なんか、重大な誤解がある気がしてならない。 twitter.com/skasuga/status…
— sho kasugaさん (@skasuga) 9月 9, 2012 ]]>1,
デモ問題が盛んに議論されているが、たぶんこういうふうに問題が紛糾する原因の一つは、デモの機能とメタ機能が食い違っていると言うことがあるのかもしれない。
デモの機能は第一には「民意」の顕在化である。通常、人々の政治的意見は二つの極端な意見の間のどこかにプロットできる(ものとする)。
この場合は「原発は何が何でも全て再開・増設」対「全ての原発を即時廃炉」というものであり、その間に条件付き再開から条件付き廃炉まで色々な意見が分布しているわけである。
で、おそらく人々の意見は二つの極に張り付いて対立するのではなく、その中間に分布しており、大きく見ればその分布には二つの山(どちらかといえば再開派とどちらかといえば停止派)があることになるだろう。
また、政府の方針も、この二つの極の間のどこか、一般的には「二つの中間派」の頂点のどちらか、あるいはその間に存在していると想像ができる。
さて、極端な極から最初の多数派がいる点、二番目の多数派がいる点、そしてもう一つの極と連なる直線のそれぞれのポイントをそれぞれ A B C D とする。政府の立場はPとする。
例えば、現在PはCと概ね同じ位置にあるとする。この場合、CからA側の意見を持つすべての「市民」はデモに参加する動機を大なれ小なれ持っていることになる。
実際は、政府の立場が流動することによって一気にBに近づく可能性を考慮すれば、BとCの中間点よりBよりの立場の市民がデモに参加するであろう。
また、自分の政治的意見を達成しようという情熱(ここでは便宜的にいずれの政策が達成されたとしても私益はいっさい絡まないものとする)の大小によっても、デモに参加するかどうかは左右される。
従って、デモの参加者数は概ね A から P までに属する「市民」の総数とその問題にかける人々の熱意の関数ということになる(一般的には A に近いほど熱意はあがり、P に近づくほど下がることが予想されるだろう)。
さて、政府はデモに脅威(主として「次の選挙」に関する脅威)を感じたとすれば、政府は P をだんだんと B にむけてスライドさせていくことが予想され(スライドさせた先をP2とする)、また B にむけて方針を転換するほど、 P2 より D よりの意見をもつ市民はデモ参加の意欲を減退させるだろう。
結果として、政府の意見が十分に B に近寄ったところで A よりのデモは集束するはずである(ただし、C に近い意見をもつ人々がデモを起こすかもしれない)。
さて、デモの「機能」をこうしたものと考えれば、デモに「対案がない」という意見は的外れであろう。政策提言はデモに先行して行われ「市民」は立場を決めなければ行けないのであり、またここで決められた意見と政府の政策との相対的な位置がどうであるか以外はデモという空間においてはあまり意味がない(ここを問い始めるとデモという手段は成立しない)。
この観点では、デモの機能というのは政府が十分に民意を知ろうとしないときに民衆の側から強制的におこす輿論調査のようなものである。
いずれにしても、デモへの参加はデモの主張と、政府の政策と、自分の意見の三つの点の相対的な位置関係で決まり、それ以外はあまり関係がない、というのが健全な理解である。
そこで一点重要なのはデモへの参加者はデモの主催者と必ずしも政治的意見を同じくすると言うことではなく「相対的に見て現状の政策よりマシだ」という理解を持っていると言うことである。従って、もちろんデモの主催者がデモの参加者の政治的意見を変更できるわけでも代弁できるわけでもない。
2.
