センチで、巻いて細長いケースに収められるように出来ている。これは同図が携行用の道路地図として設計され散るためである。地図にはブリタニアからインドまでの、ローマ人にとって既知であった世界が描かれている。主要な道路は直線で描かれており、縮尺や方位は全く正確さを書くものの、地点間の正確な距離は書き込まれており、旅行のさいには十分実用的だったと思われる。ポイティンガー図はおそらく、聖地エルサレムへの巡礼用に書かれたものだろう。
 最古のものとして知られるエルサレムへのガイドブックは紀元330年頃のものであるが、これには地図はついていなかった。しかし、13C以降、ポイティンガー図のような形式を持ついわばガイドブックとしての地図が、聖地エルサレムへの巡礼のためにいくつも作られるようになった。
 さて、こうした地図の原型として知られるのがもはや現存しないアグリッパの地図である。ローマの初代皇帝アウグストゥスは女婿のマルクス・アグリッパに命じてローマ全土の地図を作らせた。アグリッパの測量士達は20年の歳月を費やしてこれを完成させた。地図は大理石に彫られ、ローマ帝国の広さを人々に伝えるためにローマの広場に設置されたという。
 このさいアグリッパが利用したのが、里程標(Milestone)を設置するという手である。したっがて、この地図はローマを中心に帝国の全土に張り巡らされたローマ街道の距離を正確に表記したものである一方、ポイティンガー図と同様に縮尺や方位についてはあまり正確さが要求されないものとなったことだろう。
 しかし、我々が現代でも旅行の時に使う地図を思い起こして貰えば判るとおり、道と目的地を強調した地図のほうが、世界の単なる模写よりもしばしば実用的である。実用性よりも純粋な客観性をより重視した地図を目指したのはギリシャ人である。
 我々は二番目に2Cの前半に開発されたプトレマイオスの地図を見る。
 大航海時代を呼ぶ原因の一つとして、間違いなくあげられるのは15Cにおけるプトレマイオスの復権である。1406年、ヤコブス・アンゲルスがプトレマイオスのラテン語訳を発表する。その後1482年にはニコラウス・クザーヌスがプトレマイオスの頃にはよく知られていなかった北欧だけを新しい知識に基づいて修正した「新図」と呼ばれる地図を発表した。こうした新図は次々と発刊され、1490年に出されたマルテルスの新図では、1488年の希望峰への到達をうけて、アフリカを大陸としている。
 しかし、その意味を考えるにはまずエラトステネスの業績に注目しなければならない。エラトステネスは地球の大きさを知られている限り最初に計測した人である。彼はエジプトとシエネの同日正午における太陽の影の角度を測った。両都市は(ほぼ)同じ子午線上にあり、両都市間の距離はわかっている。この三つの情報があれば地球の大きさは測ることができる。エラトステネスは地球一周がおよそ46,000kmであると計算した(実際は40,000km)。いささか大きすぎるがこれは当時とすれば誤差の範囲であろう。いずれにせよ一周して確かめるものはいない(ウィルフォード1981 41-44)。
 さて、地球の大きさはわかった。そして、既知の地中海世界は地球の大きさから比べればいかにも狭い。だとすれば、次に着手しなくてはいけないのは地球上の空白をうめることである。プトレマイオスの仕事は革新性、独創性をもって評価すべきものではなく、エラトステネスらに始まるギリシャの地理学の整理を目的として書かれたものだった(織田1973 37)。  とこが、地球は球形であり、地図は通常平面に描かれる。十分狭い地域を描く上では球面上も平面として扱うことは可能だが、プトレマイオスがしようとしたことはかなり巨大な地域を描くことである。そこで彼は緯度経度の概念を導入した。そして、全ての土地に経度と緯度からなる番号をふるのである。そして、それを一定の変換式にしたがって平面上に写していけばいい。方向、面積、形の全てを正しくすることは決してできないが、見るほうも投影の方法を知っていればおおむね正確に球形に再現できる。中世におけるプトレマイオス図の再現図は地球の丸さを表現するため緯線経線が柔らかい直線を描いている。おそらく原図もこうしたものだったのだろう。この場合、面積も方角も距離も程々に正確であり、程々に不正確である。これで緯線と経線を直行させればメルカトル図法になる。そのあいだに理論的な飛躍も革新も必要ない。あとは純粋に技術的な問題である。
 ただし、大航海時代のプトレマイオス図は、プトレマイオスのプトレマイオス図とはまったく違うコンテクストの中で理解されなければいけない。プトレマイオスは地理学と地誌学の区別を行っている。
 「地誌学がめざす目標は部分的なアプローチであって、ちょうど、耳だけとか目だけを模写するようなものである。対して、地理学の目標は全体的な観察であって、頭部全体を描くのにたとえられる。」
 そして、プトレマイオス図に表されているのはこの全体的な観察である。この時の発想はむしろ後に触れるマッパ・ムンディのように世界全体を示すことであり、プトレマイオスにとってはローマ図的な実用性は二次的である。
