博士はなぜ余るか? 日本の科学技術政策の10年に関する覚え書き

 いろいろありまして、久々のブログ更新です。

 現在、サイコムで、大学院ガイドを編集作業中であったりする。大学院進学を考えている人必読の書にしたいと思っているわけである。で、そこで一章、日本の大学院が置かれている歴史的な状況を解説する章をつけたいと思っていた。というのも、博士の失業率が高く、「余剰博士」という言葉まで登場する昨今、大学院に進学することが自分にとってどういう意味を持つかの検討なしに進学することはお勧めできないからである。といって、大学教授たちも先輩院生もあまりそのあたりのことを把握しているとは言い難いし、政府が十分な説明責任を果たしているというわけでもない。そこで、世界的に、あるいは日本において科学技術や大学院教育の持つ意味を若干なりと検討してみたいと思った次第である。
 しかしながら、残念なことにさまざまな制約から人様にお金をいただけるようなレベルのレポートは作成できないと思われた。そこで、科学技術政策史をちゃんとした論文にするのはまたの機会に譲ることにして、ここではその概要だけ説明しておきたい。具体的な数値やより詳細な経緯についてはまた詰めた上できちんと文章にしたいと思っているが、とりあえず「だいたいこんなもの」という流れを把握していただければ幸いである。