ところが、こうした「デモ」にはメタ機能があり、デモの頻度でその社会の民主制の成熟度が測れるとすればこのメタ機能のゆえである。
元来、デモでなにかが決まると言うことは、通常、政治を変えうる通常の手段は「市民」の代表たる議員を決める投票だけであり、間接民主制国家では規定されていない。
では、このデモとはいったいなんなのだろうか? それは元来、アノニマスな「多数」によって担われる運動である(V for Vendetta のラストシーンがこの事実を極めて衝撃的に可視化しており、ハッカー集団としての「アノニマス」が V for Vendetta のガイ・フォークス面をシンボルに選択したゆえんである)。
ここで重要なのはデモが通常の手段を麻痺させる、ということである。これは、国家の法遂行行為(あるいは神話的暴力)に対する意義申し立てとしての「神的暴力」である。あるいは、ネグリのいう「構成的権力」の発露であるというのが最も適切な説明であろう。
我々の民主制は「フランス大革命」に起源を持つ(と言うこと自体実は法維持的な「神話」に他ならないのであるが、であればこそ)のであれば、我々は特権化された構成的権力としてのデモを否定できない。
ゆえにこそデモは非暴力直接行動として「民主的な自由」の根源の一つを形成するのであり、神話的暴力としての「警官の列」と神的暴力としてのデモ隊という構図は、国家権力が民主的であるために確認されなければいけない西洋民主制のイコンである。
さて、この意味で「デモは人権によって保障され、また人権(の担保たる憲法を、憲法に先行して)を保障する権力の一部である」という両義性を持つことになる。
さて、こうしたメタ機能においては、我々はデモを一時的な要求(原発反対、消費税反対、米軍基地反対…)のためだけではなく、民主制をささえる哲学のための闘いの武器とすることになる。
(a)言論空間として、他者の人権を抑圧する団体がそこに入ってくると言うのは矛盾である(不寛容が自分たちに対する特権的な寛容を求めることを構成的権力が認めることはありえないのである)
(b)一時的な要求のためであればデモは国家権力と過度に対立する必要は無いが、デモが「民主制を支えるための手続き」であるためには国家権力が、デモが革命(神的暴力)に突如として変貌するかもしれない、という緊張感を感じなければならない。
この「メタ機能」を考えに入れるか「個別の要求に集中させろ」と思うかが、最近の議論のひとつの争点であるように思う。
ただし、前者はデモの主催者によって遵守される必要がある(この意味では(a)はまだ機能の階梯に属するのである)のに対して、(b)は主催者の意図に関わるものではない(っていうか、たぶん構成的権力の発動というのは、ある団体や個人の意図を超えることで発生するものであろう)。
なので、(a)に関しては主催者に求めていくことは大変重要だけど、(b)に関しては、主催者がどういう立場にたつかというのは、ある意味関係ない(そもそも主催者がどうこう言う権利を持つものでもない)、ということが言えるんじゃないだろうか、と思う次第。
]]>
…「万年助手」がらみのところはスライドだけ見ると当事者に大変失礼に見えるかも知れません。すいません。
あけましておめでとうございます。
年末も押し迫った12月28日に野々上愛との間に息子、環(めぐる)が誕生しま
した。
出生児の体重3142キログラムで、すこし肌が弱そうな点を除けば母子ともに健
康です。
別姓ももちろんですが、庶子相続や同性婚の問題も考慮に入れまして、戸籍制
度や現状の結婚制度には反対ということで、籍をいれずに育てていくことになり
ます。
子どもに負担をかけるというご意見もいただきましたが、それが負担にならな
いような社会を実現していくことも両親の仕事かと思っています。
未熟な父親ではございますが、本年もよろしくお願いします。
来たる9月に、地球温暖化問題をテーマにした下記の2つのワークショップが京都・大阪で開催されます。
これらのうち"World Wide Views in Osaka"は、阪大生を中心にした大学生・院生を参加対象として、現在、参加者の募集を行っています。
学生の皆さん、
詳しくは下記の案内とイベントのホームページをご覧のうえ、ぜひご応募ください。
また大学教員の皆さま、あるいはご父兄の皆様で、ぜひ参加させたいという学生さんがお近くにおりましたら、ぜひご案内頂ければ幸いです。
2009年12月に、コペンハーゲンにおいて「COP15(気候変動枠組条約締約国会議)」が開催されます。
今回、デンマーク技術委員会(Danish Board of Technology)の呼びかけにより、世界45の国と地域で、COP15の交渉に当たる政府関係者に対して世界の市民の声を届けるための世界市民会議(World Wide Views)が開催されることになりました。
この市民会議は、世界の市民が、【同じ情報資料に基づき、同じ問いについて、同じ手法を用いて】議論する試みで、9月26日(全世界同日)に世界の国と地域において一斉に開催されます。
日本では、大阪大学コミュニケーションデザイン・センターが中心となって、企画を進めています。
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World Wide Views in Japan
日本HP: http://wwv-japan.net/
デンマークHP: http://www.wwviews.org/