 一方、中世においてプトレマイオスの体系は適度に抽象的で適度に実用的だった。地球上に巨大な、書き込まれるべき空白を残していた。そのことは探検、征服すべき土地がそこにあるという世界観の基になったし、探検した土地を書き込んでいけるという実用性もあった。また、プトレマイオスはアリスタルコスを退け、地球が宇宙の中心にあるとした。このことも天体を利用した位置決定という観点からは都合がよい。航海者にとって必要なのは厳密な天文学ではなくて、地球から見たら星がどう動くかということである。現実にはアリスタルコスが正しかったにせよ、イメージするにはプトレマイオスがよかったのである。我々はいまでも「太陽が昇る」というし星を観察するときは天蓋に模した製図板を使う。
 ローマ文化の系譜に連なるポイティンガー図とギリシャ文化の系譜に連なる一連のプトレマイオス図の違いは重要である。前者は自分の世界を歩測という手段によって精緻に記述している。巨大な帝国の運営という実用的な目的にそった合理的な地図であるということができる。一方、ギリシャ人は世界の枠組み自体を一気に規定してしまう。そのかわり、自分が見ることのできる極めて狭い範囲と、可能性として広がった巨大な世界の間は空白として残される。ローマ人から見れば海の彼方にいくつの大陸があるかという議論や、未知の土地(terra incognita)を地図に書き加えることにいかなる意味があるのか。キケロによれば「学問とは誰もが知り得ないものか、あるいは誰も知る必要のないことを研究すること」なのだ。
 先に触れたバナールの古代史観という観点からすれば正確にはプトレマイオスやエラトステネスをギリシャ人というのは正しい表現ではないかも知れない。彼らは正しくはギリシャ人王朝期のギリシャ系エジプト人である。したがって、ローマ対ギリシャという対立項も正確にはそれぞれの文化の特性の問題というよりも便宜的な比較の問題と思っていただきたい。
 ローマ人が机上の空論的な学問を軽蔑していたのはおよそ間違いがない。しかし、ギリシャとは何を指すのか。ここには議論の必要がある。
 さて、16C以降にプトレマイオス図が採用されるまで、長い間地中海での航海にはポルトラーノと呼ばれる独特の地図が使われていた。ポルトラーノとは、地図上の一点から32方向に線の伸びる航程線(rhumb line)により作られる方位盤(compass rose)が描かれた地図を指す。この32の線のうち東西南北を含む16の線上の中心点から等距離のところにさらに新しい中心点を取り、ここからまた32の航程線をのばすことにより、地図上をこの方位盤でうめることができる。こうして普通は合計17の中心点が地図上に存在することになる。通常こうした中心点には羅針盤をモチーフにした装飾的な方位盤が描かれる(夛田1996 1-3)。これらはポルトラーノと呼ばれた水路誌に付随していたため、地図自体もポルトラーノと呼ばれることになった。
 水路誌には各地点間の距離や注意事項が記されている。初めは文章記述だけであったが、だんだんと視覚情報(地図、イラスト)が付随するようになっていった。ポルトラーノはこの頂点であると言える。のちにはポルトラーノのみのものも現れる。
 最も古いポルトラーノとして知られるのはピサ図(Carte Pisane)で、ジェノヴァの地図制作師によって13C後半につくられた。この地図には、それまでつくられていた通常の海図書に載せられている地図とは一線を隠す技術進歩が見られるが、こうした技術が一夜にして開発されることは考えづらく、何らかの先行する地図があるものと思われるが、今のところ見つかっていない。しかし、この地図が13Cに改良され、カステリアの王アルフォンソ(学者王 在位1254-84)の名を冠したアルフォンソ天体計算表の利用に基づいていることは確実と言えよう。また、このころ携行用の磁針(正確には磁針をいれるケース)の普及がみられるが、この事もポルトラーノ誕生の一因と言えよう。
 ピサ図には詳細な地中海の沿岸が記入されている。また、それよりは貧弱ながら大西洋岸についても記載が見られる。また、航海での利用という観点からすれ場より実用的だったろうが、地図は中世の伝統を破って、エルサレムの東でなく北極星の北を上に描かれている。
 ポルトラーノ図は14Cから16Cにかけて、地中海地方で大量に作られることになる。こうした地図は主に航海のために実用的に作られている。したがって、海岸線は「現代の地図と比べてもそれほど遜色が無」く、海岸沿いの都市は詳しく書き込まれている。一般には大都市や主要港を赤で、その他の地名を黒いインクで書き込むなどの工夫も見られた。また、水深の記載こそ無いが、岩礁や浅瀬などは記号化して書き込まれている。一方、航海用という特性から内陸の情報はさほど詳しくないものが多い。
 内陸に関しては、一切無視している形式のものと、地図上に生じる空白部分に装飾的な図を挿入したものとがある。この2タイプはそれが主に作製された地域と関連づけて、前者はイタリア型、後者はカタロニア型(Catalan map)と呼ばれる。ただし、制作者同士の情報交換はあったものと思われ、14Cの後半には両者の折衷様式が見られるようになる。
