「大学と社会の再契約: 触媒としてのNPO」『インパクション』138号

「大学と社会の再契約: 触媒としてのNPO」
『インパクション』138号 特集:解体される大学 (p.25 - p.27)  インパクト出版会 2003年10月27日  [Amazon] / [bk1]

 ちょうど昨年の今ごろ『インパクション』138号に掲載されたものです。
 こんど阪大でお話することのテーマにも関わりますし、一年たてばそろそろいいだろう(わたしの原稿を目当てに買う人もいないだろうし)ということでこちらに転載します。価値を認めていただけたらこちらから購入してくださいませ。


大学と社会の再契約: 触媒としてのNPO (ver 1.01)
 春日匠(NPOサイエンス・コミュニケーション理事)
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 「学問の自由は守られなければならない!」 こう、高らかに宣言したとしても、反対する市民は多くはないだろう。ところが、学問の自由を守るための国立大学法人化反対運動は、市民の十分な賛同を得るにはいたっていないように見える。このことの意味を少し考えてみたい。
 まず、大学の今後を考えるならば、産業技術や科学技術創造立国政策の中で強調される「国民のニーズ」と、もう少し一般的な科学技術に対する社会のイメージのあいだとのズレは十分に理解したほうがよい。もちろん、大半の市民は経済状態や企業活動が多少圧迫されたとしても、公害や食品の安全性といった問題の研究に十分な資金が拠出されることを望んでいるにちがいない。また、科学をあつかったテレビ・ドキュメンタリーや伝統ある『ナショナル・ジオグラフィック』誌のような雑誌は多くの一般市民を魅了している。これらのなかに例えば蝶の生態や古代の人々の服飾など、あまり実用的とは言えない分野の研究者も登場するが、彼らが貴重な研究費を浪費していると非難する市民は決して多くはないだろう。直接的な競争力や経済効果につながらない研究分野は市民の理解を得られないなどと考える必要はなさそうである。世の中は,決して大学の役割を狭く押し込めようとはしていないのではないだろうか。
 では、なぜ大学制度を守ろうと言う議論は人々の関心と共感を十分に呼んでいないように見えるのだろうか? もちろん、日本の大学が国際的な水準に到達していないといったメディアが言い立てる法人化推進論の根拠の多くは、事実とかい離した、一種のプロパガンダである面は否定できない。しかしながら、そういった定型的な語り口に仮託された、市民の多くが抱く大学に対する不満を見過ごすべきではないだろう。日本の大学が抱える最大の問題は、人々の学問に対する関心を過小評価し、「知の受益者」としての市民のイメージをまったく欠いていたこと、その結果として市民に自分たちのメッセージを訴えかけてこられなかったことではないだろうか。
 例えば、これまでのところ、法人化反対論はかなりの部分、大学関係者のみのものであって、市民が積極的に介在することはなかった。しかし、これは誰の責任だろうか? この状況に対して、大学関係者がなにをしたかを考えてみるべきであろう。一例を挙げれば、大学教員の有志が数千万円を集めて、独法化反対を訴える新聞広告を打ったのは、大変象徴的な出来事である。研究者としても人間としても尊敬できる方々が多く参加しており、また議論されている内容については大いに同意できる点も多かったのだが、残念ながら市民の共感を得るための手段として新聞広告が適当であったとは思えない。
 多くの市民や学生はまず「大学教授って、なんだかんだいってもお金を持っているんだな」と思ったのではないだろうか? そして、そのお金は大学の理念を守ることよりも自分たちの地位を守ることに費やされていると感じたのではないだろうか? この大学教員有志の広告に限らず、独法化反対論の中では、経済原理が導入されることにより教育の機会均等などの基本的人権が脅かされる可能性が指摘されている。このこと自体はむろん、異論のありようのない指摘である(政府がこの懸念に十分に答えていると思っている市民は多くないだろう)。しかし、だとすれば不況下で悪化する一方であると報じられる学生の経済状態について大学教員たちがなにか積極的な議論を行ったと言う記憶を、我々がほとんど持っていないのはどういうことだろうか? 特殊法人改革の関連から、日本育英会についてはまだしもメディアなどで言及されることも少なくないが、同様に重要であると思われる国立大学の学費免除制度が縮小の一途をたどっているという事実への言及はほとんどない。このことは「地方経済への効果」を理由に公共事業の存続を掲げる政治家らが実は自らの利権を保持し続けたいだけなのではないかという疑いを喚起させるように、大学教員の公正さに対する疑いを喚起させるだろう。
 また、「広告」という一方向的なメッセージに依存した点も問題であろう。政府や官僚ですらも、少なくとも表面的には政策立案に対して、社会の多様なセクターの声を反映させようと努力する時代に、一方的な告知・宣伝が理解を得るための適切な手段であるとは、私にはどうしても思えないのである。その資金を、例えばシンクタンクを創ったり、市民も参加した会議を継続的に開催したりするなどして、社会のいろいろな声を反映した政策を作り上げることに使ったほうが、何倍も意義があったと思われるのである。