 …とっても長くなってしまったので、暇な人だけ読んでください。



 1970年代後半から1980年代を通じて、日本経済は世界を圧倒する存在となりつつあった。特に、日本に対する巨大な貿易赤字を抱え込んだアメリカでは、日本脅威論が盛んに語られた。所謂「ジャパン・バッシング」である。こうした流れはバブル経済の崩壊によって世界経済における日本のプレゼンスが低下する90年代中ごろまで続いた。90年代中葉以降は日本は経済的にも重要性を低下させ、争点はユーロ圏、勃興するアジア経済(Four Tigers と言われた韓国、台湾、香港、シンガポールを端緒に、巨大市場に成長した中国とインド)に話題が移行していった。これを「ジャパン・バッシングからジャパン・パッシングへ」と形容することもある。
 さて、80年代のアメリカが日本にかけた政治的圧力には、農産物の輸入など多岐にわたった(農産物の問題は非常に面白いトピックなので、いずれまた論じたい)。その中に、「基礎研究ただ乗り論」と呼ばれたものがある。第一に、当時の日本はGDP比で見た研究開発費(GERD)が少なかった。第二に、そのほとんどは民間セクター(つまり私企業)によって担われていた。そのため、日本は各国(主にアメリカ合衆国)が大金を投入して基礎を築いてきた科学技術のうわべだけを上手くかすめ取って製品にしたててアメリカに売り込んでいる、という非難が起こってきたのである。より直接的に「黄色いサルには基礎研究はできない。できるのは物まねとコスト削減だけだ」と匂わせる議論もあった。
 この時、アメリカが求めてきた条項はいくつかある。最も重要なものは基礎研究に対する政府支出を増大させることである。また、所謂「シンメトリー・アクセス」と言われた、研究者が相互に研究機関にアクセスで きるような環境づくりも求められた。優れた環境を研究者に提供できる大学や研究機関をCOE(センター・オブ・エクセレンス)と呼ぶが、アメリカの名だたるCOEはアイビー・リーグの諸大学やカリフォルニア大学など、大学が多かった。これに対して国際的に有名な日本の研究機関は(京大の物理学研究室のような数少ない例外を除けば)日立やNTTといった巨大企業が抱える民間の研究機関であった[注 逆に言えばこの時期、アメリカ企業の研究所は(ゼロックスのパロ・アルト研のような数少ない例外を除けば)国際的にあまり注目するべきものを持っていなかった。]。一般に大学であれば各国の科学者に短期のポジションを提供して相互交流と研究の活性化を目指すのは普通のことである。ところが私企業の研究所では、いろいろな企業秘密などもあり、誰でも受け入れるというわけにはいかない。このことが「非対称/アシンメトリー」であるとされ、是正が求められたのである。このことと関連するのが「人材のハーモナイゼーション」と称されるもので、日米の大学や企業研究所の人材交流にさいして、待遇の決定などを容易にするために資格の国際化が求められたのである。より具体的には、他の先進国に比べて圧倒的に少なかった博士号保持者を大量に増やし、企業研究者でも博士号保持者を中心にすることである。
 歴史を振り返れば長くなるが、ヨーロッパで博士というのはその道を究めた人物に与えられる称号であり、高齢になってから取得するのが普通であった。一方アメリカの大学制度では博士号は一種の「研究のための免許証」に過ぎず、博士課程を修了すると同時に取得するのが普通であった。戦後、特に自然科学におけるアメリカの主導権を反映して、ヨーロッパや日本でも自然科学の博士号は比較的低年齢のうちに出すことが多くなったが、それでも「博士」というのは簡単な資格ではなかった。ここにもアメリカの圧力は及び、まずヨーロッパにおいて、そして日本においても博士号の位置づけは徐々に変わってきたのである。
 さて、アメリカにおいて研究開発への政府支出が盛んであったといっても、その大半はペンタゴン(国防総省)とNASA(米航空宇宙局)を経由したものであった(ちなみに90年代に入るとNIH 国立衛生研究所がその重要性を一気に増大させる)。要は冷戦構造を背景に、要求しただけ予算が認められていた軍事技術である。ちっとも「基礎研究」ではない。当時アメリカ科学技術政策の基本となっていたのは「トリックル・ダウン(滴り落ち)理論」と呼ばれるものであり、とりあえず「最先端」の研究である軍事や航空宇宙技術に大金を投入しておけば、必要な基礎研究や工業製品はそこから勝手に生まれてくる、というものであった。80年代、日本でも盛んにアメリカの製品として、NASAの技術を応用したフリーズドライ食品や、寝ていても書けるボールペンが宣伝されていたのを覚えている方もおられるだろう(よく考えるとたいした技術ではないのだが、「NASAの技術を応用」というだけで魅力を感じてしまうものである)。しかしながら、実際はこのトリックル・ダウン・セオリーはあまり上手く機能しなかった。それはそうである。軍事産業で重要なのは実はド派手なこけおどしであり、あまり精度が要求されるたぐいのものではない。例えば巡航ミサイルの三割が上手く機能しなかったとしても、メーカーにクレームがくることはないであろう。しかし、冷蔵庫の三割が不良品であれば、その製造メーカーが長くないであろうことは誰にでも判る。したがって、アメリカ産業の没落は軍事産業に傾注しすぎたアメリカ自身の失敗であり、日本が非難されるいわれはない(安保という片務条約の問題を抜きにすれば、だが)という反論は当然成り立つ。
 しかし、こうした歴史にも若干異なる観点がありうる。「赤の脅威」を背景にした軍事支出というのは、あくまで議会向けのトリックであり、実際は科学技術の発展そのものを目的にした基礎研究に焦点が合っていたのだ、というものである。つまり、たぶんこのころのNASAでは「宇宙望遠鏡の予算が否決されそうだって? ブレジネフの頭を打ち抜くための照準機だとでも言っておけ」というような会話が交わされていたに違いないのである。この状況は実は人文・社会系でも例外ではない。当時500人の常勤研究員を抱える巨大シンクタンク、ランド研究所は左右を問わず良識的な人々からは道徳観念の欠如した天才たちが空想上の殺人ゲームにふける場所としてうさん臭がられていた。もちろんこれは8割方事実なのだが、一方でランド研究所は他の場所では潤沢に研究費を得られるとは言い難い研究を行うものにとっての天国でもあった(ランドが扱ったテーマとして、「ソ連のレンガの値段、サーフィン、意味論、フィンランド音韻論、猿の社会集団、玩具店で売られている有名なパズル「インスタント・インサニティ」の分析など」があった)。結局のところ当時、アメリカの大学に所属する研究者のかなりの比率がペンタゴンの出資する「国防関係の研究」という名目でかなり好き勝手やっていたと言える(それらの研究の殆どが現実的にはソヴィエト連邦にとってなんら脅威ではなかったであろう)。