 夛田祐子は京都大学文学部博物館所蔵の15C中頃のものと思われるポルトラーノについてレポートしているが、それによれば地中海のリビア付近を除くアフリカ北岸やアジアについてもヨーロッパ側に劣らず詳細な地名の記載がある。このことから、この時代かなり活発に地中海内の船の行き来があったことが推測される。(夛田1996 9-10)

 中世の水路誌とそれに要するポルトラーノ海図を考察すればそれによって地中海の一地点から他の地点への航海や北西スペインのある場所からアイルランドないしフランスへ海を横切っていく計画をつくるのは容易であったことがわかる。数多くある羅針盤の一つから道筋の方向は容易に示されるし、その距離は各海図についている尺度から推定できた。さもなくば水路誌の本文中の主要地間距離によって知ることができた。それにかかる所要時間は船がどのくらいの速さで進むかを知れば決定できたし、途中何処にいるかも算出可能であった。
 この航法は驚くまいことか現在の航法と同じなのである(フライエスレーベン1983 65)。

 これを先に紹介した南太平洋のエタック航法と比較してみれば、空間を視認するオペレーションの抽象度が高いことが指摘できる。エタックでは、標識のない海上である空間のなかに自分を位置づける作業を出発点と目的地と第三の地点を想定することで行っていた。ところがポルトラーノでは抽象度の高い「位置」「距離」「速度」という3要素で記述される。これによって航海者にとって未知の海域でも、あたかも既知の海域にいるかのように進路を決定することができた。
 地図上の羅針盤を拡張していくか数をふやしていけば理論的には世界の全ての海域を覆うことができる。ただし、その場合地球が球であるという事実が障害になる。球形の表面を覆うためにはプトレマイオス的な緯度経度による区分が必要となる。
 先にも触れた通り、問題は高緯度になればなるほど緯度幅に対して軽度幅を狭くしなければならないことにある。しかし、地中海は南北の差が小さく、東西に延びる形で広がっていたので、こうした差を反映しなくても目的地を見失うほどの誤差にはならなかった。
 ポルトラーノの採用は大航海時代への着実な歩みであろう。実際、ポルトガルのアフリカ南下に際しても、使われたのはポルトラーノであったと推測されている。ただし、こうした空間認識の抽象化はそれのみでは機能しないことに注目する必要がある。
 第4に、マッパ・ムンディ(Mappaemundi)と呼ばれる一群の地図があった。
 どの程度広範囲を認識しているかは人によって、あるいは文化によって大きく異なっている。ミンダナオのタサダイ族はすんでいるところから60kmもいくと海があるのに、彼らの言語に海という語彙はない。一方、シベリアのチュクチ族は1900頃のロシア海軍省がつくった地図に匹敵する地図を持っていたという(若林1995 64-65)。この比較で行けば、中世のヨーロッパ人は世界に並々ならぬ関心を持っていたが、現実の地理としては知らなかったということになろう。彼らの教典は多くの民族がそうであるのと異なり、生活の場とまったく関係ない彼方の土地で行われる出来事について書かれていた。このため、エルサレムを視野に入れた世界を「代補」する必要があったと言えよう。
 マッパ・ムンディの起源は6Cのコスマスの世界図に求められる。コスマスは世界が球形であることを否定した。
 次に現れるのはTO図である。大地は円盤状であり、楽園がある東を上にして書かれる。上下を二分する形で線が入っている。これより上が楽園のあるアジアである。下半分の半円はさらに半分に別れ、右(つまり北)がヨーロッパ、左がアフリカである。したがって、Oの字の中にTの字がはまっているように見えるのでTO図と呼ばれる。地図の中心は聖地エルサレムである。これはその後現れる全てマッパ・ムンディの原型的存在である(織田1973 48-)。
 当初、厳密に宗教的世界観を反映していたマッパ・ムンディもそれ以外の知識を取り込むことによりだんだんと変化する。TO図(T-O map)の右の半球をさらに東西の線で二つに分け、対蹠人のすむ第4の大陸を書き加えるケースなどが現れる。また、ギリシャ人は地球を赤道、南北回帰線のような東西に走る線をもって区分する方法を知っていたが、これを反映した帯域(クリマータ)地図も存在する。こうした地図では地球は丸いものと考えられている。
 想像力で拡張された地域はさらに伝聞世界と神話世界に分けることができる。神話世界とは聖書などの伝説にある事象を、おもに道徳や教化の目的で地図に盛り込んだものである。具体的にはエデンやゴグとマゴグのような聖書上の都市などである。