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このWWViewsの企画は、全国から100人市民をリクルーティング方式で集めるため、参加者の公募は行いません。
しかし今回、大阪大学の学生が主体となって、WWViewsと同様の会議を、大阪大学の学生を中心に関西地区の学生を対象として行うことになり、現在、準備中です。
日にちと場所、その詳細は下記の通りです。
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World Wide Views in Osaka
・日時:9月30日
・場所:大阪大学 豊中キャンパス イ講堂
http://wwv-osaka.net/
=====
地球温暖化という問題をひとつのテーマとして、異なる専門、または異なる大学の学生同士が、多面的な議論するまたとない機会かと思います。
よろしくお願いいたします。
●●●申込方法●●●●●●●●●●●●●
「wwv-osaka[ at ]cscd.osaka-u.ac.jp」宛に下記の情報をお送り下さい。(※ スパム防止のため、お手数ですが[ at ]を@にかえてお送り下さい。)
●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●
【問い合わせ先】
大阪大学 コミュニケーションデザイン・センター(八木)
ekou[ at ]cscd.osaka-u.ac.jp ([ at ]を@にかえてください)
TEL/06-6850-6645(直通)
TEL/06-6850-6632(事務部代表)
140字という制限のあるミニブログ、Twitter が日本でも人気を延ばしている。
140字という制限があるいっぽうで、ウェブ・ベースのサービスであるためメッセンジャーとちがって相手の時間を拘束せず、「ゆるく」つながれることがメリットである。
世界初のブログサービスの一つで、その後、Google に買収された Blogger の創業者らによって、2006年にサービスが開始されたが、昨年はアメリカ大統領選でオバマ氏らが利用したことでアメリカでも急速にユーザー数を増やした。
今年に入って、日本でも数人の国会議員が使い始めたことで、新しい動きを見せ始めた。
続きはまぐまぐのバックナンバーで
2007年から小中学生を対象に行われている「全国学力・学習状況調査」は、毎年、極めて大きな論争を呼び起こしている。 しかしながら、残念なことにこの国民的な注目は、主として学校ごとの成績を公開するかと言った、あまり本質的ではない問題に収斂する傾向があり、我が国に於ける教育がどうあるべきかといった根本的な議論はなおざりにされているように思われる。 筆者自身は、「全国一斉に、統一の問題で学力調査を行う」ことの意義には極めて懐疑的であるが、平成21年度全国学力・学習状況調査に関して言えば、その潜在的な制約の中で極めて大きな一歩を踏み出したと評価することが出来ると思っている。 今回のテストのもっとも大きな特徴は、試験内容が徐々にPISA型に舵を切っていく、という明確なメッセージが読み取れる点である。つづきはまぐまぐのウェブサイトで…。]]>
異分野の人々と話していると感じるのは、同じ言葉がまったく異なる意味や印象を持っていることが少なくないということであろう。こういう「カルチャー・ショック」は、もちろん、自分自身の見聞を広げるのに有効であり、双方向的なコミュニケーションの醍醐味であるといえよう。理工系と人文・社会系のコミュニケーションの現場でしばしば出会う、、私のように人文・社会科学の伝統に属しているものにとって一番の驚きは、「批判」という言葉の、理工系の人々の間でのイメージの悪さである。
ただし、これは理工系の人々のほうが日本社会で一般的な感覚に近いのかとも思う。
人文学にとっては、カントの主著が「三批判」(『純粋理性批判』『実践理性批判』『判断力批判』)であることからも分かるとおり、「批判」というのは(おそらく経験科学にとっての「実証」と同じぐらい重要な)学問的営為の根幹をなすものである。
]]> 1.リンゴでビタミンAは補給できない。
事実関係としてはまったくおっしゃるとおりです。
でも、ヴァンダナは「リンゴを食べればいい」とは言わないと思います。
ヴァンダナ・シヴァというひとは、非常に(表現が難しいのであるが)非常にサービス精神旺盛というか、山っ気があるところがあって、誰の前でしゃべっているかによってだいぶ言うことが違います。
インドの農村にいるときは「インド古来の農法の普遍的価値、家族経営農業の大切さ」みたいな話をするし、インドかぶれの左翼系(あるいはヒッピー系)欧米人の前では、やや神秘主義的なフェミニストとしての演説をする。そして、アカデミシャンの前では、いかにも物理学出身者らしい、統計学的な厳密さを好む。
そういう意味では、目の前にリンゴでもあったら「サービス精神」が発揮されないこともないかもしれないという気もしなくもないのですが、たぶん科学的事実を意識的に曲げるようなことはしないんじゃないかと思っています。
もちろん、氏個人は、植物全般にわたる知識は極めて豊富な人であると思います。
私の個人的な体験としても、ヒマラヤの環境保護官だったという父親から教え込まれたというシヴァ氏の植物に対する知識に感銘を受けたことは一度ではありません(インドにいるときはもちろん、日本の公園でも、この木は日本でも Camphor に使えるか、というようなたぐいのことをよく聞かれました。十分に答えられなくて申し訳ない思いをしたものです)。
