憲法記念日によせて

 憲法記念日もあと一時間を残すのみですし、そもそもこの議論に参入すること自体がいまさらの気もしますが、一応。

 まず憲法を改正すると言っても大きく分けて二種類会って、アメリカなどがよくやるように修正条項(Amendment)を付加していくという方法と、文面を全面的に変更するという方法があり得る。
 「これまで我々の行なってきた全ての改革は、昔日に照らすという原理の上に立っている」というエドマンド・バーク的な(たぶん極めて健全な)保守主義に照らせば、前者のほうが国民国家としての連続性を維持できるという観点から極めて好ましいはずである。
 実際、全面改正を行ってきたのは基本的に急進主義左翼政権であり、保守政権が全面的な憲法改正を行ったという事例は近代史にはあまり見いだせないはずである。
 近年では、ベネズエラのチャベス政権が国名の改変を含む憲法改正を行っている。

 しかし、日本の保守政党である自民党による憲法改正法案は、どうも全面的な(もちろん右方向に「急進主義的」な)憲法改正を念頭に置いているようである。
 これは、「日本国憲法の改正手続に関する法律案」14条1の「国会の発議に係る日本国憲法の改正案(以下「憲法改正案」という。)及びその要旨並びに憲法改正案に係る新旧対照表その他参考となるべき事項に関する分かりやすい説明…」というところからも想像がつくし、実際自民党の新憲法草案(PDF)を見てもかなり大幅な改変になっている。

 自民党は戦後60年近く憲法が改正されてこなかったことが異常であると主張するが、逆に言えばここまで劇的な憲法改変を行った国というのはそう多いわけではない。
 また、私は必ずしも憲法を変えることに反対ではないが、そこまでやるのであれば、ベネズエラが行ったように制憲議会(Constitutional Convention)を選出し、議論を尽くすのが自然なのではないかと思われる(ベネズエラが制憲議会方式を選んだ背景にはもちろん、通常の議会で反チャベス派が主流だったという事情もあるのだろうが、結果的にはより正統性の高い方式を選択することになっていると思う)。
 憲法というものが本質的に立法の基盤になる以上、その制約を最も受けるのが立法権を司る議会である。
 国民投票というプロセスを経るとは言っても、国会議員が自分たちの作業を律するルールを決めるということには違和感が残る(同様に、本来であれば憲法改正後は自らを選出した基盤が改変されるわけだから、両院は速やかに解散するべきであると考えるのが自然だろう)。
 また、現実問題としても憲法問題のみを討議し、立憲後は速やかに解散する制憲議会は、相対的に見てクリーンで比較的公平性の高い議論を行うことが期待できるのでは無かろうか?

 それと、憲法と「公共性(Public)」のコンセプトは切り離せない問題である。
 自民党の改正案では「公共の福祉」が「公益及び公の秩序」に言い換えられている。

 現行憲法第12条
  この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によつて、これを保持しなければならない。又、国民は、これを濫用してはならないのであつて、常に公共の福祉のためにこれを利用する責任を負ふ。

 自民党案第12条
  この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によって、保持しなければならない。国民は、これを濫用してはならないのであって、自由及び権利には責任及び義務が伴うことを自覚しつつ、常に公益及び公の秩序に反しないように自由を享受し、権利を行使する責務を負う。

 このことが含む法的な問題などはすでに各所で指摘されている。
 例えば社民党の自民党「新憲法草案」批判(案)では次のように述べられている。

■市民の権利 ー公の秩序が許す範囲の「自由及び権利」

 これは、単なる言葉の言い換えではない。「公共の福祉」とはある人権が他人の人権と矛盾・衝突する場合の解決をはかるための調整、実質的公平の原理であり、人権に必然的に内在する制約である。これに対して、「草案」のいう「公益及び公の秩序」は、個人の権利を否定し個人を犠牲にした上での権力に対する忠誠を意味するものともなりかねないもので、外部から人権を制約するものと解される。現憲法が「侵すことの出来ない永久の権利」である基本的人権である「個人の自由と権利」が、明治憲法下での「人権保障」のような統治機構の定める秩序や法益の下位のものと位置づけられ、その許容範囲でしか存在できないものに貶められることになりかねないのである。
 例えば国家の安全や、軍事目的といった公益のために、表現の自由や思想・信条の自由等が制限されることにつながり、戦争への批判を立法によって制限する根拠にもなりかねない。「草案」第9条2が自衛軍の任務として「公の秩序の維持のための活動」を規定していることからも、「公益及び公の秩序」が、軍事的要請をも含めた国家の求める秩序全般を指すことは明白である。