 伝聞世界とは、実際に確認されたわけではないものの、あるとされるもののことである。例としてはユニコーンや狗頭人があげられよう。マルコ・ポーロが「実際に見たものは見た、人から聞いたことは聞いたと明言する」と述べていることからもわかるとおり、当時の慣習はこうした伝聞による情報も情報として認めていた。伝聞世界と神話世界の区別はそんなにはっきりしたものではないが、伝聞世界のほうが修正される可能性は高い。マルコ・ポーロはサイを見たものか、ユニコーンは伝説にいうほどきれいな生き物ではないと強調している。これも伝聞世界の情報修正の一部と言えよう。
 マッパ・ムンディはこうした神話的な逸話も加えられて、だんだんと美しく精密につくられるようになってきた。
 その頂点と言えるのが1290年頃のヘレフォード図(Hereford map)である。
 ヘレフォード図は東を上にして書かれた典型的なマッパ・ムンディである。図中には中世的な意匠が埋め込まれ、地図の上に最後の審判、左下に皇帝と測量官、右下に狩猟をする人が配置され、教会、国家、俗人という中世的な世界観で描かれていることは明らかである(久武1989 13)。
 しかし、実はこの皇帝はアウグスティヌスなのである。ローマ地図はアウグスティヌスがつくらせた。そして、ヘレフォード図の飾り枠には「世界の測量はユリウス・カエサルに始まる。東を測量したのはヒコドクサス。北と西がテオドクサス。南がポリクリトゥスである」とある(ウィルフォード1981 77)。おそらく作者はカエサルとアウグストゥスを混同したのだろう。しかし、この地図が何らかの形でローマ地図の系譜に連なることは確実である。地名の多くもローマ時代のものであり、イギリスからイタリアをつなぐ羊毛交易路、小アジアへの巡礼路などが書き込まれており、ローマのロードマップの伝統を感じさせる。また、これについては十分な研究があるとはいえず、理由は定かではないもののヘレフォード図がエルサレムを中心とする斜正射図法で描かれているという研究もある(久武1989 13)。あるいはローマ的な発想の地図で、中世の地図の原図になるものが何らかの方位図法として完成を見ていたのかも知れない。いずれにせよ、この時代に我々が思っているよりも強くローマの地理学の影響が残っていたことは確かなように思われる。
 また、だんだん装飾用にも使われるようになったポルトラーノと区別しづらいほど地中海部分については精密なものも現れた。1385年にカタロニアでつくられたカタロニア図(Catalan Map)はポルトラーノを基礎にしているが、新しい世界観を示すためのものなのでウィンド・ローズは消えている(織田1973 70)。
 1459年のフラ・マウロ図(Fra Mauro)は東洋部分がより詳しくなっている。これはアラビアからの知見も取り入れたものだろう。その代償としてエルサレムが世界の中心から外れてしまっている。作者は「エルサレムは世界の中心であるが、経度ではやや西にある。しかし、世界の西の部分、すなわちヨーロッパは人口が多いので人間のいない空間でなく、人口の稠密さで考えればエルサレムは経度でも世界の中心にある」と述べている(織田1973 76)。それで当時の人々が納得したかどうかは定かではない。
 また、樺山はフラ・マウロ図が中世のマッパ・ムンディとプトレマイオス、それにポルトラーノの融合である点を指摘している(樺山1996 131)。これは誤りではないものの、これまで見てきたことからすれば、おそらくローマの影響を指摘しなければ不十分であろう。
 さて、フラ・マウロ図ではアラビアの知識を取り入れたことにより、アフリカが南の未知の大陸と陸続きでなく、独立した大陸として描かれるようになった。ついにポルトガルのアフリカ大陸南下の動機づけは完成した。アフリカがもし独立した大陸なら、その南をまわって東洋と交易すれば、アラブ人やヴェネツィア人を通さないで、つまり高い通行税を払わないで東洋の香料が手にはいるはずである。
 こうして、国家事業としてのアフリカ南下が始まった。
 ナン岬は伝説の岬である。ナンとは本来ワジ・ヌンと言うところに近かったため命名されたものだと言うが、ある航海者は「そこを通過したものは戻ってこないということがわかったため、ノン岬ー帰らざる岬ーと呼ばれた」と述べている(スケルトン1991 28)。この場合、ナンはneverの意味で、これを越えた船は燃え上がり、二度と戻ってこれないとされた。面白いことにこれはアラビア人が流した噂だとする説もある(茂在1967 73)。
 エンリケは部下のジル・エアンネスにナン岬を越えることを命じた。エアンネスは一度はこれに失敗して逃げ帰る。しかし、エンリケはナン岬を越えるまで戻ってはならないと厳命し、再度送り出す。エアンネスは2度目はこれに成功し、船が燃え上がることはないと確認した。長年の「迷信」が打破されたのである。
 エアンネスは一気にさらに遠いボヤドール岬を越えて帰還した。さらに1445年にはディニス・ディアスがセネガル川河口とヴェルデ岬を通過した。ここにいたり、ついにポルトガル人はサハラ砂漠の南端にいたり、最初の黒人王国を(彼らの言葉によれば)「発見」したわけである。その後1460年にエンリケが没した後も航海は続き、1488年にはディアスがアフリカの最南端に到達する(ディアスは希望峰が最南端だと思っているが、正確にはその東のアグレス岬である。ただし、ディアスはこの岬も訪れているのでヨーロッパ人としてアフリカ最南端に一番乗りしたというディアスの名誉は揺るがない)。
