STS (Science, Technology and Society)の最近のブログ記事

「オルタナティヴな専門家は可能か?」として、STS Network Japan とSTS学会の合同シンポジウム公開シンポジウム「東日本大震災から科学技術と社会のこれまでを考える」(2011/06/18)で発表しました。
 その時に使用しましたスライドは以下の通りです。


 …「万年助手」がらみのところはスライドだけ見ると当事者に大変失礼に見えるかも知れません。すいません。

 最近、ブログがそればかりですがNPOサイエンス・コミュニケーション・ニュース 2009年7月27日号 vol.1に「Twitterの誘い。日本にも現れた気軽な公共空間」を掲載しました。

 140字という制限のあるミニブログ、Twitter が日本でも人気を延ばしている。
 140字という制限があるいっぽうで、ウェブ・ベースのサービスであるためメッセンジャーとちがって相手の時間を拘束せず、「ゆるく」つながれることがメリットである。
 世界初のブログサービスの一つで、その後、Google に買収された Blogger の創業者らによって、2006年にサービスが開始されたが、昨年はアメリカ大統領選でオバマ氏らが利用したことでアメリカでも急速にユーザー数を増やした。
 今年に入って、日本でも数人の国会議員が使い始めたことで、新しい動きを見せ始めた。


続きはまぐまぐのバックナンバー

[SciCom News] No.302 2009年7月13日号の巻頭言として、拙稿「全国学力・学習状況調査」に見る学力観の転回

 2007年から小中学生を対象に行われている「全国学力・学習状況調査」は、毎年、極めて大きな論争を呼び起こしている。  しかしながら、残念なことにこの国民的な注目は、主として学校ごとの成績を公開するかと言った、あまり本質的ではない問題に収斂する傾向があり、我が国に於ける教育がどうあるべきかといった根本的な議論はなおざりにされているように思われる。  筆者自身は、「全国一斉に、統一の問題で学力調査を行う」ことの意義には極めて懐疑的であるが、平成21年度全国学力・学習状況調査に関して言えば、その潜在的な制約の中で極めて大きな一歩を踏み出したと評価することが出来ると思っている。  今回のテストのもっとも大きな特徴は、試験内容が徐々にPISA型に舵を切っていく、という明確なメッセージが読み取れる点である。
 つづきはまぐまぐのウェブサイトで…。


[SciCom News] No.301 2009年7月6日号 vol.1の巻頭言として、拙稿『 「批判精神」と科学的合理性』が掲載されました。

 異分野の人々と話していると感じるのは、同じ言葉がまったく異なる意味や印象を持っていることが少なくないということであろう。

 こういう「カルチャー・ショック」は、もちろん、自分自身の見聞を広げるのに有効であり、双方向的なコミュニケーションの醍醐味であるといえよう。理工系と人文・社会系のコミュニケーションの現場でしばしば出会う、、私のように人文・社会科学の伝統に属しているものにとって一番の驚きは、「批判」という言葉の、理工系の人々の間でのイメージの悪さである。

 ただし、これは理工系の人々のほうが日本社会で一般的な感覚に近いのかとも思う。

 人文学にとっては、カントの主著が「三批判」(『純粋理性批判』『実践理性批判』『判断力批判』)であることからも分かるとおり、「批判」というのは(おそらく経験科学にとっての「実証」と同じぐらい重要な)学問的営為の根幹をなすものである。


 つづきはメルマ!のウェブサイトで…。

 Domon blog -Formerly known as Dog year's blues-: 不作為による危害に責任はないのか?という記事からヴァンダナ・シヴァ氏を紹介した拙稿にリンクを付けていただいたようです。
 今年2月の記事で、ややタイミングを逸してしまったかもしれませんが、気がついたのが最近と言うことで、急ぎ、コメントを書かせていただきます。

 ブログのような主張はサイエンティストに一般的なもののように思われますが、背景には「我々は科学を知っている。一方で、彼らは非合理な野蛮人であり、行動や主張に合理性があるわけがない」という憶見があるように思われます。
 本記事で、別にヴァンダナ・シヴァらの主張を支持するようになれと説得するつもりはありませんが、自分とは立場の異なる人々の主張にも、一定の合理性があるという前提で解釈してみようとすると、世界はだいぶ広がるんじゃないか、という主張はさせていただきたいと思っています。

 もちろん、ヴァンダナ・シヴァを初めとした第三世界の有機農法普及活動家が主張しているのは「多収量品種を使った近代農法や遺伝子組換え作物より、有機農法のほうが安全だ」ということなわけですが、この「安全」は単に人体にとっての安全ということだけではありません(というか、人体への安全性の部分のウェートはあまり大きくないと思ったほうがいいと思います)。
 具体的に見ていきましょう。

私の勤める阪大CSCDも参加して、デンマークのデンマーク技術委員会(Danish Board of Technology)が呼びかけた「世界市民会議 World Wide Views」が行われますが、そのFaceBookコミュニティができています。
 ディスカッションのページでは、

Yes, I know, WWViews is all about involving citizens in the debate.
But what do you think? Is it worth it? Are citizens capable? Should climate policy be handled only by experts, who knows what they are talking about? Or should citizens be the core participants of such a debate?
Please - give us a heads up!

 もちろん、WWViewsは市民を議論に巻き込むためのものです。
 しかし、貴方はどう考えますか? それは価値があることでしょうか? 市民にそれが出来るでしょうか? 気候に関する政策は、自分たちがなにをしゃべっているかちゃんと理解している専門家だけが携わるべきなのではないでしょうか? 市民はそういった議論で核になる参加者になることが出来るでしょうか?
意見を下さい(※"give us a heads up"って、こういうときも使うの??)
 という議論が提起されています。
   FaceBookは誰でも参加できるSNSですので、関心のあるかたは是非参加して、ご意見をお願いします。
NPOサイエンス・コミュニケーション・ニュースNo.297の巻頭言として、「サイエンス『カフェ』は何処にあるか?」という記事を書きました。

 サイエンス・カフェ(あるいはフランス語で「カフェ・シアンティフィーク」)はすっかり日本に定着したように見えるが、「カフェは公共空間である」ということの意味は十分に伝わっていないとも言われる。もちろん、一から十までヨーロッパの物まねをする必要はないが、なぜサイエンス「カフェ」でなければいけなかったかについて、すこし考えてみることも有益だろう。ここでは主と してセネットの『公共性の喪失』に沿って歴史を振り返ってみよう(以下、ページ数は同書)。一つ重要な点は、「カフェが公共空間である」というのは、ヨーロッパにおいても過去の話になったと考える人が多いと言うことである。その上で、公共空間としてのカフェを取り戻そうという思想が、サイエンス・カフェや哲学カフェ運動の背景にはある。[もっと読む]

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