企業による学生の青田買いが起こるのは誰の責任か!? 

 ちょっと社会運動づいたので話題転換を…

 毎日新聞に「採用活動:青田買い『学びを奪う』 企業に是正求め、国大協など要請」という記事が出ていた。
 同記事によれば、

 企業の採用選考活動の早期化が大学・大学院の教育に悪影響を及ぼしているとして、社団法人国立大学協会と公立大学協会、日本私立大学団体連合会は9日、日本経済団体連合会など全国140の業界団体や企業に是正を求める要請書を出した。国公私立の大学組織が連名でこうした要請活動をするのは初めて。  要請書は「採用活動の早期化は国際的に見ても異常な状況。貴重な学びの時間を奪っている」と指摘。▽卒業年の当初やそれ以前の採用活動を厳に慎む▽可能な限り休日などに(活動を)実施し、大学の教育を尊重するーーことなどを求めた。

 ちなみに国大協のプレスリリースも出ている(意外と偉い。そういうことはさぼりがちな組織かと思っていたので見直しました)。

 ちなみに毎日新聞の記事では


 国立大学協会は「優秀な学生を取り込もうとする競争が激化している。通年で採用活動することが多い外資系企業にあおられている面もある」としている。

 と述べているが、JCASTの「就職後3年で3割離職 大学生「青田買い」のせいなのか」という記事はでは、

 98年には当時の日経連が「新規学卒者の採用選考に関する企業の倫理憲章」を公表し、「青田買い」を抑制しようしたが、団体に属さない外資系企業などが就活時期を早めた結果、現在のような状況になってしまったようだ

 と延べ、微妙に「外資の役割」の位置づけが微妙に変わっている。
 これはおそらく、毎日の言い方のほうが実情に近くて、別に外資は日本企業に先んじて就活時期を設定しているのではなく、新卒にこだわらない(既卒で半年ふらふらしている人も現在別の企業で就業している人も対象にしているだろうし、場合によっては卒業すら要求されない)ということであろう。
 結局、日本企業は「新卒主義」という自ら決めたルールが足かせになっているにもかかわらず、そのことを無視してもがいた結果、現場の学生が犠牲になっているということではないのか?

 とはいえ、この問題に関して最も罪が大きいのはもちろん、大学である。
 国大協はJ-CASTニュースに次のように答えたらしい(まぁ、信憑性の薄いメディアではあると思いますが、まさかこんなところで嘘はつかないだろうと仮定して…)。

 国立大学協会はJ-CASTニュースに対し、就活が早まった結果起こったことをこう指摘する。早めに内定をもらった学生は安心して講義に出なくなる。内定がもらえない学生に至っては、3年から卒業まで長期の就活をしなければならない。つまり、学業に相当の支障が出てしまっている、というのだ。それ以上に問題視しているのが就職のミスマッチ。

「専門の学業を学び始めた3年の途中で就活が始まり内定が出たりします。企業は『優秀な学生が欲しい』といいますが、何が優秀なのかまだわからない時期。そのためミスマッチが起き、離職率が高まる原因にもなっているんです」

 基本的には同感なんだが、「何が優秀なのかまだわからない時期」であるはずなのに企業側がもう学生の優秀さを判別できると思ってしまっていることが最大の問題だと思われる。
 その理由は? もちろん画一化された入試体系と、その後の大学での課程教育が貧弱なことにあるだろう。
 極端な話、入試体系の信用性を落として、一方で大学の教育能力を向上させれば、「東大に入った」「早稲田慶応に入った」というだけで人材としての質を確定できなくなるので、就職活動を卒業まで待つしか無くなるのが合理的判断というものだろう。
 したがって、大学にとっての教育能力を高めたければ、入試のハードルを下げて(あるいはアメリカの大学のように「のびしろはありそうだがリスクの高い」学生をたくさん取って)、そのかわり卒業を難しくすることで「XX大学卒業」のステータスの価値を上げることだと思う。

 じゃ、何故そうしないかというと、おそらく教育でがんばるのが単純に「めんどくさい」からである。
 基本的に、日本の大学教員というのは研究がしたくてその職を目指した人々であり、雇用のさいの資格も研究能力が厳しく問われる一方、(少なくとも「一流校」といわれる大学のほとんどでは)教育能力はほとんど問われない(うちの大学でも最近あわててファカルティ・ディヴェロップメントみたいなことは始めているが…)。
 だから、元々教育に対しする意識も低いし、往々にして教育能力も高くはない(高い場合ももちろんあるが、そこにスクリーニングをかけていないのだから、高い人ばかりというわけにはいかない)。
 アメリカの大学の人事に関する記事などを読むと、「研究・教育・社会貢献」をバランスよくチェックし、三分野において最低基準を定める足きり的なことは行うにしても、「合計点の高い人」を取るのではなくて、学内での役割分担に配慮して取るように求めていることが多いように思う。
 それに比べると、研究能力、それも「自分で研究を進められる能力」だけを評価する日本の大学の人事基準は、極めて危険である(教授は研究し、学生はその背中を見て育つ、というフンボルト的な大学であればそれでもいいのだが、現代のマス化した大学にそれを求めるのは無理があるし、第一そういう自主性のある学生を取りたいのであればセンター試験方式は適さない)。