 これが、イタリアの大公達にはできなくて、ポルトガルやスペインの王にできることの違いを示している。つまりイタリア商人たちは技術は持っていたが独立性が強く自らの利益のために動いていたから、あるかないか判らないインド洋と大西洋をつなぐ航路など求める動機はない。好きなときに好きなところへ行って商売すればいいのである。また、自らの命を懸けなければいけない必然性はどこにもない。ところが、ポルトガルの「国益」を代表するエンリケはポルトガルの地政学的な位置に束縛されるから、既成の航路の形状さえねじ曲げてポルトガルに有利になるような方法を考えなければならない。また、より重要なことにこうした大事業を達成するために、エンリケは部下の命を懸けた忠誠を要求することができた。これは傭兵しか持たないトスカナやミラノの支配者にはできないことである。個人やその集団以上に、主体としての国家の意味が大きくなってきているのである。
 マキアベッリの屈指の名著「君主論」は1513年頃の著作とされる。この本の中で彼は、故国トスカナの大公にむけて国民軍の創設を初めとする幾つかの政策を提言している。これは我々の目から見れば「国民国家(nation state)」の創設のための政策である。そして、マキアベッリがこれを提言した理由は「国民国家」が敵国(直接的にはフランス。また本論の主旨ではスペイン、ポルトガル、イギリスも含めて)にあって自国にないものであり、自国が弱体である、あるいは時流に乗り遅れる原因であると認識していたからに他ならない。
 実際、ポルトガル、スペインがインド洋に乗り出したことに対するイタリア諸国の危機感は大きかったものと思われる。ヴェネツィアはガマの航海の後、ポルトガルに使節を送り滞在中だったインド使節にポルトガルとの通商を思いとどまるよう工作している(生田 148)。また、ポルトガルは航海の記録を公表しなかったが、イタリア諸国は何とかしてこれを手に入れようと画策したものと思われる。ポルトガルが所有していた地図等の記録はリスボンの地震のさいに全て消失し、現在残っている資料は僅かにイタリアがポルトガルの技師を買収して造らせたと思われる数葉だけである。ポルトガルがこうした徹底した秘密主義をとれたことも、国民国家の原型が立ち上がりつつあったと言える根拠である。
 例えば、コロンブスがアメリカ大陸に到達した1492年はこうした国民国家化の運動の一つの山場であった。この動きはとくにイベリア半島において顕著である。第一に我々はこの年をレコンキスタの完了の年として記憶している。イザベラ女王がイスラム勢力を駆逐してイベリア半島を統一したのである。同年1月2日、モーロ王国の首都グラナダは開城、アルハンブラ宮殿の最後の主ボアブディルは半島を追われた。こうしてイベリア半島はキリスト教世界として統一された。
 同時に多くのイスラム教徒とユダヤ教とが半島を追放されることになる。多くのイスラム教徒は北アフリカやオスマン・トルコを目指した。ユダヤ教徒も同様であったが、その一部は改宗してスペインに残り、別の一部は当時まだ迫害が厳しくなっかたイタリアやポルトガルに逃れることになる。改宗者はマラーノ(豚)という蔑称で呼ばれた。このマラーノにも、イタリアやポルトガルに逃れたユダヤ人達にも、いずれ厳しい異端審問の手が延びることになる。特に、スペインとの関係を重視したポルトガルは1496年には早くもユダヤ追放令を発する。
 中世、ユダヤ・コミュニティーとキリスト教コミュニティーは仲良くとはいわないまでも同居、共存していた。例えば、共同体内での利子のやりとりを禁じる両コミュニティーが経済活動を行うには、必然的に外部の存在が必要になる(岩井1992 18-)。こうした相互依存関係は強固なものであった。しかし、例えばアラゴンではこの時期、銀行ができ始めている。こういった社会構造そのものの変動も、両コミュニティーの距離を拡げた。
 実際、イザベラとフェルナンドの両王も、グラナダの大司祭に就任したタラベーラもイスラム教徒やユダヤ教徒に「特別な臣民」としての定住を許す意向であったといわれる。しかし、初代大審問官トルケマダはこれに反対、両王に異教徒の追放を迫った。かくて1492年3月31日、追放令が発せられるのである。レコンキスタの勝利により自信をつけたキリスト教世界は、ユダヤ教との共存をやめ、厳しい宗教的同質性を前呈する神聖国家への道を歩み始めたのだと言える。
 またこの年、アントニオ・デ・ネブリハと言う名前のユダヤ教徒がイザベラにカスティリア語の文法書を献上した。そしてそれを持って「国民」を教育し、女王の領内で使われる言語を規格化、一元化しようとしたのである。このときネブリハの意図は明瞭である。イヴァン・イリイチによれば「ネブリハは、印刷技術の自由で無政府主義的な発展を阻止する方法を明示した。そしてそれを、発展する国民国家の官僚的統制の道具へといかに変えるかを明確に示した。(イリイチ1990 106)」ことになる。
