ADB京都総会・市民フォーラムはわりと成功だったんじゃないかと…

People's Forum on ADB in Kyoto

 ゴールデン・ウィークもあけて、なんとかADB京都総会・市民フォーラムも全日程を終了である。
 国際機関の総会に合わせてNGO集会を開くというのは、国際的には一般的になっているが、日本でこれだけ大規模に行えたのは初めてのことだと思われるので、この点、評価できよう。
 最初のうちはやや妖しかった主催団体や参加団体相互の連絡も、最終的にはかなりスムーズになったという実感があるのではないかと思う。
 たぶん、最初のうちはアジア開発銀行に対してどこまで否定的な論調を出していいものか、各団体ともやや決めかねていたのだと思われるが、海外団体からの要請(是非デモをさせろとか…)などもあって、結果的にはADB総会との対立軸が明白になって良かったのではないか。
 中途半端な議論をするよりも問題の軸ははっきりすることで議論は促進されるし、メディアにも取り上げられやすいというポジティヴな副作用もある。

 実際、いくつかの新聞が取り上げてくれたようである。
ADBによる開発問題を考える 環境NGOら 同大でシンポ(京都新聞)
アジア開銀年次総会NGOが対抗シンポ(読売新聞)
ADB総会:"京都デー" 光と陰と 伝統・革新PR/NGO「施策で悪影響」(毎日新聞)
アジア開発銀行年次総会で「京都デー」 市内ではNGOがシンポ(産経新聞)
 ※いずれも地方版ではあるが、読売はデモの様子まで含めて取材している。一方で朝日は記事なしってのは、どういうことだ!?

 5日のシンポジウムはかなりの大入り(250〜300人ぐらいか?)だったわけだが、中には、「ADBってなんだか分からないけど、新聞で騒いでいるし、40周年だと言うからちょっと参加してみるか」というような「普通の人」層もだいぶ混じっていたようである。
 そういう人には(特に日本的感覚からすると「40周年でお祝いだと言ってるのにネガティヴなことを言う」ことに)違和感の残る集会だったような気もする。
 開場からの質問用紙には、特に、全ての第三世界債務は正統ではない(Illegitimate)であると論じたジュビリー・サウスのリディ・ナクピル氏に対して「悪いところばかり取り上げるが、いいこともしているのではないか?」という質問が集中したようである。
 もちろん、バングラデシュのフルバリ炭坑開発の事例ではデモ隊への発砲で死者まで出しており、そのことを報告した論者がいる前で「文句ばっかりいってるんじゃないか?」と質問してしまうと言う「ブルジョア的冷酷さ」(…久しぶりに使ったな、この言葉)には不快感を禁じ得ないが、一方でそういった聴衆を納得させる論旨ももう少し必要であったという気もする(「よいこと」のアピールに関してはADB自身や日本政府がもうちょっとまじめにやった方がいいと思うんだけどね。アジア各地で無駄な「公共事業」を続けているという事実が明るみに出るのが怖くてやれないのだろうか?)。

 ADBや世銀、各国のODAが抱える問題は二つあって、一つは汚職や独裁者を支援するような開発(日本は特にインドネシア、フィリピン、ビルマ等への援助で悪名高い)や環境破壊をもたらすような開発の問題である。
 これはマスメディアに衝撃的に取り上げられることによって印象深い(デモ隊への発砲、なにもないジャングルにそびえ立つさび付いて使われていない発電所、ダム建設で先祖伝来の土地から追い立てられる先住民、と言った図はメディア的に「美味しい」素材であろう)。
 しかしながら、より本質的な問題は、先進国型のインフラ開発と自由貿易による発展という開発モデルが第三世界においても望ましく、かつ可能(より本質的には持続的なものとして可能)かという問題である。
 恐らく、前者の問題は後者の問題の従属項にすぎず、本質的な問題は世銀やADBの設立および運営ポリシーにあるのであろう。
Demonstration (People's Forum on ADB in Kyoto)

 さて、ではADBのような機関は今後「粉砕されるべき」かというとここで議論は分かれる。
 たとえば、ADBの総会の折にはASEAN+3の蔵相会議も開かれる(要するに看板が掛け変わるだけでメンツは同じだから)のだが、京都では昨年の会議(南インドの都市ハイデラバードで開かれた)で提起されたアジア通貨基金構想に近いものが実施されることがほぼ決まったようである。
 これは恐らく、短期的にみればアジア経済の安定に貢献するのであり、おそらく貧困層に対しても一定の恩恵がある(通常、先の記事でもパトマキ氏の言葉として述べたとおり、変動相場制の利益をより多く享受するのは投機的取引を行える富裕層である一方で、いったん通貨危機が起これば被害は貧困層の生活に直撃する)。
 したがって、ATTACとしてもこの結論は歓迎声明を出すべきことがらに見える。
 地域ごとに通貨統制能力が高まることは、おそらく通貨取引税などの導入の弾みにもなるということもあるかも知れない。

 しかし、開発インセンティヴを強化し、第三世界をグローバル経済により強く組み込むことが問題である、という先の立場からすればこれは大いに問題である、と主張することはできるだろう。
 このあたりで、「オルタグローバル派」の即席の連帯はやや先行きが怪しくなるのである。
 「ADBって食べられる?」という無関心層にどのようなアピールをするかということと、こういった議論をある程度つめていくかということは割と深刻な問題であろう。

 余談だが、アジア通貨基金構想は90年代に日本と東南アジア諸国(特にマレーシア、シンガポール)が積極的に推進し、アメリカに粉砕された計画そのものである。
 こういうことが(ハイデラバードでは主にインドのイニシアティヴで)可能になってきたというのは、印中をはじめとした第三世界諸国(の一部)の発言力の増大と、アメリカの世界支配能力の凋落を印象づける(朝日新聞の報道ではピール米財務次官補代理が「ADB、ミニIMFになる必要ない」と述べており、やっぱり嫌がってはいるようである)。
 90年代の「敗戦」以降、日本のエスタブリッシュメントはアメリカに抵抗する意志をすっかり失ってしまっているようであるが、この先どのようなタイミングで世界政治に復帰するか、大きな課題であろう(とかいうと右からも左からも嫌われるのであるが…)。

トラックバック(0)

このブログ記事を参照しているブログ一覧: ADB京都総会・市民フォーラムはわりと成功だったんじゃないかと…

このブログ記事に対するトラックバックURL: http://talktank.net/mtype/mt-tb.cgi/261

コメントする

このブログ記事について

このページは、かすががMay 7, 2007 7:11 PMに書いたブログ記事です。

ひとつ前のブログ記事は「『通貨投機・金融自由化に対抗する: アジアのネットワークを』報告」です。

次のブログ記事は「明日からイギリス(ロンドン&リーズ)出張です」です。

最近のコンテンツはインデックスページで見られます。過去に書かれたものはアーカイブのページで見られます。

Powered by Movable Type 4.27-ja