 兎に角、そうした中で日本政府が打ち出した政策が、大学院重点化と科学技術基本法&計画である。前者は90年代初頭から始まったもので、シンメトリー・アクセスと人材のハーモナイゼーションに対応したものである。後者については、95年に議員立法として成立しており、科学技術研究費の増大にお墨付きを与えたものである。しかしちょっと待って欲しい、「ジャパン・バッシング」は80年代の話ではないのか、と思われた方も多いかと思う。まったくその通りで、90年代に入って、アメリカの日本叩きは農業分野を除けば、ほぼ終焉を迎えていた。この意味では大学院重点化もややずれた施策であったといえるし、後者に至ってはかなり間の悪い政策決定だったように思われる。しかしながら、時代の転換はいずれにしてもなんらかの政策を要求しており、そこにこれらの施策がはまることになった。なんとなく出来の悪い伝言ゲームを見ている気分であるが、それなりの必然性があったといえないこともない。ちなみにこういった「改革」が送れた原因はいくつか指摘されている。第一に大蔵省が支出の増大につながる政策に拒否感を示したためである。このことは議員立法で突破することと、科学技術政策のイニシアティヴを文部省(と科学技術庁)から内閣府に大幅に委譲することによりねじ伏せられた(らしい)。また、左派の強かった国立大学では国策や産業貢献という方向づけを与えられることに拒否感があったという点は否めない(ようである)。しかしながら、これも左派に支配された日本学術会議が事実上機能不全に陥ったことや、自社さ連立政権が誕生したことにより克服された(ということになると思われる。調査不足のため、はっきりしなくてすいません)。
 では、80年代に必要性が生じ、90年代に達成された一連の政策は、90年代の日本においてどのような意味を持っていたのだろうか? それを理解するために、ごく簡単に20世紀における科学技術の歴史を振り返ってみなければならない。19世紀から20世紀初頭に、人類の生活は大規模な産業の登場によって大きく変わってきたのは周知の事実であろう。これが現在の科学技術文明の基盤になっていることも疑いがない。しかし、これらの基盤を築いた人々の殆どは、実は「科学」とは無縁の人々であった。ワット、スティーヴンソン、フォード、エジソン、ヴァンダービルト、ロックフェラーといった初期のアントレプレナーたちはよくて高卒といった学歴で新しい企業と産業を興していった。一方彼らが産業技術の主人だとすれば、科学は貴族や僧侶たちのものであり、現実とはさほど接点を持たない、まさに象牙の塔の営為であるとされていた。
 こうした状況はもちろん紆余曲折を経つつもだんだんと変わっていく。産業技術の開発に「科学」の力が必要とされるようになったわけである。必要とされる知識はもちろん順次増大し、商品開発のために始めは大学卒が必要であるとされるようになり、次いで博士号が必須であると考えられるようになってきた。戦後しばらくのあいだはこうした「科学技術による人類の生活向上」はマルクス主義的理想主義と結びついて、バラ色の未来を創りだすととらえられていた。そうした思想家の筆頭であるマーティン・バナールはこの時期、いずれは人類の3割が科学者になるだろうと予想している。こうした予想は人類の進歩を強力に信奉するマルクス主義者であるバナールにとっては明るい未来でも、より現実的な社会科学者であるデ・ソラ・プライスにとっては懸念事項であった。20世紀を通じて、科学は労働人口、予算規模、論文や特許数、ジャーナルや論文数といった全ての面に渡って成長産業であったわけだが、科学の構造自体がこの「成長産業」としての側面に依存してきた。こういった依存を代表するのが人材管理システムで、企業や官庁であれば当然ピラミッド型のシステムを維持するために、実動部隊として働く若い労働者を数多くとった後、彼らは選抜されて組織の上部に行くほど人数は少なくなるようにできている。当然、出向などの形で辞めていったり出世できなかったりする人が出ているわけである。しかしながら、科学者たちは一般に大学ヒエラルキーで平社員に相当する大学院生から管理者に相当する教授まで、あまり落後することなく昇進していく。これは、第一には科学という存在が企業のようなマネージメントや上からの評価に適さないと見なされていたからであるが、より重要な点は、ほぼ全員が教授になっても、人員的に成長を続けている「科学」業界は、その教授それぞれが複数の部下を持つような成長を可能にしていたのである。