 マキアベッリは国家の強さを君主の徳に求めたが、ネブリハは規格化された国民に求めたのである。実際、ネブリハは「女王陛下、私の絶えざる望みは、我が国家が大きくなること、そして我が言葉を話す人々に、彼らの余暇にふさわしい書物を提供することでありました。目下のところ、彼らは小説や虚偽に満ちた空想物語に時間を浪費しています」と述べている。我々の目から見ればマキアベッリの理想はいかにも牧歌的なものにうつる。マキアベッリよりもネブリハのほうがいかにマキャベリストであることか。
 また、ネブリハに倣って、フェルナン・デ・オリヴェイラがポルトガル語の文法書の編纂を開始している(金七1996 120)。この時期、国家的な大事業としての遠洋航海の下地ができつつあったことがお解り頂けたであろう。
 では、コロンブスの航海もそのような背景を持つものだったのだろうか。じつは、この事件にはもう一つ重要な要素が介在している可能性がある。この人物は史上最もよく知られている人物の一人でありながら、個人的な出自や生い立ちのことはあまりよくわかっていない。自身の息子と彼を崇拝していたラス・カサスというと言う2人の伝記作家が存在しているにもかかわらずである。これは資料が少ないというよりも、コロンブス自身がしばしば秘密主義的、人によってはおおうそつきとまでいうほど自分の出自をぼかそうとしたためである。
 コロンブスがジェノヴァの出身であったことはほぼ間違いがない。そして、実はコロンブスもユダヤ人であったという説があるのだ。根拠は幾つかある。最も重要なのは彼がしばしばヘブライ語風に左から右にサインしたという事実である。しかもこれは息子に当てた、ごく私的な手紙の時にだけ使われている。また、遺産の残し方などにユダヤ的な習慣に則っていると思われるものが幾つかある。最後に、彼の残した蔵書の中には数多くユダヤ教関係の本が残されている(笈川1992 152-)。こうしたことから彼がユダヤとしてのアイディンティティーを残した改宗ユダヤ人であるか、少なくともユダヤ問題に深い関心を持っていたと推論されるのである。このことはコロンブスの航海を考えるうえで重要なポイントになる。
 つまり、これがもう一つの要素、かのユダヤ追放令とコロンブスの航海の関連の根拠なのである。
 くだんの1492年1月2日、コロンブスは陥落したばかりのグラナダを訪れる。イザベラから、西回りでインドに向かう航路開拓のための資金援助にかんする最終決定が下される約束になっていたからだ。実はコロンブスがこの申し出を行ったのはそれより1485年のことである。それより7年間、イザベラもイザベラからこの問題の諮問委員会の長に選ばれた先のタラベーラもコロンブスに好意的な態度をとり続けるが、グラナダ陥落まではその余裕がないとして結論を先延ばしにされ続ける。ただし、この間イザベラはかなりの額の支度金をコロンブスに与え続けている。
 そして、最終的な結論が下される1月2日。しかし諮問委員会は、タラベーラのコロンブスに対する好意にもかかわらず。西回りの可能性に否定的な見解を下す。先にも触れたとおり、コロンブスの見通しはあまりにも甘すぎた。我々の知識から見ればもちろん、同時代のいかなる常識からしても地球の大きさを過小に見積もっている。また、もしコロンブスがユダヤ人だったとすれば親ユダヤ派のタラベーラの好意やひいきは過激なトルケマダやクリュニー修道会の目を引く恐れがあったのかも知れない。
 さて、援助を断られ、失意のうちにグラナダを後にしたコロンブスに、思わぬ逆転劇が待っていた。女王の急使がコロンブスを呼び戻すため、追いついて来たのである。これは、アラゴン王国の経理官をしていた改宗ユダヤ人ルイス・デ・サンタンヘルと言う人物がイザベラを説得したためであった。伝説ではイザベラは自分の所有する宝石を売り払って金を工面したというが、実際はこの時サンタンヘルとジェノヴァの警察の経理担当者と言う人が金をかき集めてイザベラに提供したのだという。小岸によればジェノヴァのユダヤ系銀行や商人が動いたものだと推測される(小岸1996 96)。
 このようにコロンブスの周りにはユダヤ人、改宗ユダヤ人、親ユダヤ派の人々が何人も登場するのである。くわえて、コロンブスは航海に何人もの改宗ユダヤ人を同行させている。中でも特筆すべきは洗礼をうけたばかりの改宗ユダヤ人トレスである。トレスは通訳として船団に乗り込んだが、その彼が得意とする言語はなんとヘブライ語であったという。
 船団はコロンブスの主観ではあくまで中国へ向かっているのだ。当時、ヨーロッパに中国語を話せるものはいなかったろうが、中国でヘブライ語が話されてはいないぐらいの知識はあったはずである。では、トレスはなんのために乗り組んでいたのだろう。
 一説にはトレスは僅かながら当時の通商の公用語であったアラビア語ができたため、アラビア語通訳としてつれて行かれたのだという。しかし、つい先日まで、グラナダはアラブ人のものだったのだし、改宗してイベリアにのこったアラブ人も多かったことを考えれば、そういった役によりふさわしいアラビア語に堪能な人物を見つけることは可能であったはずだ。