これはたぶん、単純に島村奈津氏の聞き違いかなにかであろう、と思います(でも、聞き違いをした著者や編集者も気がつこうよ、食育教育は普通に義務教育で受けているはずなんだから…)。
では、シヴァがゴールデンライスについてどういう見解を持っているかというと、例えばNHKのインタビュー番組には次のように答えています。
アマランスなどの雑穀には確かに、βカロチンが含まれていることが多いので、これは栄養学的には問題ない見解といえるでしょう。
また、彼女の主著といえる『緑の革命とその暴力』においては、次のような記述が見られます(p.214)。
殺虫剤や除草剤が人間を殺さない場合でも、人間の生存手段を殺してしまう。こうした破壊のもっとも極端な例は、バツアという貴重な緑黄色野菜で、非常に栄養分が高く、ビタミンAが豊かで、小麦と一緒に栽培されている作物に見られる。しかし、集中的に化学肥料を使ったために、バツアは小麦と競争する植物となってしまったので、「雑草」と宣告され、枯葉剤や除草剤で根絶された。インドの子供たちは毎年ビタミンA不足で、四万人が視力を失っているが、ビタミンAが豊富でどこにでも生えている植物を除草剤で殺してしまったことが、この悲劇を招いている。
本来は、ビタミン補給源としての葉物野菜も混作されていたのだが、これを先進国の研究者と種苗会社は穀物の生産性を悪化させる「雑草」として排除することを企てたのであり(例えばシヴァはモンサントがこれらの植物を「日光を盗むもの」としか見ていないと非難しています)、その結果としてビタミンA不足が起こったのである、というのがヴァンダナ・シヴァが常々主張するところです。
2.はてなブックマークへのお返事
あとはてなブックマークにて「ヴァンダナ・シヴァもそうだけど、この人の記事も「まず農村ありき」だな」というコメントを頂いていますが、これはもちろん農村の問題が深刻だからです。
Gordon Conway も”The Doubly Green Revolution: Food for All in the Twenty-First Century ”(書名から推察されるとおり、GM推進派に分類される本である)の中で述べているとおり、食糧問題が真に深刻なのは常に農村においてです。
基本的に「食い詰めて農村から都市スラムへ」というのは一般的ですが、逆は用意ではありません。
結果として、世界の都市人口は「2005年には32億人となり、世界人口の49%が都市に住むようになっている」と、著しく農村人口とのバランスを欠く結果になってきています。
したがって、まず農村の生活を立て直すというのは合理的な選択である、と主張することはあまり荒唐無稽ではないと思います。
あと、環境負荷の低い農業を目指すことは、長期的には農村だけではなく、人類全体の利益にもつながると思います。
以下は、久馬 一剛『土とは何だろうか? 』から作成したものですが、エネルギーという観点から見れば、近代型の農業は必ずしも効率のいいものではないということが解ります。
我々は(特に気候変動問題を見据えるならば)農業に於ける効率という概念をもう少し再検討する必要があるように思います。
理論の飛躍については、書いてる当人には分かりにくいものなので、ご指摘いただければ幸いです。
ただ、ゴールデン・ライスの位置づけについては本質的にはあんまり重要ではなくて、「初期投資を下げてリスクを軽減する」「作物品種に関する知識、という貴重な財産を農民のもとに残す」というのがシヴァの基本戦略であるという点だけ、なんとなくご理解いただければ十分ではないかと思います。
あと、別の方のコメント、「うーんいまいち納得できんぞ。特に多種栽培の伝統農法使ってれば生物多様性が保たれてのあたりとか」に関しては当然だと思います。
私も、『緑の革命』の議論には大変納得していましたが、有機農法が代替案になるという議論については、2001年以降に何度かヴァンダナ・シヴァのものを含めた複数のインドNGOを訪れてみるまで、まったく納得してませんでしたから…。
まぁ、そのころに比べて、有機農法に関する資料もだいぶ出てきたので、関心があればぼちぼち読書していただくと言うことで、ブログはあくまで「きっかけ」ぐらいで理解していただければ幸いです。
3.仮に遺伝子組み換え作物を追放したところで、状況は何も変わらない
これに関しては、昨日アップしたヴァンダナ・シヴァの主張について あるいは「合理的な反科学」はあるか、という問題をご参照いただきたいと思います。
4.で、幻影随想: 「ビタミンAがなければ、リンゴを食べればいいじゃない」byヴァンダナ・シヴァ という記事の結論部分なんですが…
本気で一部の企業による種子の支配を許さないというのであれば、とるべき道は3つあります。一つ、完全な自給自足体制のコミュニティをつくり、外で何を栽培していようが無関係な閉じた経済圏を作り出すこと。
生活レベルを犠牲にすることにはなりますが、技術競争からは逃れることが可能です。二つ、品質やコストでは測れないプレミアを付加すること。もしくは、品質の一点突破を狙うこと。
前者は今現在スローフード運動や地産地消運動がやっていることです。
品質、コスト面で土俵に上がれない場合は決して主流にはなりえませんが、一定の支持を得ることは可能でしょう。