 ここでは、こういった見解に基本的に賛同しつつ、こういった見解が成立してしまう歴史的・文化的背景について若干、考察してみたい。

 英語の公共性に関する論文などで、「日本では、公共性は私益のアマルガム(混合体)ではなく、公と私という二つの領域があると見なされる」という記述が見られることがある。
 逆に言えば、欧米圏の感覚では「公共性とは私益の混合物」なのである。
 例えば、日本では井の頭公園で大道芸をする権利を地方自治体という「公」が大道芸人の「実績を審査し、許可を出す」ということが天下り的に許容される。
 しかし、本来は静かな公園を望む「私益」と、賑やかな公園を望む「私益」の間をどのように調停するか、というのが公共性であり、規制はその公共性の結果にすぎない。
 同様に、国家は市民の共有物であり、私的なものに先駆けて国家という公があるわけではない。

 英語では国家に対して"Nation State"という語が当てられる。
 これは、文字通り「民族の財産」という意味であり、元来「国家」が王の財産(Royal Estate)であったことに対して、国民(Nation)の財産になったということに由来する(「国」と呼んでいたのを国囲いに民という字に変えた、というイメージだと考えればわかりやすいだろう)。
 ちなみにNationというのも、中世の大学で出身地域が一緒のグループが結成した同胞団をNatioと呼び習わしたことに由来するもので、元来極めて相対的なものである(例えばパリ大学ではフランス各地方についてそれぞれのNatioが存在する一方でイタリアについては単一のNatioが存在し、逆にボローニャの大学では…、という相対的な概念にすぎない)。

 現在ではもっぱら英連邦のことを示すCommonwealthも、歴史的にはしばしば国家の意味で使われるが、これも同様に(文字通り)「共有の財産」を意味する。
 こうした思想的前提のなかでは、全体主義的な思想はあくまで無理筋にすぎないし、逆に私的な利益を主張することは(それがあくまで事後の調整のための討議に開かれているという前提の上では)それがしかるべきプロセスの後に公益に資するという合意が生まれることになる。
 一方で、公と私が二元論的にとらえられて、「貴方は公と私のどちらにつきますか?」と問われて、「私は私益を追求するのだ」と言い切るのは非常にハードルが高い(ホリエモンの日本社会に於ける新しさはこの言い切りにあったのかも知れない)。

 また、微妙な混乱を招いているのは、「公」が国家に独占されていることである。
 逆に、国家および地方自治機関以外のすべては「私」であり「民」であるとみなされる。
 一方で、欧米語では公は「Public」であり、これは日本語の公よりもだいぶ広い言語である。
 たとえばNPOは日本では「民間」だが、欧米ではPublicな組織である。
 また、例えば「郵政民営化」といったような公共サービスの「民営化」は英語ではPrivatization (私有化)と表現される。
 「民」がPoepleを指すものだとすれば、どちらかというと公的なものの領域に属する。

 このあたりに留意すれば「公共の福祉」と「公益及び公の秩序」の差異は明かであろう。
 基本的に、「公」というのが、異なる私益を持つ集団の間の討議というプロセスを指すという欧米型民主制の理念に従ったものであるのか、民衆の外部に、その生活を規制するものとして存在するものであるのか(つまり明治以降の翻訳的な意味で使われているのか、江戸以前の伝統的な意味で使われているのか)明確にして論じていくべきであろう(その上で中世への回帰が好ましいという議論があるのであればそれもいいと思うのだが、そんな人はどの程度いるのだろうか?)。

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このページは、かすががMay 3, 2007 10:38 PMに書いたブログ記事です。

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