 次の説はヘブライ語原初説である。旧約聖書によればバベルの塔以前、世界中の言葉は単一であった。しかし、バベルの塔を造った人類のおごりを罰するために、神は諸民族の言葉を換え、互いに意思の疎通ができなくした。さて、このバベルの塔はユーラシア大陸での話である。もし、この歴史をたどっていない未知の大陸があるとすれば、その住人は原初の言葉すなわちヘブライ語を今だしゃべっているはずである。あるいは、全ての言語はヘブライ語が乱れた結果なのだから、新しい言語を学ぶときヘブライ語から学ぶのが最も合理的である。こういった推論から、トレスが選ばれたのだとする説もある。
 しかし、先にも触れたとおり、コロンブスの主観ではあくまで目的地は中国である。未知の大陸の存在などハナから考慮されてはいない。とすれば、コロンブスはやはり「中国」でヘブライ語を使うつもりだったのだ、と言うのが笈川の結論である(笈川1996 176-)。
 しかし、これにはもう一つの事情の説明が必要だろう。当時、当方にキリスト教の王プレスター・ジョンと言う人物がいるという伝説があった。伝説によればイエスの兄弟である聖トマスが当方に赴き、布教したのが現代まで伝えられたものだと言う。そもそもの発端は1200年頃、イスラム勢力が敗走を続けているといううわさがヨーロッパにまで流れてきたことによる。ヨーロッパはこれはとある歴史家が伝聞として伝えるジョンの軍勢の仕業だと色めき立った。しかし、実際はこれはティンギス・ハーンのモンゴル帝国の仕業であることが程なく判明する。しかし、その後もマルコ・ポーロによる中国のキリスト教徒(ネストリウス派のことと思われる)の話等、この話題が消えることはなかった。そもそも当時のヨーロッパ人の感覚として、キリスト、イスラム、ユダヤの3宗教以外は目に入っていないと言う事情があった。このため、ガマの航海でも、イスラムと対立していたヒンドゥ教徒をかなり後になるまでキリスト教徒であると誤解している。
 とにかく、レコンキスタにかけていたヨーロッパ人はこの王と同盟してアラブ世界を挟撃することを常に夢見ていた。この議論はキリスト教国であるエチオピアが発見され、かつエチオピアにアラブと対抗するだけの国力がないことが明らかになると自然に収束していく。しかしそれはコロンブスの最初の航海の後の話である。
 さて、このユダヤ教判とも言えるのが1523年のダヴィド・レウベニの事件である。レウベニはどこからともなくヴェネツィアに現れた。彼の語るところによれば、アラブの軍に捕虜としてつかまっており、アレクサンドリアで同じユダヤ人に救われたものだという。そして、自分は東方のユダヤ王国の王弟であり、アラブ人とともに戦うためにヨーロッパの援助を仰ぎたいと言い出した。この話にヴェネツィアのユダヤ・コミュニティーは騒然となった。ここでユダヤ王国とヨーロッパの同盟がなれば、ユダヤ人はキリスト教徒に大きな貸しをつくることになる。ユダヤ人達の熱心な運動もあってレウベニは教皇やポルトガル王室にも招かれた。その後、調子に乗ったのか反ユダヤ色の強いスペインに入ったのが運のつきで、ここで激しい詰問に答えられずに処刑されてしまう。
 しかし、こうしたことからコロンブス当時にもユダヤ教徒の間にも強い東方熱が存在したことが推察される。これは直接には「セーフェル・ハマサオート」という本によっている。同書は1200年頃のユダヤ人ビニヤミンによるもので、彼がインドやセイロン島にまででかけ、表した旅行記である。特筆すべきは、彼がインド等各所に見つけたユダヤ教の王国の場所を記していることである。とくにコロンブス時代のユダヤ人が心ひかれたであろう記述は、現在のクルディスタン(トルコ)からロシア(アゼルバイジャン)にかけて、メシアを名乗って大反乱をおこしたというダヴィド・アルロイの事件でについてであったろう。
 トレスについての議論にもどれば、コロンブス、あるいは彼が代弁していた人々にとって、ついた大地が新大陸だろうが中国だろうが、実はどうでもいいことかも知れない。問題は、新しい居住地を見つけることである。そう考えればコロンブスがジパングまでの距離を極力短く見積もったことも説明が付くかも知れない。もちろんこれはコロンブスに対する過大評価である可能性も大きい。歴史が描くコロンブスは(信奉者のラス・カサスのそれはともかく)、無教養で、借金の踏み倒しや詐欺まがいのことを平気でやる男である。だからこそ彼はあまり自分のことを語りたがらなかったのかも知れない。距離を短く見積もっていることも、単に彼が山師であった以上のことを意味しないと見てもおかしくはない。
 しかし、先に挙げたような東方熱がコロンブスかあるいは彼を支援したユダヤ・コミュニティーか、誰のものであるかはさして重要なことではない。いずれにせよこの航海の企てにはヨーロッパ人のオリエントへの憧れがあり、それ以上にすむ土地を失ったユダヤ人達の新天地にかける思いがある。それはまったく科学的な推論などではないばかりか、当時の良識からみれば眉をひそめたくなるような夢物語であった可能性が高い。だからこそポルトガルはこの航海を却下したのである。しかし、それ以上に切実な要請があったという事実が重要なのである。