 もちろん、私は大学関係者が社会にメッセージを発していくことを否定しているのではない。ここで提起したいのは、大学関係者はもっと社会に出ていくべきであるということなのである。その際、民間企業との研究協力といった形態を否定するつもりはないが、最初に述べたように、市民のニーズはより多様である。そういった、市民の多様なニーズを掘り起こすためにNPOという形式が有効であると考え、若手の研究者が主体となって「サイエンス・コミュニケーション/サイコム・ジャパン」というNPOを設立した。
 具体的な活動については、ウェブサイト(注)などを参照してほしいが、サイコム・ジャパンを創ることで我々が提示したかった理念を述べれば、アカデミズムがもう一度、社会と契約を結び直すべきだということである。つまりに、アカデミズムに何ができるかを、これまでの知の蓄積と社会の実情の両方からもう一度、社会全体の課題として(つまり市民とともに)考え直し、それを社会に向けて提示していくことが重要である。そして、このとき、そのための人材育成や研究コストも明示的にしていく必要があるだろう。そこで、社会が大学の意味を積極的に議論し、また理解したうえで、そのコストを負担することに意義を感じるようになれば、そこから大学の再生は始まるだろう。
 では、なぜ大学と社会の再契約が必要になったのであろうか? この背景には、実は二つの原因があることを考えなくてはならない。一つには、大学や科学全般に対して社会が負担できる資金が頭打ちになっているという事情である。これは、先進国ほぼすべてに共有されている歴史的な流れであり、この結果として大学改革という流れも、おおむね共通していると見てよい。研究活動は20世紀を通じて、ほぼ一貫して成長産業であった。19世紀までは人口のごくわずかな割合が半ば以上趣味で携わるに過ぎなかった研究活動が、20世紀に入ると国家戦略や産業活動との結びつきを順次強めていき、社会生活の根幹や人々の日常生活に深く関わるようになってくる。むろん、このことによる恩恵は計り知れないが、同時に研究開発のコストは国家経済を圧迫するようになる。また、大学院という制度は、一人の研究者がより多い研究者候補を育成すると言う、ポジティヴ・フィードバック型のシステムである。このことは研究者人口が一定の増加を続けている間はあまり問題にならないが、研究者人口が頭打ちになると、どうしても博士号取得者が余ってしまうことになる。欧米ではこれらの人材を民間企業、ヴェンチャー、NPOなどに吸収させることで解消した。また実際に、専門分化が進んでいるヴェンチャーやNPOなどでは、博士号レベルの知識が必要であるとされ、国際的にはむしろ博士号取得者を増やすことが奨励されるようにもなった。
 こうして各国とも、大学の規模を安定させつつ教育活動を続けることにある程度成功したわけであるが、日本の場合もう一つのことが問題になってくる。すなわち、終身雇用、OnJT / On the Job Training、ジェネラリスト指向などを特徴とする日本の雇用形態のなかで、大学院が中途半端な存在になってしまっていることである。大学院で養成される研究者は一般にスペシャリストであり、日本社会が信頼するジェネラリストではないのである。この状況が社会と大学のあいだの人材や情報の流動性を阻害し、大学を孤立させることになっている。単純に考えれば、この問題の解消には二通りある。第一にはスペシャリストが活躍できるようなシステムに変えていくことであり、第二に大学がジェネラリストを養成することである。
 しかし、実践的な解決策はその両者の中間にあるだろう。つまり、研究者はもう少しだけジェネラリストになり、一方でスペシャリストが社会に貢献できることを立証していくのである。実際、欧米の大学院教育のカリキュラムは「生物学博士号を持った弁護士」や「化学博士号を持ったMBA」を養成する余地を残している。日本の大学人はしばしば、官僚や政治家が現場の実情を理解していないことや、科学ジャーナリズムの質が低いことを嘆く。しかし一方では、博士号を保持し、研究を理解したうえでこれらの業界に進出しようとする若手を養成するどころか、ひどい場合は足を引っ張ることすらしてきたのが日本の大学であるだろう。当然、この悪しき慣習の解消は積極的に行われるべきである。
 また、例えば欧米で多く行われているサイエンスショップという形式がある。これは、大学研究者と市民(具体的にはNPOや住民団体であることが多い)の間を介在し、市民のニーズに沿った研究を両者の協力の下、行うと言うものである。むろん、この第一の意義は専門知識を社会に還元するという点にある。同時に、このシステムを大学のカリキュラムに組み込むことの重要な効果として、学生にOnJTの機会を与えることが指摘できるだろう。
 契約不履行の続く現状において、現在ある大学の危機を解決するためには、院生を含めた大学研究者が、社会と積極的に関わり、社会との関係を再構築していくという実践的かつ地道な活動をおこなう必要があるだろう。NPOは一つの方法論に過ぎない。しかし、大学が社会とのギャップを埋め、再契約を結ぶことにより、新たな信頼関係を構築するための触媒の一つにはなりうるであろう。
 
 (注) サイエンス・コミュニケーションのウェブサイトはhttp://scicom.jp/
 

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このページは、かすががOctober 17, 2004 4:20 PMに書いたブログ記事です。

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