年越し派遣村の話の続き。派遣村による発表(1月5日)によると、「ボランティア登録 昨日まででのべ1692人」「カンパ総額 銀行振込分以外で2315万円」らしい。…これ、東京だけの話だよね? よく集まったものだと思う。
どうも、最近は2ちゃんねるが「サイレント・マジョリティの代弁(represent)の場」と見なされている部分があるけど、2ちゃんねる的な自己責任論が日本社会のマジョリティだとすれば、集まる金額ではないでしょう。
mainichi.jpによれば、坂本哲志総務政務官(衆院熊本3区選出)が「本当にまじめに働こうとしている人たちが日比谷公園に集まってきているのかという気もした」と述べた。そのうえで「(集まった人が)講堂を開けろ、もっといろんな人が出てこいと(言っていたのは)、学生紛争の時の戦術、戦略が垣間見えるような気がした」と続けたらしいですが、政治家として間違っている(まじめに働こうとしていようがいまいが、満足に帰る家のない暮らしを強いられるのは憲法違反だ)だけでなく、昨今の国民感情を読めていないのではないか、と。
さて、今回のような社会運動が組織できる「市民力」みたいなものができたことは日本のキャパシティをあげるものとして評価できるはずだ、というのが昨日の記事の趣旨でした。
ただ、そういったソーシャル・キャピタルはもうちょっとクローズドな親族ネットワークで本来維持されてきたものであったはずで、そういった社会とどちらがマシだったのか、というのは考えてみる価値があります。
さまざまな(本来あった)社会的ネットワークは、比較的最近(たぶんここ2,30年で)急速に崩壊しているのだという印象を持っています。
もちろん、その背景にはネオリベラル経済政策があるということになるでしょうが、単にそれだけでもなく、もっと根本的な、社会をどうデザインするかの哲学が変革期にあるのだととらえるべきかもしれません。
アメリカに関してはロバート・パットナムの『孤独なボウリング』やシーダ・スコッチポルの『失われた民主主義』が扱っているテーマですね。
私的ネットワークでの社会保障は(例えば結婚制度についての世代間対立のようなことを考えれば)維持するのが非常に面倒なものでもあります。
一方で学者(私も含めて)は社会を考えるモデルが、比較的高学歴な都市住民になりがちなこともあって、つい「自律した個人からなる非営利・オープンな社会的ネットワーク」みたいなものを賞賛しがちであったりします。
実際、私自身も「1992年のリオ・サミット以降、環境や貧困の問題で活動するNGOの意義が見直され、ボトムアップからの参加型民主制が重視されるようになりました」みたいな発達史観の説明をすることも多いわけです。
もちろん、嘘をついているつもりは全くありませんが、一方でそれは(極端に言えば)「国際NGOなどにも参画でき、英語による、政治・経済の議論に対応できる高学歴エリート層の支配する<NGO>群が誕生したに過ぎない」と見ることもできるわけです。
そのあたりはきちんと警戒して、真にボトムアップのネットワークとは何かについて考えていかなければいけない、というのがパトナムらの研究から読み取るべき教訓だと思っています。
このブログは「Twitterよりちょっと長い」ぐらいの記事を更新していこうと思ったのですが、どうしてもこの問題は長くなるなぁ…。
どうも、最近は2ちゃんねるが「サイレント・マジョリティの代弁(represent)の場」と見なされている部分があるけど、2ちゃんねる的な自己責任論が日本社会のマジョリティだとすれば、集まる金額ではないでしょう。
mainichi.jpによれば、坂本哲志総務政務官(衆院熊本3区選出)が「本当にまじめに働こうとしている人たちが日比谷公園に集まってきているのかという気もした」と述べた。そのうえで「(集まった人が)講堂を開けろ、もっといろんな人が出てこいと(言っていたのは)、学生紛争の時の戦術、戦略が垣間見えるような気がした」と続けたらしいですが、政治家として間違っている(まじめに働こうとしていようがいまいが、満足に帰る家のない暮らしを強いられるのは憲法違反だ)だけでなく、昨今の国民感情を読めていないのではないか、と。
さて、今回のような社会運動が組織できる「市民力」みたいなものができたことは日本のキャパシティをあげるものとして評価できるはずだ、というのが昨日の記事の趣旨でした。
ただ、そういったソーシャル・キャピタルはもうちょっとクローズドな親族ネットワークで本来維持されてきたものであったはずで、そういった社会とどちらがマシだったのか、というのは考えてみる価値があります。
さまざまな(本来あった)社会的ネットワークは、比較的最近(たぶんここ2,30年で)急速に崩壊しているのだという印象を持っています。
もちろん、その背景にはネオリベラル経済政策があるということになるでしょうが、単にそれだけでもなく、もっと根本的な、社会をどうデザインするかの哲学が変革期にあるのだととらえるべきかもしれません。
アメリカに関してはロバート・パットナムの『孤独なボウリング』やシーダ・スコッチポルの『失われた民主主義』が扱っているテーマですね。
私的ネットワークでの社会保障は(例えば結婚制度についての世代間対立のようなことを考えれば)維持するのが非常に面倒なものでもあります。
一方で学者(私も含めて)は社会を考えるモデルが、比較的高学歴な都市住民になりがちなこともあって、つい「自律した個人からなる非営利・オープンな社会的ネットワーク」みたいなものを賞賛しがちであったりします。
実際、私自身も「1992年のリオ・サミット以降、環境や貧困の問題で活動するNGOの意義が見直され、ボトムアップからの参加型民主制が重視されるようになりました」みたいな発達史観の説明をすることも多いわけです。
もちろん、嘘をついているつもりは全くありませんが、一方でそれは(極端に言えば)「国際NGOなどにも参画でき、英語による、政治・経済の議論に対応できる高学歴エリート層の支配する<NGO>群が誕生したに過ぎない」と見ることもできるわけです。
そのあたりはきちんと警戒して、真にボトムアップのネットワークとは何かについて考えていかなければいけない、というのがパトナムらの研究から読み取るべき教訓だと思っています。
このブログは「Twitterよりちょっと長い」ぐらいの記事を更新していこうと思ったのですが、どうしてもこの問題は長くなるなぁ…。
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