後者は、日本の果樹栽培の成功の理由です。コスト面で見た場合、日本の果物は高すぎて海外製品にかないませんが、品質を突き詰めることで、高級品として海外に輸出されるまでになっています。大量生産品とコストで勝負して勝てるわけが無いので、品質の一点突破を狙うのは、小規模農家の必然の戦略となります。三つ、モンサントのような多国籍アグリビジネスに対抗できるだけの研究開発能力を持つ、非営利の育種専門の機関・組織を設立もしくは援助し、大量栽培志向とは異なる方向性の作物の開発を行うこと。
その地域にあわせて特化し、なおかつ品質、コスト面で競争力を持つ品種を作り出すことができるならば、そもそもGMだ企業の支配だなどと騒ぐ必要も無いのです。そしてこういった行動を企業に求めるのは間違っています。このマーケットは相対的に小さいので彼らの投資の対象にはなりにくいですから。
日本を含めて先進国は必ず、国家の育種機関を持っており、こうした活動を行っています。それは農産物が戦略物資でもあるからです。反対のための反対でなく本気で企業による独占を阻止したいと言うのであれば、この選択肢が出てこないというのはありえないはずです。
たぶん、そういったことは、ある程度やってます。
とりあえず、シヴァのNGOであるナヴダーニャのサイトをご覧頂けば、多少のことは解ると思います(お世辞にもいいサイトとは言い難いと思いますが…)。
例えば、製品リスト[PDF]なども一応見ることが出来ます。
ただ、どこまでまじめにやってるかというのは若干、議論の余地があるかもしれません。
以下の写真はヴァンダナ・シヴァのNGOであるナヴダーニャがデリーのやや高級めスーパー(イタリア産のパスタなどがおいてある)に持っているコーナーですが、がらがらな感じです。
ちなみに店員に、あんまり商品がないね、と言ったら「オマエはヴァンダナ・シヴァの友だちか? もっと商品を持ってくるように言ってくれ。売り切れても補充が遅くて困ってるんだ」と怒られました。
要するに、先進国に出荷できるハイプレミアムな作物を、ということに関しては、多くのNGOがあまり強いインセンティヴを感じていないようで、まず彼らが自給できるだけのものを作れる体制が必要だというのが多くのNGOの共通合意になっています。
(ハチミツとか、サトウキビとか、そういったものは「売りたい」ようですが…)
あと、「競争力を持つ品種を作り出すことができるならば、そもそもGMだ企業の支配だなどと騒ぐ必要も無いのです」という文面を見る限り、筆者は「ヘゲモニー闘争を仕掛けるのは環境NGOの側で、モンサントに代表される企業は実直に製品を開発し、欲しいと思う消費者に届けるだけである」と思っているような気がします。
もちろん私はこうした見方には同意できません。
ヴァンダナ・シヴァがこの点に関して確証のない陰謀論的な議論を展開する面は否定できませんが、言って先進国の穀物メジャーや多国籍種苗会社が自分たちの商品を受け入れさせるために投入する「宣伝費」が巨額であるのは論を待ちません(個人的にはシヴァの主張する陰謀のいくつかについては、「十分あり得る話」だと思っていますが、ここではその点の支持は訴えないことにします)。
あと、「コスト面で競争力」はそもそも物理的に不可能ですし、彼らもそれは目指していません。
その事情に関する議論はもちろん重要ですので(余裕があれば)次回にでも…。
【オマケ】
※ちなみにこちらはニュー・デリー市民の散歩コースにして、各州の物産や芸能が集められた高級マーケットディリ・ハートにあるナヴダーニャの直営店です。
ブログのような主張はサイエンティストに一般的なもののように思われますが、背景には「我々は科学を知っている。一方で、彼らは非合理な野蛮人であり、行動や主張に合理性があるわけがない」という憶見があるように思われます。
本記事で、別にヴァンダナ・シヴァらの主張を支持するようになれと説得するつもりはありませんが、自分とは立場の異なる人々の主張にも、一定の合理性があるという前提で解釈してみようとすると、世界はだいぶ広がるんじゃないか、という主張はさせていただきたいと思っています。
もちろん、ヴァンダナ・シヴァを初めとした第三世界の有機農法普及活動家が主張しているのは「多収量品種を使った近代農法や遺伝子組換え作物より、有機農法のほうが安全だ」ということなわけですが、この「安全」は単に人体にとっての安全ということだけではありません(というか、人体への安全性の部分のウェートはあまり大きくないと思ったほうがいいと思います)。
具体的に見ていきましょう。
技術というのは制度設計の段階でどのように「役に立つか」が想定されているものですから、基本的には「品種そのものや育成技術」と「社会に調和させるスキーム」というのは独立のものではあり得ませんので、ある程度関連して論ぜざるを得ないと思います。
ただ、どこに力点が置かれるかということはあると思いますが、そういう意味ではブログの筆者らの論点とヴァンダナ・シヴァの論点が、すこし違うというだけの話でしょう。
そして、元々のトピックが、第三世界の貧困層にどのようにビタミンAを初めとした栄養素を安く供給するか、ということなわけですから、「品種そのものや育成技術」に力点を置くのは間違っているわけです。
「貴国の交通を円滑化し、同時に二酸化炭素の排出を抑えるために新幹線を援助したいと思います」「ありがとうございます。しかし、我が国はまだ都市人口より農村人口が多く、交通事情は分散しているので、まず高速道路の建設を援助していただければありがたいのですが」「貴方は新幹線という技術の特性を誤解している。新幹線を遅くしたとして、誰が得をするのか?」…おかしいでしょ、この会話?
