「非暴力直接行動」の社会的意味

 「メーダ・パトカル、中央政府には一勝。『インドのヒットラー』との対決へ?」では、反ナルマダ川開発運動のリーダーとして知られるメーダ・パトカルのハンガー・ストライキがインドで高い効果を収めている、という話を書いた。

 ハンガー・ストライキやデモといった、所謂「非暴力直接行動」とカテゴライズされる政治活動の意義と必要性は多くの論者が認めるところであるが、その範囲については議論がつきないところである。

 デモの権利を認めていない「民主国家」は存在しないと思われるが、ハンガー・ストライキのような他人ではなく活動家自身を危険にさらすような方法論については政府当局がどういう態度を取るべきか、議論が分かれる(社会制度としては、フランス・ドイツのように観念論的哲学を基盤にする社会ではそういった活動に対して厳しく、一方イギリス・オランダのように経験論哲学を基盤とする社会ではその手の活動に寛容であるという傾向が指摘できるが、実際の制度運用に関してはその時々の社会情勢からも影響を受けるので、問題はそう単純ではない)。
 また、ジョゼ・ボヴェらによる「モンサントの遺伝子組換え実験農場襲撃」など、企業資産に対する攻撃が「非暴力」なのか「財産権の侵害」なのかについては、フランスでも議論が分かれるところのようである(フランスでは、他者の生存を脅かす活動が「暴力」であり、遺伝子組換え作物の生産が農家を含めた近隣住民の生存権を脅かしている以上、それを緊急に「停止させる」ことは正当な自衛活動であるという議論がある)。

 日本社会では、これらの「直接行動」に関する評価は総じて高くないし、それによって政府が直接的に態度を変えることはほとんどありえないであろう。
 まして、政府が「計画変更したからハンストもやめて欲しい」などと声明を発表することなど、想像も出来ない。
 「ここまで追いつめられているのに日本の若者は何故デモの一つもしないのだ」という議論があるが、一つの回答として、「やってもムダだから」という感覚が共有されているのは否定できないのではないかと思う。
 もちろん、間接民主制が十全に機能していればそんなことはなんの問題でもないのだが、投票率の低下に見られるように、現実的には間接民主制への信頼も失墜を続けている。
 この政治的無力感(アパシー)への対策は、真剣に考えられても言いように思う。

 CPE(新規採用契約)に反対するフランスの大規模なデモによって政府が態度を変えたことを見ても思うのだが、こうした「直接行動」への社会的感度の違いには、相互理解への期待の度合いが大きく関与しているのではないか、というのが現在の所の「仮説」である(※1)。
 直感的にではあるが、フランスやインド(おそらくブラジルも)のように、近年社会運動の元気がよい国の人々は、コミュニケーションによって自分が理解されるということへの期待値がかなり低いように思われる。
 これは政治的文脈だけではなく、社会的、日常的な状況でもそうで、それがそれらの国の人々の、過剰とも思える自己主張につながっている(国際会議の司会が一番悩むのは、インド人を黙らせることと日本人をしゃべらせることだ、というのはお決まりのジョークになっている)。
 こういった社会では、デモやハンストに対して「たいした問題だとも思っていなかったが、それだけ真剣に訴えたいなら聞いてやろうじゃないか」という態度は、さほど違和感のあるものではないのかもしれない(もしあるハンストが要求するポリシーに不満であればーー実際にインドの事例でナレンドラ・モディがしてみせたようにーー自分もハンストのまねごとぐらいしてみればいい、ということになるのである)。

 それに対して、日本は「察しの文化」と説明されるとおり、集団のメンバーはお互いの要求を暗黙のうちに把握し、それに配慮する必要があるのであり、政治的アジェンダの調整は水面下で行われると言って良い。
 このアジェンダ・セッティングに(デモやハンストなどで)声高に介入することは礼儀正しいとは言いかねる行為であり、アジェンダ・セッティングをした集団の「察しの能力」に対する侮辱ですらあるだろう。
 この場合、集団が守るべきはアジェンダそのものよりアジェンダ・セッティングのシステムであり、ハンストはシステムに対する暴力的な介入になるのだろう(もちろん、フランスでも民主的討議システムに対する暴力的攻撃は許されないだろうが、討議的システムへの信頼は相対的に低いため、「討議のために色々な手段を講じてみる」ことへの障壁は低いものとなっている、と解釈できるわけである)。