 科学の急成長を可能にしたのは、もちろん「人類全体の福利に貢献するものである」という科学の「マニフェスト」にある。しかしながら一方で、成長産業化するということは、より多くの予算を引き受けるということであり、それはより請け負い仕事的な側面を持つようになる。すなわち、科学の特質であったはずの普遍性、公共性よりも特定の国家や人口集団、企業などの利害を反映した研究という方向性を帯びてくる。成長状態にある科学というのは、公共性という科学の中核的な価値観が危機にさらされている状態でもあるということなのである。多数の弟子を育てる大学院というシステムが成立していることの背景には、こうした危機が隠れているのだが、少なくとも日本の科学者共同体がそういった危機に自覚的だったとは言い難いであろう(もし戦争による損耗がなければ節操なく弟子をとるジェダイより一人の後継者しか受け入れないシスの暗黒卿のほうがより道義的に正しいのである)。
 ところで、この予算面と人員面の拡大は、日本を除く先進国においては90年代初頭までにほぼ終結する(日本は現在も緩やかながら予算と人員が成長を続ける、事実上唯一の先進国である)。とすれば当然、それ以後に出現した若い博士号保持者は大学以外にキャリア・パスを設定する必要が出てくる。こうした状況は、欧米ではすでに80年代に議論されてきた。背景には、80年代後半には予算の増大が頭打ちになってきたことがある。最大の原因は、共産主義の脅威がだんだんと重要性を失ってきたので、議会はもはや国防という理由では簡単に予算案を承認しなくなってきていたことにある。「しかし上院議員、これは共産主義野郎の頭を打ち抜くのに絶対役に立つんですよ」「新聞ぐらい読みたまえ、博士。ゴルバチョフの死を願っている人間はもうこの国にはおらんよ」というわけである。
 こうしたことはすでに80年代から米英では議論が開始されていた。結果として、イギリスではどちらかというと科学者の平均的な給与を下げ、また高齢の研究者の退職をうながすといった方向で、ワークシェアリング的にこの問題を解消する道が選ばれた。これは、一定の水準を維持するという方向では貢献したかもしれないが、一方でノーベル賞級の国際的人材が数多くアメリカなどに流出するという結果も招いた。逆にアメリカでは、若手が大学以外の業種にスピンアウトすることを支援するという解決策が採用された。結果的に、これがその後の世界の趨勢を決めることになる。
 ちょうど、当時の研究のトレンドが航空宇宙から情報とバイオに移りつつあったのもこのころである。研究形態は実験物理や航空宇宙、海洋の時のような、絶対的な司令塔によって管理された数十人、数百人の科学者集団というものから、世界各国に散らばった相互に独立した研究者がインターネットで連絡をとりながら進めるというものに変わっていた。興味深いことに、製薬に代表される生物・化学系の産業の研究開発費は、激しい国際競争を反映して急騰し、巨大な多国籍企業とは言っても、一社で賄うには負担になり始めていた。それでももちろんスペースシャトルやSSCといった物理・航空系のプロジェクトよりは遥かに小さな単位の予算で動くプロジェクトであることには変わりがない。そこで一気に重要性を増したのがシータスやジェネンティクスのようなバイオ・ヴェンチャーである。大学を出た若い科学者たちは90年代に入って爆発的に膨張していた投資市場から巨額の投資を得て、自分たちの判断で次々とヴェンチャー企業を興し始めた。その多くはもちろん単なる失敗に終わったが、いくつかはPCRに代表される画期的な技術の製品化に成功する。いくつかの会社はパテントを管理することで収益を上げることで存続したが、多くの場合はデュポンやモンサントのような巨大企業に吸収されていった(モンサントはアメリカを代表する巨大企業の一つであるが、同社自体が非常にヴェンチャー的な特質を持ってもいる。これは面白い論点だがまたいずれ)。同様に、AOLやNetscapeのようなITヴェンチャーも注目を集め、バイオと情報がニュー・エコノミーの中核であるともてはやされるようになる。