ヴァンダナ・シヴァに代表される第三世界の有機農法普及活動家が強調しているのは、基本的には近代農業が「環境負荷も経済負荷も高く、結果的に小規模農民にとっては大きなリスクである」ということです。
もともと、サトウキビやコーヒーなどのプランテーション作物は値段の乱高下が激しく、極めてリスクの高い投資です。
それに比べれば、穀類(米、麦、トウモロコシ、大豆など)は価格は安定していますが、アメリカやオーストラリアの(たっぷり補助金と輸出助成金を使って国際市場にばらまく)極めて安い穀物が出回っていることによって、生産コストに比べると値段が抑えられているという事情がありますし、もちろん収量は必ずしも安定していません。
一方、市場価格は低いか、実質的に売れないが収量が安定しており栄養価も高い雑穀類を中心に農業を組み立てることで、第三世界の農民は少なくとも生活基盤を崩壊させるようなリスクを回避できるのです(売れなくても雑穀を食べつないでいけば、飢え死にまではしないわけですし…)。
第三世界の農民は多くの場合、初期投資(種および肥料・農薬代)を借金でまかない、収穫によってその借金を返済するのですが、一回でも収量が思わしくなかったり、逆に豊作すぎて作物が売れ買ったりした場合、農地を取り上げられて小作農になるか都市スラムに流入することになります。
最近は、借金を苦にした自殺も増えているので、ヴァンダナ・シヴァたちは高い初期投資を要求する近代品種や遺伝子組換え趣旨を「自殺の種」と呼んでいるわけです。
対して有機農法は、初期投資を(種を自家採取し、肥料や農薬をほとんど使わないことによって)ミニマムに出来るので、結果的にリスクが極めて低い、という話です。
先進国の農民であれば(裕福とは言えなくても)一年だけの不作や豊作で家系崩壊までは至らないものですし、そうなった場合にも補助金や生活保護が宛てに出来ます。
もちろん、ある程度大規模な経営になっていれば、デリバティヴなどの金融技術を利用することでリスクをヘッヂすることが出来ます(本来、デリヴァティヴはそういった使い方をするためのもので、投機のための商品ではなかったはずです)。
しかし、現金をほとんど持たない第三世界の農家が、そういったリスクヘッヂの手段を利用することは簡単ではありません。
そのため、そもそも最初に発生するリスクを最小にするという戦略は、極めて合理的なものです。
つまるところ、近代的な農業の基本は、「収量を最大にする」という目標をまず置いて、その前提内でコスト/リスクをコントロールするためのテクノロジーとして開発されています。
それに対して、ヴァンダナら有機農法活動家が追求しているのは、コスト/リスクを最小にするという目標がまずあって、その範囲で収量を最大にする技術の開発、ということになります。
このどちらを選択するかは基本的に、社会経済学的な問題であると思われます。
通常、第三世界の小規模農家は60種類ぐらいの品種を家にストックしておき、その年の気候や市場価格などの動向をにらみながら、十数種類を混作するのが一般的です。
これはNGOなどが推奨する方法でもあるのですが、まだ伝統的な農法が生きている地域では、通常そういった方法がとられているようです(写真はガルワール地方の混作の様子)。
混作することによって、
1)一つが上手くいかなくても他の穀物が収穫できるというリスク・ヘッヂ。
2)ニッチを単一の植物で埋めてしまわないことにより、病気や害虫の発生リスクを軽減できる。
3)お互いが「助け合う」ことによって収量が増加する(モノカルチャーによる自家中毒を防ぐだけでなく、相互に成長を助ける場合があると主張されている)。
といったメリットがあり、全体的にはかなりのリスクヘッヂになると同時に、同一面積で一年あたりにとれるカロリーも、一定の向上が見られる、というのがヴァンダナ・シヴァらの主張です。
で、これを効率よく行うために、インド北部のデラ・ドゥン市の郊外に、実験農場を構えてさまざまな品種の調査も行っています(写真はシヴァの実験農場での作業風景。中央は種の生き字引として伊スローフード協会から表象を受けたビジャ・デヴィ氏。右は植物学者で農場の研究を取り仕切るヴィノッド・クマール・バット氏)。
もちろん、バラバラに植わっている作物の中から収穫期に入ったものだけを選択的に刈り取る作業や、もちろん除草などを手作業でやらなければいけないという問題から、人件費の高い先進国でこれを実施するのは不可能に近いでしょう。
しかし、失業率が極めて高いインドの農村では、こういった方法は有効です(もちろん、単なる"Shared Poverty"だという非難はあるかと思いますが、それが問題かどうかは、それはそれこそ技術の問題と言うより、価値観の問題です)。
遺伝子組換えイネの良いところは、F1品種が主流のトウモロコシとは違って自家採取できることだ。ゴールデンライスの開発者は知的所有権を主張しないと言っている。もしそうであれば、ゴールデンライスが一般農家に普及すれば、工業的に生産されて供給されるビタミンAを部分的に代替することで供給コストを下げることができるし、場合によっては通常の米と同等のコストでビタミンAの所要量全量をまかなえる可能性だってある。