 だいたい、大学教員は日本の大学行政や一般市民の理解に文句をいうことが多いが、その一方で、本来自分たちがどれほどの権力を持っているか自覚していないように思う。
 これは、審議会にでるとかそういう話ではなく、「将来ほぼ確実に日本の政治経済の中枢を占めるであろう人材」が極めて無垢な状態のまま丸ごと教育対象にできる、ということを言っているのである。
 わりとすれた学生の多い京都大学ですら、私の知る限り大学一年生のマジョリティは自分がこれからできることに純粋に心躍らせているし、そのなかには当然勉強も含まれている(「研究」でなかったりするところが不満と言えば不満だが…)。
 ところが、一般教養や初級の授業のために大学が用意する部屋は、学生がだんだん減っていくことを想定したものでしかなかったりする。
 例えば、100人登録しているのにどうみても70人ぐらいしか入らない部屋であったりするのである。
 初めのうちは立ち見で我慢していた学生たちも、だんだんとサボる方法を模索し始める。当然だと思う。
 (だいたい、大人数授業など、本来大学にあってはならないのである。そんなものを90分我慢して聞くより新書本を一冊読んだ方がよほど効率がよい。まして今はMITやハーバードが世界のビッグネームの授業を惜しげもなくPodCast配信している時代である)。
 もし、彼らに対するきちんとした教育を行い、学問の魅力と必要性をきちんと教えることができれば(そしてそういう学生たちが社会で活躍するようになれば)、大学の権威が疎んじられることもなくなるだろう。
 ところが、実際は多くの教授たちは教育にほとんど関心がないし、そのわずかな関心も自分のクローンとしての「研究者」を育てるということに集中してしまっている。
 これでは大学に未来がないのも当然だと思う。

 当面の改革案としては、各大学でセンター試験のウェートを下げることや(一芸入試ではない)ちゃんとしたAO入試を行うことである。
 ちゃんとしたAO入試というのは、その人がそれまで獲得した人生経験(ここまでは一芸でもかまわない。アメリカでは「ドラッグから立ち直った」ということさえ「経験」とみなされる)を生かして、どんな研究をしたいかを大学側と一緒に策定すし、その計画自体を評価することである(この意味で、AO入試はロングスパンのサイエンスショップやサービス・ラーニングと見なすこともできる)。

 今のところ、そういうことをきちんとやっていたのは慶応SFC(湘南藤沢キャンパス)だけである。
 ところが、SFCはこの入試業務が教員の負担になってしまうために、教員側の不満が強い。
 アメリカではこの入試はそのための職員が行うことが多い(統計データを調べたわけではないが、彼ら自身も学位を取得していることが多いように思う)。
 つまるところ、教育をきちんとやるにはお金がかかるのである。
 アメリカだって、「私学」ではあるが、学生の授業料収入は(日本の授業料の2〜5倍は取るにも関わらず)全体の総経費の2割前後を支えるに過ぎない(他の主要な資金源は寄付や委託研究、基金運営収益、連邦や自治体からの助成金などである)。
 だから、次に(おそらく国大協などが中心となって)やるべきことは、成功した教育の事例を紹介して、「教育はこうやるとうまくいくが、そのためにはお金がこれくらいかかる」ということを示すことであろう。
 そういった基礎的なデータを示さないで、文句ばかり言っても世間は聞く耳を持つまい。
 また、資金の増加分は(少なくとも部分的には)国費に依存せざるを得ないだろうから、教育能力の向上は国民全体(大学という理念を考慮すれば本来は世界全体)に資するものでなくてはならない。

 私のつとめている阪大は旧帝国大学のひとつであるので、一応(東大・京大ほどではないにせよ)学生たちはエリート候補生ということになるだろうし、確かに(少なくともミッションを明確に提示してあげさえすれば)問題解決能力は極めて高い。
 おそらく、社会は彼らをそれなりの待遇で遇するべきだろうし、教員サイドの責務としては、その潜在力を引き出してやるように努力することであろう。
 ただ、学生たちと話をしていて違和感を持つのは、「これまでがんばったから、それなりに良いところに就職できるだろう」というようなディスコースを、少なくない学生が展開することである。
 もちろん、そういう言い方も間違いではないのだが、厳密には大学が彼らの入学を許可し、学習の支援を与えているのは「がんばったから」ではなく、「今後社会にとって有益な活動を行える潜在能力を認めている」からであり、学生たちは(どんな方法でかはそれぞれの思想や能力によるであろうが)将来の社会貢献という責務を負っているのである。
 今のところ、そういう説明をきちんとすれば、一応(少なくとも理屈の上では)多くの学生は納得してくれているように思う。
 逆に言えば、いままでそういう説明に、彼らが出会うチャンスがほとんど無かったということでもあろう。
 
 ということで、もし大学の社会的影響力を上げたければ、大学は社会貢献を委託されているのであり(かつ、それは開かれたものでなければならない)、また大学を出た学生たちの能力それ事態が一種の社会貢献であるということを、社会にきちんと訴えなければ行けない。
 また、そういった「能力」というのは決してタダではなく、大学の維持費という形で直接に支出する(雑ぱくに言うとヨーロッパ型)か、奨学金という形で個人に支出するか(雑ぱくに言うとアメリカ型)の違いはあるにせよ、どこかで経済的な帳尻を合わせないと行けないということも言わなければ行けない。
 これまでの歴史的経緯から、日本の大学人に関して言えば、右派は前者(「社会」について語ること)が嫌いで、左派は後者(「経済」について語ること)が嫌いである。
 この分断をきちんと修復し、政治的立場によらずして合意できる大学像を提示し(もちろん、合意できないものまで無理に合意する必要はない。そこは多様性という問題である)、それを実現するには社会からどういう支援が必要か、訴えていく態度がないのが、日本の大学の最大の問題であり、これに比べれば「学力低下」なんてのは二次的な問題に過ぎないだろうと思っている。

※実は、今回の洞爺湖サミットの抗議活動に来ていた海外からの参加者と話していていて、こういった見解は強化されたんですが、その話はまた次の記事で…

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このページは、かすががJuly 10, 2008 11:43 PMに書いたブログ記事です。

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