 さて、日本の話に戻ろう。80年代、日本は世界市場からほどよい孤立を保ち、それが経済的な成功につながったというのが一般的な味方であろう。そのぶん、90年代に「グローバリゼーション」という大潮流に(善し悪しは別として)乗り遅れ、マハティールなどから「もはや見習う価値ナシ」とみなされる国になったというのは記憶に新しいところであろう。しかしながら、もちろん90年代、特に企業人たちがグローバリゼーションという流れを見逃していたというわけでもない。
 実は、こうした世界的潮流、すなわち「定常状態(成長の頭打ち)」やモード2化、それに、ビッグサイエンスの時代からヴェンチャーの時代へ、という諸々の事情に期待する企業経営者は少なくなかったのである。彼らの期待する未来においては、テクノ国家日本でもシータスやネットスケープのようなヴェンチャーが乱立し、科学技術において世界をリードすることになっていた。例えば、ある有名繊維系大企業の幹部で、自身も博士号を持つ某氏は科学技術基本法に関わる講演会で、「日本では構造改革が必須であり、大企業は2000万人規模のリストラを行う必要がある。そこで博士号を取得した大学院生たちが起こしたヴェンチャーによって今後10年間、毎年200万人程度の雇用を創出する」と述べておられた。まことに気宇壮大で、日本の大学機構に関わるものであれば武者震いを禁じえないであろう。だがちょっと待て、と思われた読者がいるとしたら、あなたは非常に正しい。「科学技術基本法って、そんな話だったっけ?」。もちろん違う。
 大学院重点化と科学技術基本法のそもそもの目的は、単純に「基礎研究ただ乗り論」に対応して、日本の基礎研究のスケールを予算面でも人員面でも他の先進国と遜色ない程度に引き上げることであった。だから、科学の方向性や育成される人材の種類については何も言っていない。従って、その方向の施策も特に用意されているわけではなかった。
 象徴的なのは科学技術基本法の策定に貢献の合った尾身幸次議員の著作『科学技術立国論』のヴェンチャーに関する項目で、ここで尾身氏は日本ではリスクを取る投資が難しいことなどを挙げて、税制改革やストックオプションの導入などを提言している。それ事態はもちろん重要な指摘であったのは疑いがないが、「それだけか?」という突っ込みは免れまい。肝心のヴェンチャーを担う人材については「そして次代を担う若者には、学歴や肩書きへの意識に捕らわれず、新しいヴェンチャーに飛び込む気概を見せて欲しいと思う」と言われているだけである。一応この項目の小見出しは「ヴェンチャー企業家を育てる」なのだが…。
 考えてみて欲しい。基本的に自分をプレゼンテーションすることや他人と違う部分を延ばそうとする教育を小学校のころから行うアメリカの教育スタイルと、自己を殺し、あらかじめ決められた回答を見つけることが重視される日本の教育の、どちらがヴェンチャーの下地を育てるか? また、このころアメリカの大学では戦略的に自然科学の学位と弁護士やMBAなどのビジネスに役に立つ資格の両方を取得することが積極的に行われていた。また、科学者集団のほうでもワシントンでのロビー活動などのために弟子が弁護士やジャーナリストに転出することを支援する土壌が合った。大学発ヴェンチャーに都合のいい土壌があらかじめ準備されていたと見るべきであろう。翻って、日本では企業同様研究室でも全人格的な帰属と献身を求めるのが一般的であり、「空いた時間に専門学校に」などという環境ではなかった。もちろん、こうした高度成長期から続く日本の風土の善し悪しの判断はいろいろあるだろうが、もしヴェンチャーの育成を望むのであれば、早めにそういう社会システムを調整しておくべきであったとは言えよう。また、基本的に貸与である奨学金システムもヴェンチャーには障害である。大学院5年間だけでも600万円(学部を加えると800万ほどになるだろう)。20年返還として毎年30万以上の返済ノルマは、投資機関のリスクを増大させている。
 結局のところ、産業界は科学技術立国という問題関心に政府と官僚が興味を示し、それなりの予算措置を行ったことに安心していた。政界官界は産業界からの要請にも応え、またアメリカからのガイアツにも対応できたことに満足していた。一方、大学業界は(吉川弘之氏のような重鎮は別であろうが)わけも判らず予算が増やされたので喜んで使ってしまったわけである(確かに私も母親に買ってこいと言われたものを忘れたとき、自分の食べたいものを買って帰るが、それとおんなじようなものだろうか)。結局のところ、産官学連携という掛け声に反して、これらの三者は伝言ゲームも満足にできない関係しか築いていなかったのであろう。