ゴールデンライスそのものは確かにパテントを請求しないという約束で進められています。
このことは一定の評価は出来ると思うのですが、同時に限界もあります。
つまり、すでに述べたような「60種類のストックから、十数種類の品種を」という農法に、現在の研究開発体制が即応するのは基本的に不可能なのです(昔の水車小屋のように遺伝子改変ショップが村々にあり、農民が気軽に「今年はこれとこれにゴールデンライスの遺伝子入れてくれや」と言いに行ける、というのであれば問題はだいぶ解決されますが、その場合はみんなが勝手なことをし始めるという環境リスクが増大するでしょう)。
したがって、農民は外来の品種を継続的に利用するしかなくなります。
個人的には、遺伝子組換え作物に健康リスクがあるとは、あまり思っていないので、60種類のストックの中にゴールデンライスも混ぜ込むことは一つの可能性であると考えますが、それが農民の生命を作用するほど重要なものになることは、上記の事情で好ましくありません。
(最低限の食物は他の雑穀で確保しておいて、「ゴールデンライスが取れたから、これは都市部での消費のために売って現金収入を確保しよう」というぐらいの位置づけであれば、議論の余地はあるんではないかと思います)
しかし、ゴールデンライスがなければ十分なビタミンAが取れないという状況が続く場合は、単一か極めて少ない種類の作物に依存することになります。
その場合、仮に自家採取した種子が使えたとしても、気候や市場の動向に対応できなくなります。
また、自家採取で種をまかなう農家が蓄積してきた「これは乾燥地帯で生育の良かった種。これは寒い時期が長く続いても芽を出した種」といった知恵も、だんだんと失われていくことになります。
つまり、種を外部から購入してまかなうと言うことは、研究開発と生産を分離し、前者を多国籍企業が独占すると言うことに他なりません(なぜ研究開発だけが多国籍企業に独占されるかと言えば、前者のほうが圧倒的に儲かるからです。いっぽう、穀物の生産そのものは、アメリカですらも決して実入りのいい事業ではなく、大規模化していると行っても本質的に家族経営の経営体が殆どであり、また多くを補助金に依存しています)。
ヴァンダナ・シヴァが批判する、農業の近代化の最も大きなリスクは "non-expert" を "non-knower" にしてしまうことだと言えます。
したがって、この"non-expert" を "non-knower"にするという仕組みの上で、ゴールデンライスは一種、トロイの木馬の役目を果たします。
ゴールデンライスそのものはパテント・フリーでも、おそらく適切にゴールデン・ライスを育てるためには、BTやラウンドアップ・レディといった他のGM技術を複合的に利用しなければならなくなる可能性が極めて高いわけです。
そして、第三世界の農村にゴールデン・ライスが満ちあふれるころには、本来そこで育てられていた雑穀や土着のコメは、それらの育成に係わる農民が伝承してきた知恵と共に、失われていくことになります。
これは、生物多様性の保全という観点からも大きなリスクだと言えるでしょう。
私は、遺伝子組換え品種が体に悪いと思ったことはないので、目の前に遺伝子組換え大豆から作った豆腐を出されれば躊躇なく食べますが、継続的にその豆腐を購入し続けることは、世界の農村経済と生物多様性資源の荒廃につながると思うので、なるべくそうではない(できれば国産の)豆腐を買いたいと思います。
反対の対象が何であれ、反対運動で生計を立てているプロフェッショナルの活動を純粋に金銭的な収支から見てみると良い。著名な活動家はどうやって生計を立てているだろうか?NPOなどの団体からのカンパや義援金に著書の印税、弁護士であれば訴訟の際に原告から支払われた弁護士費用もあるだろう。それが得られなければ、多くの時間を反対運動に費やすプロフェッショナルとしては生きていけない。
まぁ、これはある意味そのとおりです。
しかし、NGOなどはマクドナルド、ネスレ、そしてモンサントなどの食品・種苗会社が膨大な広告費をかけ、また各国政府にロビー活動を行っていることを指摘するでしょう。
ヨーロッパなどでは、こういった対立を避けるため、国費で独立のテクノロジー・アセスメント機関を設けることが増えています。
私が勤務する阪大の係わっているWorld Wide Viewsを主催しているDBT デンマーク技術委員会はそのなかで最もよく知られた機関です。
また、イギリスでは遺伝子組換えやナノテクなどの技術について、政府機関、大学、メディアとグリーンピースなどのNGOが合同で行う市民参加型のテクノロジー・アセスメントが積極的に推進されています。
一方で、日本では「アセスメントは合わすメント」とも言われ、実質的に政府や企業の方針を色濃く反映したレポートしか出てこない、と市民は思っています。
こういう状況では、NGOの主張は自然と先鋭化しますし、活動としては諸外国の文献の翻訳ばかりということになり、日本の情勢に合わせた提案をしていくことは極めて難しくなります。