 さて、国家的なプロジェクトとしてアフリカ西岸の南進を続けたポルトガルは、コロンブスの成功の後の1498年、ついにインドに到着する。ポルトガルの南進の始まりであるアフリカ、セウタの攻略(1415年)から実に83年の歳月をかけた国家事業の完成であった。その道筋にはサハラ砂漠があり、アラブの支配する海域があった。そしてアフリカ西岸は常に南風が吹き荒れる難所である(ただし、ネコ王の時代のフェニキア人のように右回りで行けば比較的簡単に越せる)。諸要素を考えるならば、コロンブスの航海よりはるかに難事業である。
 さて、インド洋貿易に乗り出した新参者であるポルトガルにはインド洋の貿易の流儀という障害が立ちはだかった。また、ポルトガルが提示する商品のなかにはインドの諸王が興味をひかれるようなものはほとんどなかった。
 カレクト王の側近はガマの国王への贈り物を、一番貧しい商人でさえこれよりましな贈り物を持ってくると言って笑い、王にこのようなものを見せるわけには行かないと受け取りを拒否したという。王の商務員はイスラム教徒だったので、ポルトガルの進出に脅威を感じてこのように証言したということも考えられる。しかし、実際問題ガマの持っていった小麦や油やサンゴの細工物では、昼間貿易で潤うインドの諸王を感心させるのは難しかったろう。
 (インド側から見れば)商品になりそうなものをなにも持ってこなかったこと、ガマが慎重に慎重を期したこと、イスラム商人が円滑なコミュニケーションを妨害したことなどの複合的な要因が重なって、ガマは最終的には海賊目的で来航したと疑われたようである。
 しかし、ポルトガルは自慢の大砲でこういった問題の解決を図る。こうしたことはガマの後任として、ポルトガルの拠点を創るためインド洋に赴いたアルブケルケ、アルメイダらになるといっそう顕著になった。イスラム勢力はポルトガルの進出に脅威を感じ、何度か大規模な艦隊による攻勢をかけた。しかし、こうした試みはごく少数の例外を除いて、イスラム側の完敗に終わったと言える。ガレー船による体当たりや接岸という旧来の戦術は船足が速く小型のポルトガル船の前には無力であった。一方、巨大なガレー船は強力なポルトガルの砲門の格好の的になった。とくに大洋にあっては戦力の差は顕著に現れた。船体の低いガレー船は、そもそもうねりや高波を耐えることができず、外洋向きではないのである。トルコが防衛に成功したのはガレー船の体当たり戦術が相対的に有効な狭い紅海の中だけであった(チポラ1996 99-100)。
こうして1507年、アルブケルケがホラムズを征服してからだんだんとイギリス、フランスにとって変わられるまでの間、巨大な帝国の構築は着々と進むのである。これが現代の世界システムの直接の基礎になっていることは議論の余地がないであろう。世界はポルトガルを初めとするヨーロッパを中心とする地図の中に書き込まれていき、歴史の中心はインド洋からヨーロッパに移っていく。大砲とネブリハの創った女王の優秀な臣下達が世界に満ち溢れていく。もはや世界史はアレクサンドリアと広州の交流の歴史ではなく、ヨーロッパという「中心」の歴史である。
 ブローデルは世界システムが古代より世界中にあったと考え、ウォーラスティンは近代特有のシステムだと説いた。一つの地点が中心として居座るなどと云うのはポルトガル以降のことであるとすれば、我々の議論はウォーラスティンを支持しているように思われる。しかし、それを叙述するためにはまた別の議論が必要となる。
 一方、より中世的な東への憧れという発想から出発したコロンブスは、新大陸においてもより中世的であった。コロンブスは新大陸で神の象徴を探し求める。これは彼の生きていた16C的な世界観からすれば当然の行為だった。そして、結果として言葉もわからない相手のいっていることはすべて自分に都合よく解釈されるといった珍妙な事態を招く。
 こうしてアメリカ大陸とインド航路の二つの事業の明確な対立点が見えてくる。しかし、明らかにコロンブスは時代遅れになりつつある。こうした知は「過剰であると同時に絶対的に貧困」なのだ(フーコー1974 54)。象徴は象徴を呼び、決して限度がないという意味で過剰である。一方、それは世界全体が走破されなければ体系として意味を持たずそんなことはおよそ不可能であるという点で貧困なのである。新しい知識が姿を現しつつある。それはポルトガルに代表される国家の知だ。地表は象徴に満ちた世界ではなくなる。海上にカワハギやクジラを見ることは禁じられる。かわりに世界は緯度と経度という数字で表され、それにしたがわぬものは国家自慢の軍事力で粉砕される。しかし、それはいかなる意味を持つのだろう。


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