科挙幻想の周天運動狂想曲

小4〜6年生の4割「太陽が地球の周り回っている」
指導要領に問題ないと反論 天文知識崩壊で文科省

 小学生の四割が「天動説」を信じている! 国立天文台の縣(あがた)秀彦助教授らが行った理科教育の実態調査で、小学校四−六年生の40%以上が「太陽が地球の周りを回っている」と思っているショッキングな実態が明らかになった。(中略) 今年二月と四月に、北海道、長野、福井、大阪の四道府県でアンケート調査(四校、対象児童三百四十八人)を実施。「地球は太陽の周りを回っている」「太陽は地球の周りを回っている」の二つの選択肢から正しい方を選ぶ設問では、42%が“天動説”を選択した。

 これに対して文科省すぐさま反論。こういうときだけ手際がイイ。

 御手洗氏は「自転や公転を体系的に理解するのと、単なる知識として地動説を知っているのとは別」と強調。「中学校で観察を行い、天体の動きを理解させている。指導要領の全体構造を見てほしい」と語った。さらに御手洗氏は「ただ、知識の問題ならば、日常生活の常識としてどこで教えていくか。家庭や大人との会話などで教えていくという問題を、もっと考えることが必要とは思う」と述べた。

 たしかに「体系的に理解するのと、単なる知識として知っているのとは別」なのであり、縣氏の「調査」には「知識」というものの本性についての前提条件に問題があろう。しかし、御手洗氏の反論は、「家庭や大人との会話などで教えていくという」チャンスを長らく奪ってきたのは文部科学省の政策であり、学歴の時代は終わったといいつつも教育制度が未だに大学受験を中心として組み上げられてきていることの問題をきれいに無視しているように思われる。

 本当の問題は天動説ではなく「『太陽の沈む方角』(東西南北から選択)の正答率が65%にとどまる」という事実のほうであろう。正直な話、自分自身も生活世界における事実として「天動説」を了解したことがないし、たぶん死ぬまでにそういうチャンスはないと思う。しかしながら「毎日太陽が決まった方向に沈み、それを西と呼び習わす」という事実は(それを「科学知識」と呼ぶべきかはいささか疑問なしとはしないが)、この世界で生きていくため、あるいは人とコミュニケーションするために必須の知識と見なして構わないと思う。また、本来それは文科省が説明するように、「日常生活の常識としてどこで教えていくか」という問題でもある。そしてどうも私には、西を知らない子どもたちというのが、一人で遠出したり、自分の生活世界の構造を把握したりという意志に乏しい子どもたちなのではないかという気もするのである。

 ずいぶん昔読んだ記事で、植物学の大学教授が、生物学を志して入学してくる学生たちが木々に触った経験をほとんど持たず、木々の見分けもつかないことを嘆いていたことがあった。教授の危惧は正しいが、それを「現代っ子の気質」や親の教育の問題に帰していることに強い違和感を持ったので、エッセイが今でも記憶の隅から離れていかない。木々を知らない植物学者や暗やみで星に見入ったことのない天文学者をつくっているとしたら、それまでの教育課程を著しく制限している大学入試過程にあると考えないのは奇妙である。そして、仮にそう考える学者があったとしても、その改革の責任を文科省に転化してきたのは(そのくせ自分たちの給与や人事権が脅かされたときだけ慌てて「大学自治」を持ちだすのは)さらに奇妙である。同様に、記事中芳沢光雄東京理科大教授が「『ゆとり教育』は問題だが、子供の興味、関心、考える力をどう養うかという取り組みを省略すると、学ぶ量が増えても知識を注入する『詰め込み教育』になるだけで、何の本質的な解決にもならない気がする」と述べている一方、その責任を「専門知識や人生経験に裏打ちされた教える側の力量や深みが伴う問題だ」と初等教育機関の教師に帰し、制度的な問題に言及していないことには違和感を感じる。

 「ゆとり教育」論争が囂しいが、反対派と称するグループも賛成派と称するグループも、これまでのカリキュラムの量的増減にこだわって、ポスト高度成長期にあるべき教育とはなにかを議論するということがほとんど見られない。自分の目は太陽系を俯瞰して見られると誇れるならば、この政治局面に於ける思慮の浅さを反省することはできないのだろうか? 長い大学信仰の当然の帰結として、本来人々の生活が持っていた教育能力が衰退の一途をたどっていることは明らかに思われる。であれば、少なくとも大学人が、すべての人間の能力が均質なパラメーターで計測可能であるという科挙的思考の呪縛からは解き放たれなければ、子どもたちの学ぶ力もまた返ってこないのではないだろうか?