できればあとでもう少し詳しく述べたいと思いますが、GMと有機は農業という人類必須の産業の未来を担う可能性のある重要な技術ですが、その可能性と弊害がどちらも十分に検討されたとは言い難い状況にあります。
これを是正するためにも、もうすこしこういった分野の研究について、視野を広げるための投資が戦略的に行われるべきでしょう。
「リンゴのビタミンA」問題についてはまた追って、ということで、 に続く。
※とりあえずヴァンダナ・シヴァの『緑の革命とその暴力』は必読本だと思いますので、食わず嫌いの方もとりあえず図書館などで手に取ってみて下さい。
あと、雑穀や混作の状況などについては、阪本寧男『雑穀博士ユーラシアを行く』が参考になるでしょう。
2010年は「グローバル・アクション/モビライゼーション・イヤー」となるので、大会としてのフォーラムはお休みで、各地で分散フォーラムが開かれます。
だいたい予定されているものを最後にリスト化します。
日本でも、大阪と東京でなんらかのフォーラムを企画中です。
グローバル・アクション・イヤーについては、社会フォーラムとしての統合性を維持するために、共通のロゴやスローガンをつかったり、グローバル金融危機への議論を行っていくなどの方策が議論されています。
2011年はセネガルの首都ダカールで世界社会フォーラムを開催することがほぼ決定されたようです。
▼2010年に予定されているイベント
1. ポルト・アレグレ(ブラジル) 世界社会フォーラムの10年 ダヴォス会議に会わせて1月24日から28日
2.危機へのオルタナティヴのためのカタロニア社会フォーラム
3. リオ・デ・ジャネイロ(ブラジル) 都市の権利 世界都市フォーラム 3月22日から26日
4. アンデス地域 テーマ・フォーラム "文明の危機" 第一四半期
5. アメリカ合衆国社会フォーラム 居住と戦争 デトロイト(ミシガン州) 6月22日から26日
6. イスタンブール(トルコ) ヨーロッパ社会フォーラム 6月の終わり
7. パレスティナ 教育フォーラム 9月か10月
8. マグレブ地域に於けるテーマ・フォーラム
労働問題(アルジェリア)
ジェンダー(ヨルダン)
農業労働者、小農と健康(エジプト)
社会運動フォーラム(モロッコ)
可能なフォーラム(イラク)
9. ニアメー(ニジェール) 環境、移民と食の安全保障に関するテーマ・フォーラム
10. メキシコ・シティ 金融危機へのオルタナティヴに対するテーマ・フォーラム
11. ネパール 南アジア・フォーラム
12. バングラデシュ 民主制についてのテーマ・フォーラム (being explored)
13. カタロニア:人々の集合的権利
]]>Yes, I know, WWViews is all about involving citizens in the debate.という議論が提起されています。
But what do you think? Is it worth it? Are citizens capable? Should climate policy be handled only by experts, who knows what they are talking about? Or should citizens be the core participants of such a debate?
Please - give us a heads up!
もちろん、WWViewsは市民を議論に巻き込むためのものです。
しかし、貴方はどう考えますか? それは価値があることでしょうか? 市民にそれが出来るでしょうか? 気候に関する政策は、自分たちがなにをしゃべっているかちゃんと理解している専門家だけが携わるべきなのではないでしょうか? 市民はそういった議論で核になる参加者になることが出来るでしょうか?
意見を下さい(※"give us a heads up"って、こういうときも使うの??)
サイエンス・カフェ(あるいはフランス語で「カフェ・シアンティフィーク」)はすっかり日本に定着したように見えるが、「カフェは公共空間である」ということの意味は十分に伝わっていないとも言われる。もちろん、一から十までヨーロッパの物まねをする必要はないが、なぜサイエンス「カフェ」でなければいけなかったかについて、すこし考えてみることも有益だろう。ここでは主と してセネットの『公共性の喪失』に沿って歴史を振り返ってみよう(以下、ページ数は同書)。一つ重要な点は、「カフェが公共空間である」というのは、ヨーロッパにおいても過去の話になったと考える人が多いと言うことである。その上で、公共空間としてのカフェを取り戻そうという思想が、サイエンス・カフェや哲学カフェ運動の背景にはある。[もっと読む]]]>
私もエクアドルのレポート、書いてますのでよろしくお願いします。
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