 私にとって、そうしたことが明確になってきたのは(うかつにも)ちょうど2000年ごろのことである。科学技術基本法では「科学技術基本計画」という懐かしの五カ年計画を(今どき)定めることになっていて、それの第一回が2000年で終了したわけである。この時、文部省改め文部科学賞は誇らしげに発表したものである。「第一次科学技術基本計画は研究投資の数値目標である十七兆円を達成して、成功を収めました」。…買い物競走かいっ!! つまるところ、科学技術基本計画の根本は予算規模で欧米に追いつくというものでしかなく、その予算措置によってなにかを目指すという枠組みは提供していなかったのである。
 95年前後、政財界の人々から、日本の教育システムは脱亜入欧の時代から高度経済成長期まで、欧米のキャッチ・アップには適していたが、新しい価値を創出していく人材を育成するのには十分ではないという認識が示されることが多かった。たぶん正しいであろう。従って、この時日本はアメリカ型の研究開発と教育システムの導入という、キャッチ・アップをやめるための最後のキャッチ・アップに挑戦したと言えよう。そして結果は、みなさんもご存知の通り、失敗に終わった。だいたいの博士号取得者は企業社会に歓迎されず、といってもちろん大学が吸収できる以上の数が生産されたために、人材のダブつきが生じている。もちろん、プレゼンやマーケティングの訓練を受けているわけでもなく、ビジネス英語が得手というわけでもない日本の博士たちは内外の投資市場から資金を調達することも難しい(中国人やインド人の遥か後塵を拝しているといえよう)。昨今は、「余剰博士」という、実に適切に状態を説明した語意も出現した。今後、日本の大学はどこへ向かうのであろうか?
 昨年来、産業技術総合研究所の技術と社会研究センターで「研究者のノンアカデミックキャリアパス」というプロジェクトが発動した。若手研究者自身の参加を募るとともに、アメリカなどにも調査に出かけるという総合的なアプローチが期待されたが、昨年度末、技術と社会研究センター自体が不可解な理由で閉鎖されてしまった。「研究者のノンアカデミックキャリアパス」自体は紆余曲折の末、なんとか継続されるようであるが、こうした問題に対する日本社会の対応を象徴するような出来事であるといえよう。
 日本では「責任」という言葉が嫌われるが、「誰が状況を打開できるか」を考えることは重要であろう。もちろん、余剰博士自身の努力は必要で、過度な競争社会に突入してしまった世界情勢の中で余剰博士にだけ救世主が顕れるなどということはあり得ないだろう。しかしながら、旧態依然とした大学制度と過剰で不明確な期待のもと次々と送り込まれてくる新たな大学院生、という状況下で当事者にさほど努力の余地がないのも事実であろう。それに対して、大学機構そのものには多く改革の余地がある。例えば、名称だけ学際的で現実はタコ壺の寄せ集めという「学際」研究科ではなく、現実社会の問題に対応する形でカリキュラムが編成され、複数の専門分野に通じた真の学際的人材を生み出せるような研究科への改変は一つの解決策になるであろう。大綱化により大学の設置に自由度が増したと言われるが、実際そこで行われているのは官僚と学者の腹の探り合いに過ぎない。そうではなく、もっと一般の人々の目に触れる形で両者(および産業界や一般の人々自身)が大学のあるべき姿に関して議論を交わし、目標を共有することが必要であろう。


関連書籍
 尾身幸次 1996 『科学技術立国論: 科学技術基本法解説』 読売新聞社 [Amazon]

 ジョン・ザイマン 1995 『縛られたプロメテウス: 動的定常状態における科学』 シュプリンガー・フェアラーク東京 [Amazon] / / [bk1]

 村上陽一郎 1999 『科学・技術と社会?文・理を越える新しい科学・技術論』 光村教育図書 [Amazon] / [bk1]

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このページは、かすががAugust 7, 2004 10:00 PMに書いたブログ記事です。

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