【追記】
 先に挙げたリンク先は産経新聞の記事だが、朝日新聞の記事では次のコメントに触れている。

 都市部ほど正解率が低い傾向があり、縣・助教授は『夕日が沈むのを見るような自然体験が子も親も失われている。情報があふれる一方、テレビやゲームなどに時間を奪われ、身近な現象を学ぶ機会が減っている』と指摘している。

 記事では混乱しているが、これは「太陽が沈む方向」問題への言及だろうか? いかに「身近な現象」を凝視しようが、99.999パーセントの人間は絶対に地動説にはたどり着かないと思う。ちなみに産経がピックアップしている縣氏のコメントは以下の通り。違いが興味深い。
縣助教授は、「今は月の満ち欠けの理由は小学校では教えていないが、四−五年生で理解できる。現行の学習指導要領の授業の範囲が“平らな地球”からの宇宙観にとどまり、地球が丸いことや自転、公転していることさえ扱わない」と問題点を指摘。そのうえで、「テレビなどでは宇宙の映像に触れる機会も多く、日常生活で得た知識と授業内容が結び付かない。理科の授業で太陽、地球、月の全体像を教えないことが理科嫌いを招く原因ではないか」と話している。

【追記 その2】
 その後いろいろ考えて、ある種の「能力測定」重視の文化が日本にあるのは事実だが、それが「入試制度」や大学のせいばかりとも言えない気もしてきた。「AO入試の成果を検証する」は「『10年前と比べると、AO入試受験者の迫力が欠けてきているというのが、率直な感想です』と河添教授はもらす。『その最大の理由は、高校、予備校などでAO入試の対策指導を強化していることです』」というコメントを載せている。ようするに大学がいかに入試を工夫しようと、高校や受験産業がその裏をかくようなことをしまっては意味がないわけだが、その責任はだれにあるのか、というのは非常に難しい。日本でAO入試と称するものが、アイヴィー・リーグのような徹底した人物本位の入試制度になっていないという問題はあるのかもしれない。しかしながら、そういった体制が一朝一夕に組めるわけでもなく、また日本の大学はそれらの大学と比べて圧倒的に原資に乏しい。この問題はもう少し調査してみる必要があるだろう。重要な問題なのだが、最近、80年代よりこのことについての社会的な議論が減っている気がする。「大学全入時代」を迎えて、社会の関心が大学入試という問題に向かなくなっているのだとすれば、残念なことである。
 それと別の場所に「たぶん、日本以外のほぼすべての国において、高等教育を受けることは社会のため国家のためであり、ひいては地球と人類のためだったりするのだが、我が国ではもう、純然と「自分のため」でしかないと認識されているということがあろう」と書いたが、「能力測定」文化の問題の根幹もそこかな、という気もする。つまり、社会契約論をベースにした社会では、「能力がある」→「社会の役に立つ活動ができる」→「そういう活動をしやすくするために/そういう活動をするインセンティヴを与えるために、高い地位と人々の尊敬が与えられる」というものであるが、日本では「能力がある(ことを証明する)」ことがすなわち特権の正統性であるという感覚が強いような気がするのである。例えば、偉い人が飛行機でファーストクラスを使えるのは、彼が地上にいる間はその能力をフルに使わなければいけないからで、もし休息が与えられるような社会的地位しかなければビジネスを使うべきだ、というのが契約論的にまっとうな感覚で、「ファーストにのってしかるべき地位にある人はスケジュールに関わらずファーストに乗るべきだ」というのは、やや封建的な考え方なのではないか?
 同じ思想のもう一つの側面が、 開発援助のNPOなんかでも「ヴォランティアでやるべきだ。そういうことでお金を貰うのはけしからん」という感覚である。これも社会をスムーズに動かすためには「いいことを遺漏なく行える人がいる」→「彼/女がお金や地位という面でより自由に動けるようになれば、社会はより良くなる」→「もしお金と地位を与えることによって事態が好転するようであれば、さらにそれを進める」→「そのプロセスを事態の好転度が減速するまで行う。それが最適解である」という経済合理性でマネージする必要があるところなのだろう。ところが、お金や地位を与えることが、それまでの功績に対する恩賞としかとらえられない社会では、「恩賞目当てに弱者を利用していたのか」という反発になる。この反発心は一面では正しいが、この社会には合理性が反発心に勝るべきケースは多々あるのである。
 ちょっと話しがずれてきたのでここまでにしたい。

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昨日のニュースだが、これって、目くじら立てて指導要領の修正を求めるほどのことか?? もっと大事なことは他にもあるだろうに? 続きを読む

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このページは、かすががSeptember 24, 2004 8:40 PMに書いたブログ記事です。

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