 確かに、なにかを訴えるためにいちいちデモやハンストを要求されるのではたまらないし、共同体の成員が相互に配慮を怠らない、という前提が共有できているのであれば「直接行動に訴えなくても訴えを受けた同じ集団の成員は問題に対処するという紳士協定」は社会を効率化するであろう。
 これは勿論、日本的な「村社会の掟」なのであり、そこから排除されたマイノリティの問題というのは昔からあったと思われるが、一方で日本社会のマジョリティにとっては、これは大変暮らしやすい社会の基盤だったことも確かであり、「世界一成功した社会主義」としての日本社会の成功の秘訣はそんなところにあるとも言えなくもない。

 しかしながら、問題は、社会問題の質も社会の成員の要求も多様化してきたような場合、つまり現代社会である。
 「アジェンダ・セッティングに声高に介入することはアジェンダ・セッティングをした集団の察しの能力に対する侮辱ですらある」という前提が共有されてしまっている一方で、個別の成員の「違い」について集団のメンバーが十分な知識を得られない場合、この集団のコミュニケーションは困った問題を抱えることになる。
 つまり、一方は「問題はまだ解決されていない」という感覚を抱くのであり、もう一方は「解決されていない」という異議申し立てを(実際は問題への洞察不足に起因するのだが)社会が持っている問題解決システムそのものへのクレームと受け取ってしまう。

 しばしば世界でもっともクレバーな社会と見なされている日本が、新奇な問題に直面したときに他国に比べても爽快にすっこけるのは、このあたりが理由かも知れない。
 洞察型の社会と、激論型の社会のどちらが優れているといえるものではない(まぁ、実際は「その中間ぐらい」が好ましいのではないかという気もしなくもないが…)としても、西洋型の民主制度というのが元来、討議に基盤をおいており、その思想を公的な社会制度の基盤としてしまっていることも考え合わせれば、日本社会はもう少し討議型の様式を取り入れてもいいように思われる(※2)。

※1 もちろん、日本の左派運動の直接的な失敗は弾劾されるべきである。
 労組運動のリーダーであり、attacの幹部としても国際的に著名なクリストフ・アギトンは、『フランス社会運動の再生』でフランスでは労組の組織率が驚くほど低い(伝統的に10パーセントを切っている)にも関わらず、街頭デモには労組非加入の非正規労働者や学生も動員できるという状況を「委任された運動」という言葉で説明している(まぁ、フランス人が兎に角「無類のデモ好き」っていうのもあると思うんだが…。デモ経路には売店まで出て、ちょっとしたお祭りみたいなものだし…)。
 また、アギトン自信がAC!(失業者運動)を起こしたというのも、この「委任」を積極的に引き受けようと言う意思の表れであると言えよう。
 この点、日本の労組の基本ポリシーが多くの場合非正規・若年労働者の切り捨てにあるということは若者にも丸見えであり、とても既存労組になにかを「委任」しようという気分にはならないだろう。
 組織率の低下を嘆く前に、どうすればより幅広い「労働者」の「委任」を受けられるかの反省は切実に必要だろう。


※2 関連して思うのだが、最近、経済急成長中の親日国家ということでインドに注目が集まっている。
 インドは、戦中にインド独立運動の第三の(ガンジー、ネルーに続く)英雄チャンドラ・ボースが日本軍と協力関係にあったということもあって日本への期待感は非常に大きい。
 日本ではこの期待感を、嫌中というところから右派の知識人やメディアがあおる傾向にあるが、実際にビジネスなどでの協力関係になってみると、彼我のコミュニケーションに関する文化的違いはかなり大きな問題になっているようである。
 一つには、インドは中国に輪をかけた「とりあえず要求してみよう」文化であり、日本の「察しの文化」とは対極にあることがあるように思われる(大体、交通の要衝にあって古来から文明が栄えたような地域は、色々な言語・文化の人間が集中するので、文化的「お約束」をつくりづらく、いきおい自己主張型になるんだと思われる。逆に日英のように他の文明に対する障壁が大きいと、お約束も共有しやすいので「察しの文化」になるというところはある)。
 逆に、韓国なんかはそういった自己主張文化に水があうのだろうか、最近のヒュンダイやサムソンのインド進出の勢いはなかなか凄まじい。
 それに、インドの親日感情は、日本がアジアの中心として欧米の支配に抵抗してくれるだろうという期待感の反映でもある。
 「広島・長崎のあとで、なぜアメリカの言うなりになろうと思えるのだ?」とか、「で、今度いつアメリカとやるんだ?」といった質問は一般的なものなのであり、インドの親日感情を当て込む、というのはそのあたりの期待を引き受ける、ということであることも、特に無責任にインド・ブームを作り出そうとしているように見える右派メディアは重々考えておいてほしいところである。

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このページは、かすががApril 20, 2006 9:43 PMに書いたブログ記事です。

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